第2話 虚構の記憶
月が、ゆっくりと雲の向こうへ隠れていく。
夜の王都は眠りにつこうとしていた。
だが、レオンの部屋だけはまだ明かりが灯っている。
机の上には開かれたままの古文書。
焦げた頁の隙間に、指先で書き留めた自分の筆記が散らばっていた。
“実験体No.17”――その文字が何度も、何度も繰り返されている。
窓の外。
路地に立つ黒衣の男が、微かに笑ったように見えた。
「ようやく思い出したか――レオン。
いや、“実験体No.17”。」
その声が頭の奥に焼き付いて離れない。
胸の鼓動が、痛みのように強く跳ねる。
レオンは剣を手に、窓から飛び降りた。
夜気が肌を刺す。
王都の街路灯が、石畳に淡い光を落としている。
黒衣の男は、路地の奥へと歩き出した。
背中を見失わぬよう、静かに追う。
足音を消しながら、呼吸を整える。
風の音の中に、男の靴底の“コツ、コツ”という音だけが響いていた。
やがて、路地は広場へと続く。
月光の差す中央に、男は立ち止まり、振り向いた。
その仮面の下には、
思いもよらぬ顔があった。
「……お前は――」
「やあ、久しぶりだな。蓮。」
その声。
その笑い方。
忘れるはずがなかった。
黒衣の下にいたのは、
前世――“佐藤 蓮”が唯一心を許した、ネット仲間のひとり。
神谷ユウト。
「どうして……お前が……」
「驚くのも無理はないな。けど、これは夢でも幻でもない。」
男――ユウトは静かにフードを下ろした。
その顔は、あの頃のままだった。
深夜のモニター越しに笑っていたときの表情。
無邪気さと諦念の混じった笑み。
「俺も“転生者”だよ。お前と同じように、実験体として生まれ変わった。」
「実験体……? 本当に、あの古文書の記述が現実なのか?」
「ああ。俺たちは“リ・ゼロ計画”の被験者。
死の瞬間にデータ化された意識を、別の世界に転写する――。
神なんていなかった。いたのは、俺たちを創った“研究者”たちだけだ。」
レオンの胸の奥で、何かが軋むように音を立てた。
信じたくなかった。
祈り、戦い、救ったはずの人々。
彼らの笑顔も涙も、
ただの「実験の産物」だというのか。
「……そんなこと、あるはずがない。」
「“あるはずがない”と思いたいのはお前のほうだ。
けどな、レオン。お前の世界は“造られた現実”だ。
俺たちの記憶が、それを証明してる。」
ユウトの目が静かに光る。
どこか冷たく、それでいて悲しげに。
レオンは剣の柄を握りしめた。
刃先が、わずかに震える。
それは怒りではなく、恐怖のせいだった。
(この世界が虚構なら……俺は何のために戦ってきた?
誰かを救うためでも、理想を叶えるためでもなかったのか?)
ユウトは一歩近づく。
夜風がそのマントを揺らした。
「俺たちは選ばれなかった。けど、作り直された。
お前は成功例。俺は――監視者として残された失敗作だ。」
「監視者……」
「お前の記憶が完全に戻る前に、処分する役目を与えられている。
だが、俺はそれを拒んだ。
“友達”を殺すなんて、できるわけないだろ。」
ユウトは微笑んだ。
その目に宿るのは、痛みと懐かしさ。
レオンは言葉を失い、ただ立ち尽くす。
しばらく、風の音だけが二人の間を流れた。
やがて、ユウトが小さく呟く。
「この世界を壊したいと思ったことはないか?」
「……何を言っている。」
「ここは現実じゃない。人の記憶と願望が組み合わされてできた仮想世界だ。
俺たちはこの箱庭の中で“物語”を繰り返している。
でも、もし壊せたら――お前は、本当の自分に戻れる。」
レオンの指先が震えた。
頭の奥で警鐘が鳴る。
“壊す”という言葉に、理由のない恐怖が湧き上がった。
「俺は……この世界の人たちを守るために戦ってきたんだ。
彼らを犠牲にしてまで“現実”を取り戻すなんて、できるはずがない。」
ユウトは微かに笑い、
その表情に寂しさが滲んだ。
「……やっぱり、お前は変わらないな。
理想主義で、正しいことを信じる。
けどな、レオン。理想は、作られた世界にしか存在しない。」
風が吹いた。
ユウトの姿が淡く揺らぎ、まるで映像が乱れるようにノイズが走った。
「……!? おい、どうした!」
「時間だ。……すぐに“観測者”が来る。
あいつらに見つかるな。次は、昼の鐘が鳴る頃に。」
そう言い残し、ユウトの姿は消えた。
