春光に咲く
刻堂元記
単話 春光に咲く
繊細なタッチが微かな余韻を生み出す。僅かな音の強弱と緩やかな高低差が特徴的な古典音楽、シェルロムの第6番〘春風に包まれて〙は息吹を告げる伸びたトーンから始まる。クセのないリズムをどう解釈していくか。それは弾き手である演奏者の判断が全て。その為にこの曲はクラシックでありながら、課題曲というお決まりの約束を通じて、広く人々に知れ渡っている。
全奏独演大会、通称『独奏会』の花形、ピアノ部門。その中でも最後の独奏が一際、異質さを放っていた。フィナーレと呼ぶに値する挑戦的な走り。喝采を送りたくなる指の滑らかさ。加えて年齢不相応の綺麗な背筋は盤上を踊る手先と違い、ほとんど動かない。まさに五線譜をモノにした孤高のピアニスト。
なのに表情は暗い。前髪で隠れた両目からは、感情の奥行きがすっかり失われている。一体何があったのか、何がそうさせたのか、聴衆は知る由もない。曰く、音楽への道が完全に絶たれたからだと言うが、詳しい事情は不明。真実は闇の向こうで口を結んでいる。
沈黙を共有した空間の下。春を予感させる生命が会場を呑み込む。冬のような孤独に居座る演奏者とは対照的に、観客席は感動の渦に流されていた。
圧巻の技術を晒す。演奏終わりの背中には、苦悩が重く伸し掛かっている。盛大な拍手も意味は為さず、ただ忙しなく叩かれるのみ。もはや、去りゆく後ろ姿の内心を理解する者は誰1人として存在していない。
それ故に、悲しみが混じる。長い時間の繋がりが涙を孕む。やがては零れ、落ちては消える涙腺のせせらぎ。別れの合図。見切り。
と同時に春の情景が薄れ、照明が戻された。盤上から舞台上への主役の変わり目。列を成した奏者たちが行儀よく前を向き、頭を下げる。緊張の一瞬は風を切るように通り過ぎた。名のある表彰式の下、各部門の頂点がトロフィー片手に笑顔を振り撒く。
将来を左右する独奏会のエンドロール。その一部となって散る。早過ぎた才の終幕に儚さが滲んだ。退場という時の流れに身を任せ、次なる場所に迷う。
境界を越えた非日常の含有。その消失が日常を紺に、そして黒く染める。夜空にかかる霧のような薄雲。とはいえ、星は弱く光を発するに留まっている。不明瞭な晩の雲行きは、優勝を掴んだピアニストの行く末か。
喧騒に阻まれ、過程がリズムを外す。ノイズの存在が酷く思考を揺らしては遊ぶ。沈黙の中断。
発声が応答を呼び、静寂を促しては消える。寝静まった夢の奥地で交わした約束。誓いの言葉はもう届かない。歴史に記された希少な栄誉の名残り。
その結晶が綻びを生み、欠片となって砕けた。今際の情緒が眠る不安定な沈下の最中。
どこかでシェルロムの第4番〘白銀の到来〙が、無機質な様相を伝って退屈に符号を辿る。意味の無い反復。それに伴うのは不文律とも取れる8小節。介してメロディはループする。
季節を感情と捉えた一幕。付随する記号が休符に変わっていく。垂れ込めた暗雲の兆しに空気が止まった。一変する合図に、音階が激しい上下を繰り返す。
轟々と鳴る旋律。振動の拡大に複音が揺れた。勢いに乗る吹雪が駆け抜けては遠く過ぎる。
冷たさを残した特徴の側で、雪化粧が世界を覆う。寒空の下に凍える大地。動かない樹木の裸体。そして時節、風邪を引いたように木枯らしが吹き、大気を震わせる。白に埋もれた展望に、枯れ葉だけが弱々しく微笑む。見せたくはない不安の底。
調子を尋ねるかのように音符が転がる。覆い隠された本音だけが行き場なく溶けていく。やりきれなさと諦め。それは経過と共に風化し、過去として佇む。雪解けの春。決別は次の花を咲かせるため蕾を繕う。
新たなる前進。次なる人生。踏み出すテンポが徐々に加速して走り出す。いつもとは異なる春の訪れ。固有のビートが未知の曲名を語る。そのタイトルは――。
春光に咲く 刻堂元記 @wolfstandard
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