第2話

 霧の庭の奥に、“門”があった。

 透明な水面を縦に割ったような、揺らめく光の壁。

 その向こうには、音も匂いも感じられない世界が広がっている。


「これが“夢の門”。」

 少年は、指先で光をなぞった。

 波紋が広がるたびに、微かな声が聞こえる。

 それは、生きている誰かの祈りのようでもあり、嘆きのようでもあった。


「君が誰かの“夢”に触れるとき、この門が開く。

 けれど、行ける先は選べない。

 “君を思う者”がいる場所へ、自然と導かれるんだ」


「……私を思う者?」

 リディアは静かに息をのむ。

 彼女の死から、五十年。

 そんなにも長い時を経て、なお、自分を覚えている人など──。


 そのときだった。

 門の向こうに、一瞬、炎のような光が走った。

 誰かの声が、かすかに響く。


『――リディア・アルセイン……あなたは、本当に悪だったのですか?』


 その名を呼ぶ声音に、彼女の心が震えた。

 知らない声。けれど、奇妙なほど懐かしい響き。


 少年が目を細めて笑う。

「呼ばれてるね。行っておいで。

 でも、気をつけて。夢の中では、真実も嘘も溶け合ってる」


 リディアは頷いた。

 足を一歩、光へ踏み出す。

 身体が風にほどけるように、輪郭を失っていく。

 冷たくも温かい流れが、彼女を飲み込んだ。


 ──そして、闇が訪れる。


 少年の祈りの声を背に、リディアは落ちていった。

 深い湖の底に沈むような静けさ。

 けれど、水面の向こうに、微かな灯りが見える。


 そこは、王都の夜だった。


 リディアが最後に見たのと変わらぬ、白い塔と灯火。

 夢の中の王都は、現実よりも穏やかに、ゆっくりと時を刻んでいた。


 そして、その塔の頂に、ひとりの青年が立っていた。

 白い制服、薄金色の髪。まだ少年の面影を残す瞳が、夜空を見上げている。


 リディアは、その姿を見て、無意識に名を呟いた。

「……王家の血、なのね」


 彼の名は、セリオ・リュクス・ファーレン。

 現王太子。王国の未来を背負う若き後継者。


 彼は夢の中で、何かを探すように目を閉じていた。

 そして、ふと、呟いた。


「……なぜ、あの人は罪を受けたんだろう」


 その問いが、静かに夜気を震わせた。

 リディアの存在が、かすかに呼応する。

 彼の夢が、彼女の魂を引き寄せたのだ。


 花弁のような光が、リディアの足元に舞う。

 彼女の姿が、夢の中の夜にゆっくりと形を取り始めた。


「……あなたが、呼んだのね」


 その声に、セリオが振り返る。

 夢の中の彼は、恐れよりも驚きに近い表情を見せた。


「君は……誰?」


「私は、過去の亡霊。

 罪を負い、名を失った女。」


 風が吹く。

 白い霧が二人の間を渡り、月光が静かに射す。


 セリオはその光景を、息を呑んで見つめていた。

 その姿は、歴史書の片隅に描かれた“悪役令嬢リディア・アルセイン”そのものだった。

 けれど、そこに立つ彼女は冷たくも残酷でもなく、どこか悲しいほどに穏やかだった。


「……あなたは、本当に――悪だったのですか?」


 セリオの問いが、再び夜空に溶ける。

 リディアは静かに微笑んだ。


「さあ、それを確かめるのは……あなたの夢の中で、でしょうね。」


 霧が再び深くなる。

 夢の世界に、ゆっくりと鐘の音が響いた。

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