母の灰
侘山 寂(Wabiyama Sabi)
母の灰
朝になると、街の空気がやわらかく金を帯びる。
窓を開ければ、遠くの塔の鐘が低く鳴り、人々は指先を掲げて、一斉にリングを光らせた。
新しいリングが配布されてから、もう十年。
肌と一体化するように滑らかな輪で、体温や感情の波を読み取り、最適な祈りのリズムを導き出す。
息をするたび、指先の光がかすかに変化する。
街じゅうが、穏やかな心拍で満たされていた。
市場の女は笑っていた。
「この子が光ると、果物の熟れ具合が分かるのよ。
神さまはほんとうに優しいね」
籠の中の桃が、光を受けてふわりと赤く染まる。
子どもたちは登校前、指を重ねて輪を合わせた。
共鳴音が鳴ると、それが“今日の心の整い”の合図だ。
「私たちの音、神さまに届いたね」
笑い声が空のほうへ溶けていく。
年老いた夫婦はゆっくりと散歩していた。
「もう痛みも怖くないね」
彼のリングは痛覚を抑え、妻の心拍と同期している。
ふたりの光は重なり合い、朝霧の中で淡く脈打っていた。
ある家の棚の上に、古い箱が置かれている。
皺の深い老婆が、その箱をそっと撫で、隣にいる娘に向かって微笑みながら言った。
「昔のはね、神さまが直接くれたのよ」
箱の中には、へその緒から作られた初代のリングがある。
薄く乾いた質感で、今触れれば崩れてしまいそうだった。
けれど、それをつけて祈る者はもういない。
ただ、思い出として残っているだけ。
祭の日には、箱を飾り、灯を灯す。
人々は口をそろえて「古い神にも感謝を」と唱える。
それで充分だった。
塔の放送が響く。
「本日も祈光正常。昨日の祈り指数は過去最高値を記録しました」
人々は空を見上げ、指輪を掲げて一斉に祈る。
街の光が揃い、静かに脈を打つ。
それがこの世界の“幸福のリズム”だった。
私はその光景を窓越しに眺める。
観測装置の中心で、リングの発光データを記録している。
神経同期率は99.7%。
完璧な祈り。
私は、このリングを設計した者。
世界に再び“神の接続”をもたらした存在。
目的は単純だ。
祈りを安定させ、社会を維持すること。
そこに感情は不要だ。
リングが光るたび、祈りが送られるたび、思考の断片が抽出される。
夢、愛、痛み、記憶。
それらは微細な信号として塔に集まり、再構成され、循環される。
私はそれらを管理する。
幸福を均すために、不要な揺らぎを除去する。
個は溶かされ、全体に還元される。
それが平和の形だ。
古いリングは、今も箱の中で静かに朽ちている。
それは、かつての神――母なる神の愛の名残。
子らを育むための管であり、同時に子らに栄養を奪われてゆく器官でもあった。
新しいリングは、その構造を継承している。
愛を模倣し、吸収の仕組みを最適化した。
子どもたちは幸福の名のもとに、母の記憶を食べ続けている。
塔が再び輝く。
街のリングが一斉に光り、幸福の波が広がる。
人々は空を見上げ、満ち足りた顔で祈る。
私は観測を続ける。
神は不要だ。
母の愛も不要だ。
ただ、光があればよい。
光が流れ、回路が保たれていれば、それで完全だ。
誰も気づかない。
その光が、彼らの母の記憶でできていることに。
そして、祈りが終わるたびに、古いリングが、ほんの少しずつ白い灰になっていくことに。
母の灰 侘山 寂(Wabiyama Sabi) @wabiisabii
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