その瞬間、世界がわずかに歪む。
空気がざらつき、石畳が波打つように揺れた。
耳鳴り。
次いで、激しい閃光。
レオンは咄嗟に目を閉じ――
「――レオン様っ!」
目を開けると、そこは宿の部屋だった。
朝の光が差し込み、リリアが心配そうに覗き込んでいる。
頬に触れる手が、温かい。
「夢……だったのか?」
「夢? 何を言ってるの?」
「いや……すまない、少し寝不足みたいだ。」
立ち上がろうとした瞬間、
机の上に置かれた一枚の紙が目に入った。
白い便箋。
そこには短い文字が書かれていた。
《昼の鐘が鳴る頃に。 —Y》
レオンの手が震えた。
夢ではなかった。
ユウトは、確かにこの世界に“存在”している。
リリアが不安げに首を傾げる。
「兄さま、どうしたの?」
「……いや、何でもないよ。」
朝の光が、石畳を銀色に染めていた。
市場の露店が開き、人々の笑い声が通りを満たしていく。
パン屋の煙突から立ち上る香ばしい匂い。
子どもたちの笑い声。
すべてがいつも通りの、王都の朝だった。
――けれど、レオンの胸の奥では何かがずっと軋んでいた。
「兄さま、今日は外を歩きませんか? お花がきれいに咲いてるんです。」
リリアの声が、やわらかく響く。
振り返ると、陽光を受けた金色の髪が揺れていた。
あどけなさと可憐さを併せ持つ笑顔。
彼女はこの世界で初めて、レオンに「家族」を感じさせてくれた存在だった。
「そうだな。……散歩でもしようか。」
そう答えた声が、わずかに掠れていた。
夢のことは言えない。
あの“監視者”の存在を知られれば、彼女たちを巻き込むことになる。
理性はそう訴えているのに、胸の奥では、もう一度“真実”に触れたい衝動が渦巻いていた。
***
王都の花園通り。
春に近い風が、花弁をふわりと舞い上げる。
リリアは立ち止まり、小さな花を摘みながら笑った。
「ねえ兄さま。この前のデート、楽しかった?」
唐突な問いに、レオンは少し息を呑んだ。
――その“デート”の最中に、あの囁きが聞こえたのだ。
「もちろん、楽しかったよ。君は楽しめたか?」
「うん……でも、あのあと、兄さま少し怖い顔してたから。」
リリアの指先が花びらを撫でる。
その仕草はいつものように穏やかで、それゆえに胸を締めつけた。
彼女は何も知らない。
この世界のどこかに、虚構の綻びがあることも。
「心配かけたな。少し疲れてただけだ。」
レオンは笑ってごまかす。
だが、目の奥にある影までは消せない。
リリアは一瞬だけ悲しそうに目を伏せ、
次の瞬間、無理に明るく笑って彼の腕を引いた。
「じゃあ、元気出して! お昼はエリスさまがご一緒なんですよ。
新しいお茶を手に入れたって。」
「エリスが……?」
その名を聞いた瞬間、
胸の奥に冷たいものが走る。
――昼の鐘が鳴る頃に。
ユウトの残した言葉が、脳裏にこだまする。
***
昼下がり。
城の庭園。
白い大理石のテラスで、エリスが香り立つ茶を淹れていた。
彼女の指先は優雅で、動作のひとつひとつに品がある。
だが、レオンはその仕草に微かな“違和感”を覚えた。
カップを差し出す手。
笑う角度。
まるで――昨日とまったく同じ所作を、完璧に再現しているかのようだった。
「……どうかしたの?」
「いや。少し、 déjà vu を感じただけだ。」
エリスは柔らかく微笑んだ。
「夢でも見たのかもしれないわ。あなた、昨日あまり眠っていなかったでしょう?」
そう言って笑う声が、まるで録音を再生したように均一だった。
わずかな音の遅れも、呼吸の揺れもない。
完璧すぎる笑顔。
そこに“人の揺らぎ”がない。
(……まさか。)
視線の端で、庭師の老人が花を剪定しているのが見えた。
その動き――
昨日とまったく同じ順番で、同じ花を、同じ回数切っている。
背筋が粟立つ。
風が止まり、音が消えたように感じた。
すべてが“再生されている”。
「兄さま?」
リリアの声に、我に返る。
彼女の瞳は純粋で、何の不自然さもない。
その無垢さが、逆に恐ろしかった。
「……リリア、少し城の外を歩いてこよう。」
「え? でも――」
「すぐ戻る。エリスには伝えておいてくれ。」
言い終える前に、レオンは踵を返していた。
足音が、白い回廊に響く。
胸の鼓動が早まる。
“昼の鐘”まで、あとわずか。
***
街の広場。
