第3話
夜の塔に、静寂が降りていた。
セリオは目の前に立つ“幽霊の令嬢”から目を離せずにいた。
その姿は、どんな幻よりも鮮やかで、どんな夢よりも冷たく美しかった。
「あなたは……本当に、彼女なのですか?」
声が震えた。
彼が幼いころ、歴史書で読んだ女の名。
“リディア・ヴァン・アルセイン――王家を裏切り、処刑された悪女”。
リディアは微かに首を傾げ、淡く笑んだ。
「歴史というのは、誰が書いたかで形が変わるもの。
私が“悪”にされた理由も、あなたが知っていることとは少し違うわ」
「違う……?」
「ええ。私は王国を裏切ったのではない。
けれど、真実を語れば王が壊れる。だから黙って死を選んだの」
その言葉に、セリオの心がざわめいた。
彼の祖父――前王の代で起きた“粛清の時代”。
宰相派と王族派の権力争い。
その中心にいたのが、まさにこの女だ。
「……あなたは何を守ろうとしたのですか?」
リディアの瞳が揺れた。
銀のような光の中に、深い夜が滲んでいく。
「“国”よ。けれど、それは人々のための国ではなかった。
王が恐れ、貴族が怯え、誰も真実を語れない国だった。
私はただ……未来に、少しでも“言葉”を残したかったの」
セリオは息を詰めた。
その“言葉”という響きが、彼の心の奥を突いた。
彼自身、今の王政に疑問を抱きながら、何も変えられずにいたのだ。
「もし、あなたがその未来に伝えたい言葉を、まだ持っているなら――」
彼は、無意識に手を伸ばした。
「どうか、僕に教えてください」
その瞬間、風が止んだ。
リディアの姿が、淡く揺らめく。
まるで、彼の手に触れようとしたその指先が、霧に溶けていくように。
「……いけないわ。夢が、限界ね」
リディアは小さく笑い、遠くを見た。
「あなたは、セリオ王太子。
いずれこの国を背負う人。
ならば、どうか――真実を疑って」
「真実を……疑え?」
「そう。歴史は、常に都合の良い形で書かれる。
“悪女”と呼ばれた私のように。
けれど、疑うことは罪ではない。
それは、あなたがこの国にまだ希望を見ている証だから」
彼女の声が、風のように薄れていく。
白い花弁が、夢の中の夜に散った。
セリオはその中で、ひとり立ち尽くした。
彼女の名を呼ぼうとしても、声は出ない。
その代わりに、胸の奥で小さな灯が灯る。
彼女が残した“疑う勇気”。
それは、幼い理想主義を焼き尽くし、真の王としての目覚めを予感させた。
夢が醒めた。
セリオは寝台の上で目を開けた。
窓から朝の光が差し込んでいる。
胸の奥がまだ熱い。
「夢、か……」
呟きながらも、指先には確かな冷たさが残っていた。
まるで、誰かの手に触れた余韻のように。
机の上に、一輪の白い花が置かれていた。
昨夜、そこには何もなかったはずなのに。
セリオはその花を見つめ、静かに呟いた。
「リディア・アルセイン……あなたはいったい、何を遺したんだ?」
その問いが、これから始まる物語の扉を、静かに開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます