三日目 Echo
涙で前が見えなくても、謎さんが困惑しているのがひしひしと伝わってくる。
なにせ、そろそろ大人と言っていい年代の男が目の前でなさけなくしゃくり上げながら泣いているのだから。
鼻先にティッシュが差し出される。
迷うようにうろりと動いた手が顔に伸びてくる。
「! ……」
「鼻水と涙でぐっちゃぐちゃじゃねえか。酷え顔だ」
湿り気を多分に含んだティッシュをわきに置く。
そして、あたたかさが唐突にオレを包んだ。
「すまねえな。俺ぁ言葉で慰めるのは下手だから、こんなセクハラまがいのことしかできやしねえ」
太くてたくましい、ごつごつした両腕。
背に回った力強さに、次第に早くなってくる動悸。
「泣くなよ」
「……」
セクハラまがいどころか、それ以上のことしちゃってるでしょう?
冗談めかした反論が、ほとんど相手に聞こえていないんじゃないかってくらいかぼそい。
「それもそうだな」
短く笑う。
少しだけ抑えた声で。
しばらくそのまま、お互いにじっとしていた。
(いつぶりだろ。こんなにあったかく抱きしめてもらったの)
「ん?」
心のなかだけでつぶやいたはずの言葉は、知らず外に出てしまっていたらしい。
「お前、衛兵くんは?」
「なにその呼び方……」
「うまくいってねえのか?」
「まあお察しの通りですよ」
「……」
謎さんはしばらく、考え込むように黙っていた。
密着していた身体がゆっくりと離れる。
「きっかけは何だ」
「きっかけ?」
「うまくいかなくなっちまったのは、なんでだ」
いやにシリアスな声音。
「裏返せば、それを改善しちまえばまたちゃんとやってけるってことだろ。好きに話してくれ。俺なりに、考えて答えるから」
まじまじと相手の顔を見つめる。
いたって生真面目な顔だ。
他人の恋愛相談に乗ってくれるようなヒトなんだ、とちょっぴり意外に思ってしまう。
「原因は、……ええと」
口ごもる。
「すみません、よくわかりません」
大きな身体がまるでギャグ漫画のようにがくっと傾く。
「わ、わかんねえのかよ?」
「はい」
「ちゃんと考えたのか?」
「考えてはみたんですけれど」
ほんとうに、その。
どう言葉にすればいいのか、見当がつかなくって。
床を見つめる。
(――せっかく、親身に聞いてもらえる機会なのに)
いつもそうなのだ。
ちいさな出来事がちょっとずつ、ちょっとずつ折り重なって、やがて地層みたく不満がたまっていく。
ドカンとたったひとつだけ、大きな原因があるわけじゃない。
チリも積もれば山となるというやつなのか、ひとつひとつの細かい破片を精査していたらとてもじゃないが記憶のリソースも時間も足りやしなくて、結局そこでほったらかしになる。
その結果がこれだ。
「……あー。そういう感じか」
謎さんが遠くのほうを見た。
「うちの女房とおんなじだわ」
「えっ」
「もう別れたんだけどな」
「奥さんいたんですか。や、やっぱり……」
「だからもういねえっつってんだろ」
俺がこういう体質になってから、いつのまにかどっかに行っちまいやがった。
ま、そのほうがアイツにとって幸せだろうって分かってたから、特に引き留めもしなかったよ。
床に置いていた赤いネットを指差す。
「それ、実はそいつが置いてったものなんだ。子供時代に遊んでたものだって、置き手紙に書いてあった」
「……」
「腹の足しにでもなればって思ったんだろうが、さすがにそんときゃまだ若かったから、おまえ俺のこと好きなのか嫌いなのかどっちなんだよ、ってクセえこと言いながら泣いてたな」
ネットを持ち上げると、じゃらじゃらとガラス玉の触れ合う音。
青、緑、赤。
本来の彩りにそぐわない、あとから付け足されたみたいな虹色の光沢をこれみよがしに見せびらかしながら、光る。
「今度は青にすっかな」
つまみあげられたビー玉が、大きく開いた口のなかに消え噛み砕かれていく。
「味とか変わるんですか?」
「あー。あんまりものによって変わることはねえな。ただ少なくとも、これみたいに着色してあるやつはなんというか……ほんの少し雑味が混じった感じがするよ」
「マズいんですか?」
「あんま言いたかねえんだがな。美味くはない」
「おいしくないんですね……」
「笑えるだろ。あいつとの、ほとんど一つしかない思い出なのにな」
軽い口調ではあったけれど、幾分かにじむ寂しさ。
「今日になってやっと、すっかりバカになっちまった自分の胃にこれを収めてもいいのかなって思えた。ようやく」
どうして、とおそるおそる尋ねると、シニカルに笑う。
「気づいてるくせによ」
案外俺に必要だったのは、ある種の踏ん切りをつけることだったのかもな。
頭を撫でられ、唇をかるく噛む。
「オレにも、その切り替えの能力がほしいです」
「あ? なんだ藪から棒に」
しゃがみ込み、お前まさか、と顔を覗き込んでくる。
「心変わりしてきちまったのか? その衛兵くんから、俺のほうに」
「あ、……え、っと」
口ごもる。
さすがにここで屈託なく答えてしまえるほど、分別のない子供ではなかった。
好きなひとについていく。
それには当然、責任だってついてくる。
操を立てる、なんてむかしの概念っぽい言葉だけれど、いまだにこの世界では現役すぎるほどに現役なのだ。
それを蔑ろにして軽んじたものから順次、きわめて不名誉な称号や陰口の餌食になってしまう。
「まさか。そこまで軽くありませんよ」
微笑むのがうまくいってよかった。
そんな当たり前のことをまさか、できないかもと思う日が来るなんて考えもしていなかった。
「おー、よかった。いくら現代っ子とはいえ、そんなんだったらちょっとジェネレーションギャップでくじけちまうところだったわ」
目を細める。
その表情がどこか残念そうに映ったので、思わずごしごしと目をこすってしまう。
「ん? 破片入ってねえよな。だっ、大丈夫か?」
「なわけないでしょ! そんなの失明ですよ失明」
「だからこそ訊いたんじゃねえか。一大事ですらすまねえぞ」
「もう終わりじゃないですか! ホントにもう謎さんったら」
しばらく、とりとめのない会話が続く。
話を戻すぞ、と前置かれたので、どちらともなく真顔に戻る。
「じゃあ、相手のどんなところが嫌いだ」
「どんなところ……」
「不満があるんなら、いっぱい思い浮かぶだろ」
「……」
衛の顔を、脳裏に浮かべる。
最近は、何かに対して怒っている姿しかとんと目にしていない。
まあ、その対象と言えばだいたい自明なのだが。
「オレに対してなにか不満があるとき、自分の気持ちを言わず『これが正しい、だからオマエは間違ってる』みたいなふうに理屈で詰めてくるところ。授業で学んだふうに相手を尊重しながら意見を言っても、必ず否定から入ってけなすところ。自分と違う価値観のやつをどこか下に見てて、オレもそこに含まれてるっぽいところ、あとは、えっと――」
「悪ぃ、ちょっと待て」
指を折りながら思いついた順に並べていると、謎さんが眉をしかめてオレの言葉を遮った。
「なんですか? 言い過ぎたかな、気分悪くなりましたか?」
「そうじゃねえよ」
でも、ほんとうにイヤそうな顔をしている。
「お前のコレ、わりと最低なヤツじゃねえか?」
「えっ」
「俺はたまに思うんだが」
指を一本、ゆっくりと立てる。
自分を指差す。
「ヒトってな、自分ができている、いつも気をつけてしていることをできない、あるいはあえてしない人間を見てると、きっと腹が立つと思うんだよ」
「……そう、ですね」
「お前さっき、ひとに気をつかわせるのをやめたい、って言ってたじゃねえか。だからこそ人一倍、自分の言動には気をつかってるほうだと推理した」
「そうですかね」
肯定しそうになって、自分に待ったをかける。
考え込んでいるところに、降ってきた苦笑い。
「そういうトコだぞ。あんまり謙遜しすぎんな」
「謙遜?」
「ああ。そのオドオドした態度見て、なんとなく思ってたんだよ」
手が、また頭に伸びてくる。
巷ではおじさんにされたら嫌な仕草らしいけれど、オレは別になにも感じなかった。
どころか、この手が近くになくなることのほうが嫌だなんて考えている。
心変わりが早い、尻軽だなんて後ろ指を差されたとしても、気持ちがもう既に傾きかけている。
(嫌な人間だな。オレって)
ふ、と短く笑ったら、おっどうした、などとすっとんきょうな声を発して手前で止まる。
「いま、笑う流れじゃなかっただろ。まったく、近頃の若いのは分からんな――って、こういうのがジェネギャの原因なんだろうが」
「や、オレのどこがオドオドしてたのかなって」
誤魔化すように愛想笑いをする。
それだって案外フリじゃねえのか、とニヤニヤして、ビー玉をまた一つ、手に掴み口に放り込む。
「理解しない、しようとしないってのは、ある意味暴力に近しいもんだよ。しようとしてできないってんなら仕方ねえけれど、歩み寄りすらしないのは論外だ」
青みがかった瞳が、じっとオレを見つめる。
「なあ。心やさしいおじさんから、ここで一つ提案なんだが」
――別れちまわねえか?
そんな、クソみてえなヤツとなんざ。
◆
「早く来てよ。ほんとにノロいよね、きみ」
「ご、ごめん……」
謝っても、返ってくるのは舌打ちのみ。
田んぼだけが広がるあぜ道を、慎重に歩く。
以前ここで急いでいたとき、石につまずいて引っくり返り持っていた荷物をぶちまけたことがあったから。
「こけないようにさ、もう少しゆっくり」
「もう大人でしょう? そんな馬鹿なマネしでかすわけないよね」
「……」
その出来事もほんの二ヶ月くらい前だけど、という反論をぐっと喉の奥に押し留めた。
また口喧嘩を始めたくはない。
しかも言葉通りの意味じゃなくって、ほとんどサンドバッグにされているのに近いから余計。
「今日は夕飯摂ったら、いっしょにシャワー浴びるよ」
言外の意味を孕んだ、拒否権のほとんどない持ちかけ。
そんな気分じゃない、と突っぱねることも当然できず、作業めいた無言の食卓を経て汗を流し合い布団に潜る。
汚れたシーツは前の匂いが残っていて、とがめるような視線とため息が飛んでくる。
いたく刺々しいので、目をぎゅっと閉じる。
そういえば、今週の洗濯当番はオレだった。
もっとも、とうの昔に形骸化したシステムはすべての家事を強制的にこちらに押しつける仕組みになってしまっているんだけれど。
嘆息する。
どちらからともなく。
惰性でつながる関係。
でもどちらとも、離れようとは口にしなかった。
向こうはきっと、なんとなく。
そしてオレのほうはといえば、ほんとうに。
口にしなかった、だけだった。
◇
すう、と目を開ける。
死に瀕しているわけでもないのに走馬灯のように流れてきた記憶の内側。
そこには名残惜しい思い出など、一片たりとも出てこなかった。
微動だにせずオレと見つめ合う瞳は、いたって真剣だ。
今までのおちゃらけた雰囲気なんて、どこかに行ってしまって。
ビー玉に、ふと視線をやる。
朝日を浴びてきらめいている。
スマートフォンを握りしめ、応えた。
「はい」
「おう、それがいい――って、え?」
あんぐりと開いた口。
おそるおそると言った感じで、こちらを指差す。
「え、は? マジで言ってんのかお前?」
「はい。マジです」
「えっ……」
ぱちぱちと目をまたたく。
眉がまるでマンガみたいに分かりやすく八の字になっている。
「でも、大学とかはどうすんだ?」
「辞めます」
「いやそんな食い気味に言われても……」
手続きとかがどうなってるのかは知らんが、それで人生決まっちまう場合だってあるんだぞ。
そんな刹那的に生きてていいのか、お前?
心配そうに両手で肩を掴まれる。
やわらかくその指先を握った。
骨と血管の太く浮いた指。
一見怖いけれど、でも。
「言ったでしょう。オレは、死んでもいいってつもりでここまで来たんです」
軽率なのかもしれないけれど、この世界からもう、いなくなってしまいたいっていう気持ちで。
笑いかける。
心配そうな顔が雫でぼやける。
「だから、……だから」
あれ?
(どうして)
浮かぶ過去のこと。
施設でのこざこざや先生たちの何気ない言葉。
白無垢の顔。
(どうして)
引き留めようとする記憶たちが、おれの足を掴んでいる?
「……」
無言で見つめ返す。
ほんの少しだけ、厳しい光を帯びた目。
考え込んだのち、やっと分かった気がした。
肩に置かれた謎さんのこの手は――きっと。
ゆっくりとオレから離れ、伸びをする。
「さて。折角だし東京観光でもしに行くぞ、ついてこい」
ミーハーな名所巡りをしながら、ずっと考えていた。
そして次の朝、ようやく、進むべき方向が定まった。
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