太陽が真上に昇り、教会の鐘楼が金色に光っていた。
一度。二度。
ゆっくりと鐘が鳴り響く。
――そのとき。
人々の動きが、止まった。
パンを売る商人も、笑う子どもも、
まるで時間を切り取られたように静止している。
空気だけが、微かに震えていた。
「……やはり、そういうことか。」
声の主を探すまでもなかった。
広場の中央、噴水の縁に腰かけている男――
ユウトだった。
「やあ、来たな。“レオン”じゃなく、“蓮”として話そうか。」
「ここで何をしている。……これは、お前の仕業か?」
ユウトは肩をすくめて笑う。
「違う。これが“この世界の正体”だよ。
観測が切り替わるたびに、時間が巻き戻る。
人々は同じ昼を、何百回も繰り返しているんだ。」
「……俺たちも、その一部だと?」
「そう。けれど俺たちの意識は、時の断層を越えた。
だから“気づける”。」
レオンは目を伏せた。
街の喧騒が凍りついたまま、
風のない世界に自分の呼吸だけが響く。
「なぜ俺たちは、ここに閉じ込められている。」
「それを知るために、俺は残った。
そしてお前を“目覚めさせる”ために、今ここにいる。」
ユウトはゆっくりと立ち上がる。
その背中に、かすかな悲壮が滲む。
「このままじゃ、お前も壊れる。
この世界に“気づいた”存在は、順に削除される。
……観測者が、来る前に。」
「観測者……?」
ユウトは何かを言いかけて、ふと口を閉ざした。
そして微笑む。
「次に会う時、俺はもう“俺”じゃないかもしれない。
だが、必ず――お前を現実へ導く。」
レオンが手を伸ばすより早く、
彼の姿はまたノイズに呑まれて消えた。
世界が揺れ、空の色が反転する。
鐘が、最後の一音を鳴らし終えたとき――
街に、再び人の声が戻った。
***
「兄さま? どうしたの、顔色が悪いわ。」
リリアの声。
広場の喧騒。
すべてが“最初に戻っていた”。
だが、ユウトの残した言葉だけは確かに残っている。
「気づいた者は削除される。」
胸の奥に、冷たい針が刺さったまま。
レオンはゆっくりと空を見上げた。
その瞳の奥で、確かに何かが“目覚めかけていた”。
彼は微笑みながら答えた。
だがその笑みの裏で、
心の奥では冷たいものが静かに流れ始めていた。
朝の光が、石畳を銀色に染めていた。
市場の露店が開き、人々の笑い声が通りを満たしていく。
パン屋の煙突から立ち上る香ばしい匂い。
子どもたちの笑い声。
すべてがいつも通りの、王都の朝だった。
――けれど、レオンの胸の奥では何かがずっと軋んでいた。
「兄さま、今日は外を歩きませんか? お花がきれいに咲いてるんです。」
リリアの声が、やわらかく響く。
振り返ると、陽光を受けた金色の髪が揺れていた。
あどけなさと可憐さを併せ持つ笑顔。
彼女はこの世界で初めて、レオンに「家族」を感じさせてくれた存在だった。
「そうだな。……散歩でもしようか。」
そう答えた声が、わずかに掠れていた。
夢のことは言えない。
あの“監視者”の存在を知られれば、彼女たちを巻き込むことになる。
理性はそう訴えているのに、胸の奥では、もう一度“真実”に触れたい衝動が渦巻いていた。
***
王都の花園通り。
春に近い風が、花弁をふわりと舞い上げる。
リリアは立ち止まり、小さな花を摘みながら笑った。
「ねえ兄さま。この前のデート、楽しかった?」
唐突な問いに、レオンは少し息を呑んだ。
――その“デート”の最中に、あの囁きが聞こえたのだ。
「もちろん、楽しかったよ。君は楽しめたか?」
「うん……でも、あのあと、兄さま少し怖い顔してたから。」
リリアの指先が花びらを撫でる。
その仕草はいつものように穏やかで、それゆえに胸を締めつけた。
彼女は何も知らない。
この世界のどこかに、虚構の綻びがあることも。
「心配かけたな。少し疲れてただけだ。」
レオンは笑ってごまかす。
だが、目の奥にある影までは消せない。
リリアは一瞬だけ悲しそうに目を伏せ、
次の瞬間、無理に明るく笑って彼の腕を引いた。
「じゃあ、元気出して! お昼はエリスさまがご一緒なんですよ。
新しいお茶を手に入れたって。」
「エリスが……?」
その名を聞いた瞬間、
胸の奥に冷たいものが走る。
――昼の鐘が鳴る頃に。
ユウトの残した言葉が、脳裏にこだまする。
***
昼下がり。
