3話

事故は、突然起きた。

病院からの電話を受けて、僕は病院に駆けつけた。ICUの前で、医師が僕に説明した。

横断歩道を渡っている時、暴走車が突っ込んできたという。

脊椎損傷。頸椎の第五番と第六番の間。首から下の完全麻痺。

彼女は一時、昏睡状態に陥った。

回復の見込みは、ほぼゼロ。


それから、僕は毎日病院に通った。

でも、彼女は眠ったままだった。

ベッドの横に座って、彼女の手を握る。温かいが、動かない。


部屋に戻った時、僕は彼女の幻影を探していた。

散らかった部屋は彼女がいなかった時の僕を想起させる。

机の上には、脱ぎ捨てた服、読みかけの本、開きっぱなしの教科書。事故の連絡を受けてから、何も手につかなかった。片付ける気力もなかった。

冷蔵庫を開ける。

中には、彼女が買ってきた食材が残っていた。卵、小麦粉、牛乳。

ああ、そうだ。

彼女は、パンケーキを作ってくれたんだ。


自然と体はパンケーキを作り出していた。

僕はフライパンを取り出して、卵を割る。牛乳を注ぐ。小麦粉を混ぜる。

彼女がやっていたように。

でも、うまくいかない。

生地がダマになる。フライパンにこびりつく。焦げる。

それでも、僕は作り続けた。

何枚か失敗して、やっとそれらしい形になった。

蜂蜜をかける。

甘い香りが部屋を満たした気がした。

散らかった机の上に、皿を置く。

窓の外では、雨が激しく降っている。

僕はパンケーキを一口食べた。

味がしなかった。

いや、味はあるのだろう。でも、僕には分からなかった。

彼女に出会ってから、僕の世界は色づいた。

灰色だった日々に、春の花の色が見えるようになった。

無味乾燥だった食事に、香りと味を感じるようになった。

でも、今は何も感じない。

僕はパンケーキを食べ続けた。

味のしない、でも彼女を思い出させる、パンケーキを。

土砂降りの雨が、窓を叩き続けた。


その夜、病院から電話があった。

「意識が戻りました」

受話器を握る手が震えた。

僕は外に飛び出した。

空から、冷たい雨が降っていた。氷雨だ。

アスファルトは濡れて黒く光り、街灯が雨に反射して明滅している。傘を差す暇もなく、僕は走った。

街灯の光が、雨粒を照らしている。点いて、消えて、また点いて。

明滅する光の中を、僕は走る。

ああ。

これが終わりの始まりかもしれない。

彼女に出会ってから、僕の世界は色づいた。灰色だった日々に、春の色が戻ってきた。

でも、それも終わるのかもしれない。

彼女が目覚めて、現実を知る。

動けないことを知る。

そして、彼女は何を言うだろう。

何を望むだろう。

僕の胸に、重い予感が沈んでいく。

まるで、蠟燭の最期の火を見ているような。

明るく燃えて、でももうすぐ消える。

そんな予感。

病院に着いた時、僕はずぶ濡れだった。

看護師が驚いた顔でタオルを差し出してくれたが、僕はそれを断って、彼女の病室に向かった。


彼女は、ベッドの上で目を開けていた。

「……来てくれたんですね」

彼女の声は、いつもより小さかった。

「当然です」

「ごめんなさい。こんな姿、見せたくなかった」

彼女の目には涙が浮かんでいた。

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