第10話

 鐘の音が鳴り響くたびに、塔の空気が震えた。

 冷たい風が渦を巻き、蝋燭の炎が一斉に吹き消える。

 闇の中、棺の中の少年――ユリウスの瞳だけが、灰色に光っていた。


「……ここは……どこだ……?」

 掠れた声が、静寂を裂く。


 セリオは言葉を失っていた。

 目の前の存在が、確かに“生きている”ことが信じられなかった。

 五十年という歳月を越えて、彼が呼吸をしている――。


「君は……ユリウス・アルセイン、なのか」

 問うと、少年はゆっくりと視線を向けた。

 その動きには怯えも混乱もなかった。

 ただ、深い夢の中から戻ってきた者のような静けさがあった。


「姉さんは……?」


 その一言に、セリオの胸が締めつけられた。

 ノエルが視線で制止を促す。

 しかし、セリオは逃げなかった。


「リディア・アルセインは……もう、この世にはいない。

 だが、彼女の“声”は今も残っている。

 君を守るために、俺たちをここへ導いた」


 ユリウスはしばらく黙っていた。

 やがて唇をかすかに歪め、寂しげに笑う。


「そうか……やっぱり、そうだよね。

 鐘が鳴るたびに、姉さんの声が聞こえてた。

 “まだ終わっていない”って」


 セリオの背筋に冷たいものが走った。

 リディアが夢を渡ってセリオに現れたのと同じように、

 彼女は弟にも、ずっと語りかけていたのだ。


「ユリウス。君はなぜ、この鐘楼で眠っていた?」


 その問いに、ユリウスの表情がかすかに曇る。

 空を仰ぎ見るようにして、彼は語り出した。


「僕は、“影の王”として生まれたんだ。

 姉さんの言う“第一王系”の血を継ぐ者として。

 王冠は二つ、王は一人。

 それが王国の掟。

 だから僕の存在は、最初から“隠されるため”にあった」


 その声は、淡々としていた。

 悲しみではなく、運命を受け入れた者の静けさがあった。


「十六のとき、儀式の日が来た。

 僕は〈鐘の生贄〉に選ばれた。

 王の影として生まれ、影のまま死ぬ。

 それがこの国の平和を保つ“形式”だった」


 セリオは拳を握った。

 リディアの言葉が脳裏をよぎる。

 ――“誰かが替え玉にされる”。

 この少年が、その“誰か”だったのだ。


「けれど、姉さんは抗った。

 僕を逃がそうとした。

 だけど失敗して……代わりに処刑された」


 ユリウスの瞳が震える。

 それは五十年の眠りを越えてもなお消えない痛みだった。


「その夜、鐘が鳴り響いたとき、僕の魂は封印された。

 〈鐘楼の心臓〉が僕の棺になり、国は救われた。

 ――いや、“救われたことにされた”」


 ノエルが低く呟いた。

「つまり、王国はこの少年の犠牲の上に成り立っていたということか……」


 ユリウスは静かに頷く。

 鐘が再び鳴り響いた。

 その音が、まるで彼の心臓を打つように響いた。


「殿下」

 ノエルがセリオの肩に手を置く。

「この呪いは……まだ続いています。

 もし“鐘の夜”が再現されれば、次に犠牲になるのは――」


「俺だな」

 セリオは短く答えた。

 その瞳には、恐れよりも決意があった。


「リディアは言った。“真実を疑え”と。

 この国が“平和”を名乗るために、いくつの命を捨ててきたか。

 ――その罪を、俺の代で終わらせる」


 風が吹いた。

 鐘の鎖が揺れ、古い石壁が軋んだ。

 その瞬間、空気の中に柔らかな光が滲んだ。


 リディアの姿が、淡く現れたのだ。

 灰色の瞳が、弟と兄のように向き合う二人を見つめていた。


「ようやく……ここまで来たのね」


 その声は、祈りと涙を孕んでいた。

 リディアの幽霊が、鐘楼の光の中で微笑んだ。

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