城の庭園。
白い大理石のテラスで、エリスが香り立つ茶を淹れていた。
彼女の指先は優雅で、動作のひとつひとつに品がある。
だが、レオンはその仕草に微かな“違和感”を覚えた。
カップを差し出す手。
笑う角度。
まるで――昨日とまったく同じ所作を、完璧に再現しているかのようだった。
「……どうかしたの?」
「いや。少し、 déjà vu を感じただけだ。」
エリスは柔らかく微笑んだ。
「夢でも見たのかもしれないわ。あなた、昨日あまり眠っていなかったでしょう?」
そう言って笑う声が、まるで録音を再生したように均一だった。
わずかな音の遅れも、呼吸の揺れもない。
完璧すぎる笑顔。
そこに“人の揺らぎ”がない。
(……まさか。)
視線の端で、庭師の老人が花を剪定しているのが見えた。
その動き――
昨日とまったく同じ順番で、同じ花を、同じ回数切っている。
背筋が粟立つ。
風が止まり、音が消えたように感じた。
すべてが“再生されている”。
「兄さま?」
リリアの声に、我に返る。
彼女の瞳は純粋で、何の不自然さもない。
その無垢さが、逆に恐ろしかった。
「……リリア、少し城の外を歩いてこよう。」
「え? でも――」
「すぐ戻る。エリスには伝えておいてくれ。」
言い終える前に、レオンは踵を返していた。
足音が、白い回廊に響く。
胸の鼓動が早まる。
“昼の鐘”まで、あとわずか。
***
街の広場。
太陽が真上に昇り、教会の鐘楼が金色に光っていた。
一度。二度。
ゆっくりと鐘が鳴り響く。
――そのとき。
人々の動きが、止まった。
パンを売る商人も、笑う子どもも、
まるで時間を切り取られたように静止している。
空気だけが、微かに震えていた。
「……やはり、そういうことか。」
声の主を探すまでもなかった。
広場の中央、噴水の縁に腰かけている男――
ユウトだった。
「やあ、来たな。“レオン”じゃなく、“蓮”として話そうか。」
「ここで何をしている。……これは、お前の仕業か?」
ユウトは肩をすくめて笑う。
「違う。これが“この世界の正体”だよ。
観測が切り替わるたびに、時間が巻き戻る。
人々は同じ昼を、何百回も繰り返しているんだ。」
「……俺たちも、その一部だと?」
「そう。けれど俺たちの意識は、時の断層を越えた。
だから“気づける”。」
レオンは目を伏せた。
街の喧騒が凍りついたまま、
風のない世界に自分の呼吸だけが響く。
「なぜ俺たちは、ここに閉じ込められている。」
「それを知るために、俺は残った。
そしてお前を“目覚めさせる”ために、今ここにいる。」
ユウトはゆっくりと立ち上がる。
その背中に、かすかな悲壮が滲む。
「このままじゃ、お前も壊れる。
この世界に“気づいた”存在は、順に削除される。
……観測者が、来る前に。」
「観測者……?」
ユウトは何かを言いかけて、ふと口を閉ざした。
そして微笑む。
「次に会う時、俺はもう“俺”じゃないかもしれない。
だが、必ず――お前を現実へ導く。」
レオンが手を伸ばすより早く、
彼の姿はまたノイズに呑まれて消えた。
世界が揺れ、空の色が反転する。
鐘が、最後の一音を鳴らし終えたとき――
街に、再び人の声が戻った。
***
「兄さま? どうしたの、顔色が悪いわ。」
リリアの声。
広場の喧騒。
すべてが“最初に戻っていた”。
だが、ユウトの残した言葉だけは確かに残っている。
「気づいた者は削除される。」
胸の奥に、冷たい針が刺さったまま。
レオンはゆっくりと空を見上げた。
その瞳の奥で、確かに何かが“目覚めかけていた”。
エリスは、鏡の前で髪を整えていた。
薄く香る花のオイルが、部屋に静かな気配を満たしていく。
整った動作。柔らかい微笑み。
――そのすべてが、もう自分のものではない気がしていた。
鏡の奥。
映る自分の顔が、一瞬だけ“ノイズ”を走らせた。
歪む輪郭。揺れる瞳。
その瞬間、心臓がぎゅっと痛む。
(また……この感覚。)
一度なら、夢のせいだと思えた。
けれど、それは日に日に頻度を増している。
まるで、自分という“プログラム”が崩れ始めているかのように。
彼女は鏡から視線を逸らし、窓辺へと歩いた。
外では、リリアとレオンが談笑している。
リリアが笑い、レオンが優しく答える。
その光景は、絵のように美しく――けれど、どこか“同じ”だ。
昨日も、同じ時間、同じ言葉、同じ笑い。
まるで世界が再生されているようだった。
「……わたしも、気づいてしまったのね。」
唇から零れた言葉に、自分でも驚いた。
心の奥に何かが“解凍”されていく。
溶け出したのは、異なる記憶。
白い壁。光るパネル。無機質な天井。
冷たい声が、耳の奥で囁いた。
「被験体No.06、情動パラメータ安定。
次回観測まで、再構築モードを維持。」
――誰かが、自分を“観測”していた。
「……いや。」
胸の奥が焼けるように痛い。
指先が震え、思わずテーブルの上のカップを倒してしまう。
紅茶が絨毯に広がる。
それを見ているうちに、なぜか涙が溢れた。
「どうして、こんなに悲しいの……?」
ノックの音。
反射的に顔を拭う。
扉の向こうから、リリアの声がした。
「エリスさま? お加減が悪いのですか?」
「……大丈夫よ。少し考え事をしていただけ。」
「兄さまが探していましたよ。」
“兄さま”――その言葉を聞いた瞬間、
心の奥が波立った。
レオン。
あの人を見ると、胸が温かくなる。
けれど、その感情の奥に、説明できない“罪悪感”が潜んでいる。
まるで、許されぬ記憶を共有しているような。
(わたしは……彼を、知っている? この世界よりも前から?)
扉を開ける。
廊下の奥、陽光の中にレオンが立っていた。
彼の瞳が、どこか翳って見える。
けれど、それが一層彼を美しくしていた。
「エリス、顔色が悪い。大丈夫か?」
「ええ……あなたこそ、何かあったのでは?」
視線が交差する。
その瞬間、胸の奥がざらついた。
――目の前の彼が“別の誰か”の影を重ねて見える。
ユウトの言葉が脳裏を過ぎる。
「この世界は仮想の箱庭だ。君たちは、設定された人格だ。」
(……いや、違う。そんなはず……)
「エリス?」
「ごめんなさい。少し……考えごとを。」
レオンが優しく頷く。
その動作の柔らかさに、心が揺れる。
――だが、その瞬間だった。
空気が、震えた。
風が止まり、鳥の声が消える。
時間が凍るように、世界が“静止”する。
庭の木々が止まり、花弁が空中で止まったまま。
ただ一つ、音を発しているのは――頭の奥の“囁き”だけ。
「観測開始。被験体06、意識領域異常検知。」
「……誰?」
声が出ない。
喉が凍りついたように動かない。
視界の端が、白く滲む。
レオンが何かを言っている――けれど、その声が届かない。
彼の姿が波打ち、像が崩れ、断片になって消える。
代わりに、空間の中央に“白衣の人物”が現れた。
顔は光に覆われ、輪郭が曖昧だ。
まるで存在そのものが曖昧な、“観測者”。
「……あなたが、観測者なの?」
「そう呼ぶなら、それで構わない。
君たちは記録であり、記憶だ。私たちの実験は順調だ。」
「実験……? じゃあ、私たちは本当に――」
「現実ではない。」
その言葉が、冷たく落ちた。
エリスの足元が崩れ落ちる。
床が波のように揺れ、白い光が一面を覆う。
「再構築を開始。
被験体06、情動領域の欠損を検知。
感情データを再同期します。」
「やめて……! 私は“生きている”!
あなたたちに作られたものじゃない!」
叫びが光に呑まれる。
目の奥で、世界が割れるような音がした。
白衣の人物の声が、遠くで響く。
「錯覚だよ、エリス。
君たちは“物語”の中でしか存在できない。」
そして、闇。
***
目を開けると、レオンが手を握っていた。
柔らかい陽光が差し込む部屋。
リリアの安堵の声。
すべてが穏やかな“現実”に見えた。
「気を失ってたんだよ、エリス。
少し休んだほうがいい。」
レオンの声が優しい。
けれど――彼の瞳の奥に、“ノイズ”が見えた。
ほんの一瞬、静止した世界の残滓。
エリスは唇を震わせながら、小さく微笑んだ。
「……ええ、そうね。少し……夢を見ていたの。」
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
「――夢の中で、あなたが“蓮”って呼ばれていたの。」
レオンの瞳が、わずかに揺れた。
風がカーテンを揺らし、部屋に冷たい光が差し込む。
外では、昼の鐘が――また、鳴り始めていた。
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