ゾンビパニックサバイバル 短編ver

猫撫子

崩壊の夜

深夜零時を少し回ったころ、都心の空気はやけにざわついていた。

蒸し暑い梅雨明け前の夜、ニュース番組の緊急速報が唐突に画面を切り替える。


『――未明、都内各地で“原因不明の暴徒”による襲撃事件が多数発生しています。繰り返します、外出は控え――』


 テレビの前でカップラーメンを啜っていた**高瀬蓮(たかせ れん)**は、ぼんやりとその映像を眺めていた。


 どこか映画のワンシーンのように思えて、現実感がない。


 ――だが、スマホの通知音が鳴り止まない。

 SNSのタイムラインには「やばい」「人が人を食ってる」「新宿封鎖」の文字が踊っていた。

 最初の“崩壊”は、静かに、だが確実に始まっていた。

蓮はマンションのベランダから街を見下ろした。


 遠くの交差点で、何かが揉み合っている。

 街灯の下で、誰かがもう一人の首元に噛みついた。


「……嘘だろ」


 手が震えた。


 だが――祖父の声が、心の奥からよみがえる。


『恐怖を感じた時こそ、呼吸を整えろ。恐怖は敵じゃない。命を守る合図だ。』


 祖父・高瀬宗一郎。古武術の達人であり、幼少期の蓮に“動くための恐れ方”を叩き込んだ男だ。


 蓮は何年も前にその稽古をやめていた。だが、体は覚えていた。


 ベランダの下では、近所の男が悲鳴を上げて倒れ、すぐに何者かに群がられる。


 蓮は無意識に息を吐いた。

「……逃げなきゃ。」


 最低限の荷物をリュックに詰め込む。

 折りたたみナイフ、祖父の形見の木刀、ペットボトルの水、乾パン。


 そして玄関を出ようとした瞬間――ドアの向こうから、激しい叩き音。

「っ……!」

 ドアスコープを覗く。


 隣の部屋に住む**由紀(ゆき)**が泣きそうな顔で立っていた。


「れ、蓮くん!助けて!下で人が――!」

 蓮は慌てて鍵を開け、彼女を引き入れる。

 白いシャツは血で染まり、足を怪我している。

「由紀さん、噛まれたのか!?」

「違う!逃げる時に転んだだけ!お願い、逃げよう!」

 息を切らしながら、彼女は泣きじゃくる。

 その背後から、階段を駆け上がる足音。

 ドス、ドス、ドス――。

 壁を叩く音が近づいてくる。


「由紀さん、後ろへ。」

 蓮は木刀を構えた。

 心臓が破裂しそうだった。


 だが、呼吸を整える。祖父に教えられた型――“静心(せいしん)”を思い出す。


 次の瞬間、ドアが破られた。

 血まみれの男が飛び込んでくる。


 白濁した眼、泡を吹いた口。人間の顔ではない。


 ――ズドンッ!


 蓮の木刀が男の顎を下から突き上げた。

 骨が軋む音。男の体が宙を舞い、廊下の壁に叩きつけられる。


「……うそ、蓮くん……強い……」

「強くなんかない。ただ、怖いだけだよ。」

 蓮は呟き、血まみれの木刀を握り直した。

 恐怖の中で冷静さを取り戻す。

 これが生き残るための“恐れ方”だ。

 夜が明けるころ、二人はマンションの屋上に避難した。

 街はもう炎に包まれている。

 遠くで爆発音、サイレン、そして――人間とは思えない叫び声。

 由紀が震える肩を寄せる。

「ねぇ……私たち、どうなるのかな……」

 蓮は夜空を見上げた。


 流星が一筋、ビルの谷間を横切る。

 その瞬間だけ、世界が少しだけ静かになった気がした。

「分からない。でも、俺は――生きるよ。

 誰かを守るために。」

 そして、二人は夜の闇の中へと降りていった。

 崩壊した世界での、長いサバイバルが始まる。



太陽が昇る気配はなかった。


 街はまるで死んだように静まり返り、遠くの高層ビルの屋上からは黒い煙が上がっている。

昨夜の混乱が“終わった”わけではなく、ただ“広がった”だけだった。


 蓮と由紀はマンションを出て、慎重に街路を進んでいた。

 通りには車が横転し、血の跡が途切れず続く。

 風が吹くたび、腐敗した匂いが鼻を突いた。

「……これ、ほんとに東京なの?」

 由紀が怯えた声で言う。

「信じられないけど、現実だ。」

 蓮は答えながらも、木刀を背中に固定し、両目を細めた。

 誰もいないはずの街のあちこちで、窓の奥に何かが“動く”のが見える。

 ゆらり、と揺れる影。

 人間ではない、異様なリズムの動き。

 蓮の脳裏に、祖父の教えが蘇る。

『敵を見るな。空気を見ろ。動く前の“気配”を感じろ。』

 ゾンビと呼ぶにはあまりに俊敏な影が、建物の中を横切った。


 ――昨日のやつらより速い。


 二人は途中のコンビニで物資を探した。

 自動ドアは壊れ、店内は荒れ放題。

 レジの奥には、制服姿の店員が倒れていた。

 半分欠けた頭部からは、既に虫が這っている。

「……っ」

 由紀が顔を覆う。

「見ない方がいい。」

 蓮は手早くペットボトルと缶詰、懐中電灯をリュックに詰め込む。


 その時――背後で、ガラスが割れた。


 反射的に振り返る。

 入口から、黒髪の女性が銃を構えて立っていた。

 戦闘服のような黒いジャケットに、血の汚れ。

 その瞳は冷たく鋭く、蓮を射抜いた。

「動かないで。感染者かどうか、確認する。」

 声に迷いはなかった。

 蓮は木刀を下ろし、静かに手を挙げる。

「俺は感染していない。噛まれてもいない。」

「……他の女は?」

「彼女も無事だ。」

 女性は銃口を下げ、ため息をつく。

「……よかった。久しぶりね、蓮。」

 その一言で、蓮の動きが止まる。

「……まさか、**香織(かおり)**か?」

 大学時代、同じ研究室で過ごした女性。

 冷静沈着で、どこか他人を寄せ付けない雰囲気の理系女子。

 だが、彼女の目の奥には、かつて見たことのない焦燥が宿っていた。

「どうしてここに……」

「自衛隊の依頼で調査してた。感染の原因を探るための現場班。

 でも、もうほとんど壊滅。私は逃げ延びただけ。」


 香織は短く答え、銃のスライドを確認した。

 その動きには、素人離れした熟練さがあった。

「ウイルスの名前、知ってる?」

「ニュースでは“LVXウイルス”とか言ってたな。」

「正式名称は“Livid Virus-X”。感染後、24時間以内に脳細胞を破壊し、再構築する。

 その過程で、脳幹の防御反応が壊れる。理性を失っても、身体は“動く”の。」

 由紀が息を呑んだ。

「……治療法は?」

 香織は目を伏せた。

「今のところ、ない。でも――一人だけ、感染しても“変化しなかった”人間がいる。」

 蓮は眉をひそめる。

「それが、希望ってわけか。」

「そう。私はその“希望”を追ってる。」


 香織の案内で、三人は廃ビルへ移動した。


 そこは、彼女がかつての仲間と使っていた臨時の避難所だった。

 発電機は止まっていたが、屋上からは街全体を見渡せる。


「ここならしばらく安全。」

 香織が言いながら、窓際に簡易センサーを設置する。

 由紀は疲れ切って床に座り込み、缶詰を開けた。

 蓮はその横で木刀を磨く。

 香織は無言で銃を分解し、手入れを始める。

 ――その静けさの中で、どこか奇妙な安堵があった。

 崩壊した世界で、初めて“誰かといる”ことの温かさを感じた瞬間だった。

 夜。

 ビルの窓からは、赤く燃える街の光が遠くに見える。


 蓮は一人、屋上で夜風に吹かれていた。

「……こんな時に、再会するなんてな。」

 背後から香織が近づく。

「皮肉ね。世界が壊れたから、やっとあなたに会えた。」

 その声には、どこか懐かしい響きがあった。

 蓮が振り向くと、香織の目がまっすぐにこちらを見ていた。

「ねぇ、蓮。昔、言ってたでしょ。

 “誰かを守るためなら、命を懸けられる”って。」

 蓮は苦笑した。

「あぁ……でも、そんなにカッコいいもんじゃない。怖いだけだよ。」

「それでも――あなたは戦う。だから、私は信じられる。」

 風が吹き抜け、髪が揺れる。

 ふと見上げた夜空には、星が一つだけ輝いていた。

 まるで、まだこの世界に“希望”が残っていることを示すように。

 だが、静寂は長く続かなかった。

 階下から、金属の軋む音。

 センサーが小さく赤く点滅する。


 香織が銃を構える。

「来た……っ。動きが早い、普通の感染者じゃない。」

「由紀、後ろに下がって!」

 蓮は木刀を抜いた。

 闇の中から、四つ足で這う“何か”が現れる。

 皮膚は剥がれ、骨の隙間から血管のような赤い線が光を放つ。

 ――それは、人間の形を保っていなかった。

「進化型……」香織が呟く。


 獣のような咆哮とともに、そいつが突進してきた。


 蓮は身を沈め、呼吸を整える。

 恐怖が全身を走る。

 それでも、動く。

『恐怖は敵じゃない。命を守るための“感覚”だ。』

 踏み込み――木刀が閃く。

 瞬間、空気が切り裂かれ、赤い飛沫が散った。

 異形の首が、静かに床へと転がる。

 静寂。


 香織がゆっくりと銃を下ろした。

「……やっぱり、強いのね。」


「いや。……ただ、まだ生きたいだけだよ。」

 その言葉に、香織は小さく微笑む。


「生きたい、か。なら、私も一緒に。」

 彼女がそう言って、初めて表情を和らげた。

 由紀も怯えながら笑う。


 三人の間に、ほんの一瞬だけ、夜明けのような温もりが生まれた。

 外では、遠くの空が少しずつ白み始めていた。


 そしてその夜明けが――

 また新たな地獄の始まりであることを、まだ誰も知らなかった。





朝の光は鈍く濁っていた。

 太陽は雲に隠れ、世界全体が灰色に沈んでいる。

 ビルの屋上から見下ろすと、通りには転がる車と、動かなくなった人の群れ。

 それでも、風は生きていた。

 蓮は屋上の縁に立ち、深呼吸をする。

 吸い込む空気は鉄と腐敗の匂いが混ざっていたが、それでも“生”を感じた。


「……これが、生きてるってことか。」

 背後でドアが軋み、香織が現れる。

「寝てないんでしょ。」

「まぁ、少しだけ。」

「少し、ね。あなたの“少し”は、昔から三時間くらいよ。」

 香織が苦笑する。

 その横顔を見て、蓮はふと胸が温かくなる。


 こんな状況でも、彼女の皮肉交じりの口調は変わらない。

 それが、妙に安心をくれた。


 由紀が起きたのは昼前だった。

 寝不足とストレスで顔色は悪いが、気丈に振る舞っている。

 簡易コンロで温めた缶詰を三人で分け合いながら、これからの方針を話し合った。


「香織の研究チームがいた研究所、まだ機能してると思うか?」

 蓮の問いに、香織はわずかに首を振る。

「本部の通信は途絶えてる。でも、サブ拠点がこの先にある。

 そこに行けば、他の生存者や情報が得られるかもしれない。」

「……つまり、行くしかないってことか。」

「そう。」

 由紀は不安そうに二人を見た。

「危なくない……?」

「危ない。でも、ここに留まっても遅かれ早かれ囲まれる。」

 蓮の答えは冷静だった。


 三人は午後に出発した。

 崩れた高架下を抜け、炎上したコンビニを迂回し、慎重に廃ビル街を進む。


 風に乗って遠くから叫び声が聞こえる。

 感染者か、人間か、もう区別はつかない。


 香織が突然、手を上げた。

「止まって。」

 耳を澄ませると、かすかに銃声が聞こえた。

 連続して三発――近い。

「生存者か?」

「……かもね。」

 蓮が先頭に立ち、音のする方へ向かう。


 廃工場の入り口に、銃を構えた一人の女性が立っていた。

 ショートカットに鋭い目つき。

 革のジャケットに警察の腕章。

 周囲には数体の感染者の死体が転がっていた。


「動くな! あんたら、噛まれてないな!?」

 低く、通る声。

 蓮が両手を挙げて答える。

「大丈夫だ。俺たちは非感染者だ。」

「なら、こっちへ来い。急げ!」

 工場の中へと誘導される。

 ドアを閉め、金属の棒で固定。

「ふぅ……危なかった。」

 女性は銃を下ろし、息を吐いた。

「助けてくれてありがとう。俺は高瀬蓮。」

「篠原玲奈(しのはら れな)。元警察官よ。」

 そう名乗ると、彼女は汗を拭いながら笑った。

「もう“元”なんて言っても仕方ないけどね。組織なんて、とっくに崩壊してる。」

 篠原玲奈――

 その眼差しは強く、どこか壊れかけた世界の中でも“守る者”の誇りを残していた。


「ここに一人で?」

「いや、部下がいた。……さっきまでは。」

 短い言葉の奥に、沈んだ悲しみが滲む。

 由紀がそっと声をかけた。

「……ごめんなさい。」

 玲奈は微笑んだ。

「気にしないで。生きてるだけで奇跡だから。」

 香織が壁の地図を広げる。

「篠原さん、私たちはこの“東部研究支所”を目指してる。

 もし良ければ、一緒に来てほしい。」

 玲奈は少し考えたあと、頷いた。

「いいわ。私も仲間が欲しかった。……一人で夜を越えるのは、もう無理。」


 その言葉に、由紀が安堵の息を漏らす。

 蓮は小さく笑った。

「仲間が増えるのは心強い。」

 香織も珍しく微笑みを浮かべる。

 夕暮れ。

 工場の隅で、火を囲んで四人が座る。

 缶詰の匂いと、遠くの風の音だけが響いていた。

「蓮ってさ、何者なの?」

 玲奈が突然、木刀を見て尋ねた。


「昔、祖父に古武術を習ってた。……それだけ。」


「ふーん、でも動きが普通じゃなかった。警察でもあんな動きする奴、見たことない。」

 彼女が笑いながら缶詰を口に運ぶ。


 由紀がすかさず言う。

「蓮くん、強いんだよ。昨日も一人でゾンビ倒してたし!」

「……やめろよ。」

「事実でしょ?」

 由紀が微笑み、玲奈が茶化すように肩を叩く。

「頼もしいじゃない。こういう時、強い男はモテるのよ?」

 香織が無言でスプーンを置いた。


 そのまま静かに火を見つめる。

 ほんの一瞬、何かが胸の奥をよぎったような表情。

 蓮は気づかないふりをした。


 夜が更けたころ、交代で見張りを立てることにした。


 一番手は蓮と玲奈。

 外は冷え、風が金属の壁を叩く。

 玲奈が小さく煙草を取り出した。

「吸ってもいい?」

「好きにしろ。」

 火がつき、煙が上に昇る。

「なぁ、蓮。」

「ん?」

「“守る”って、どこまでできると思う?」

 彼女の声には、どこか痛みがあった。

 蓮は答えを探しながら、夜空を見上げた。

「分からない。でも、最後まで信じることくらいはできる。」

「……いい答えね。」

 玲奈が笑い、煙を吐いた。

 その笑顔は、どこか寂しげで、どこか強かった。


 夜明け前。

 香織が起き出してくる。

 玲奈が交代し、三人目の見張りに入る。

「眠れなかった?」

「少しね。」

 香織は蓮の隣に座り、夜空を見上げた。

「……玲奈さん、強い人ね。」

「あぁ。たぶん、俺よりも。」

「でも、あなたは優しい。それは強さとは違うけど……救われる人はいると思う。」

 香織の言葉に、蓮は照れくさく笑う。

「そんなふうに言われると、悪い気はしないな。」

「でしょ。」

 香織も微笑んだ。


 その時、東の空がわずかに明るくなり始める。

 夜が明ける。

 冷たい空気の中で、蓮は確信した。

 この世界はまだ終わっていない。


 壊れながらも、何かが確かに生きている。

 それを繋ぐために、俺たちは前へ進むんだ。



東の空が白み始める頃、彼らは街の外れに辿り着いた。

 錆びついたフェンスの向こうには、草木に覆われた巨大な施設が見える。

 コンクリートの壁面には黒い汚れが広がり、崩れた看板には

 **「東部バイオリサーチセンター」**と書かれていた。

「ここが……研究所?」

 由紀が呟く。

「ああ。私がかつて勤務していた分室よ。」

 香織の声はわずかに震えていた。

 玲奈が銃を構えながら周囲を警戒する。

「中に感染者がいない保証はない。慎重に行くわよ。」

 蓮は頷き、木刀を背負い直した。


 あの夜以来、手放せなくなった唯一の“生きる証”だ。

 研究所内部は暗く、静まり返っていた。

 足音だけがコツコツと響く。

 廊下の壁には、血の手形が無数に残されている。

 香織が懐中電灯を照らしながら、無言で進んだ。

 彼女にとって、ここは“過去”であり“罪”の場所だった。


「香織……大丈夫か?」

 蓮が小声で尋ねると、彼女はわずかに笑った。

「大丈夫。……覚悟はしてる。」

 研究棟の奥にある制御室に辿り着くと、

 香織が端末の電源を入れた。

 奇跡的に予備電源が生きていたようで、モニターがぼんやりと光を放つ。

 画面に、研究ログが映し出された。


“Livid Virus-X(LVX)開発記録 No.0023”

目的:再生医療用ウイルスの免疫適応試験

結果:被験体A〜Eにおいて過剰再生反応を確認

副作用:暴力衝動、神経変質、理性崩壊

備考:被験体Fにおいて異常なし(免疫安定)


「……被験体F?」

 蓮が眉をひそめた。


 香織が唇を噛む。

「“感染しても変化しなかった”人間。それが、このデータの“F”よ。」

「そいつは今どこに?」

「……分からない。けど、もし生きていれば——」

 その時、制御室の奥のスピーカーからノイズ混じりの声が響いた。

『——誰だ……そこにいるのは……?』

 三人が一斉に身構える。

 画面の隅に、監視カメラの映像が映し出された。

 暗い実験室の中に、一人の男が座っている。

 白衣の袖はボロボロで、頬はこけ、眼は赤く光っていた。

「……生存者?」

 玲奈が呟く。

 だが香織の表情が固まる。

「……あれは、主任研究員の神谷博士。」

 神谷博士は弱々しく笑った。

『君が……香織か。まだ、生きていたのか……。』

「博士……! ウイルスは、なぜこんなことに……!」

『制御できなかった。感染拡大は想定外だった。だが……“希望”はまだある。』

「希望……?」

『“被験体F”——ウイルスを拒絶した唯一の人間。

 そのDNAに、ウイルスを中和する“鍵”がある。』

 香織の目が見開かれる。

「博士、その“被験体F”は誰なんですか?」

 沈黙。

 そして、ノイズ混じりの声が、ゆっくりと答えた。

『——高瀬、蓮。君だ。』

 空気が止まった。

 由紀が息を呑み、玲奈が銃を下ろす。

 香織は何も言えず、ただ蓮を見つめた。

「……俺が?」

『君の免疫構造は特殊だ。感染を“抑制”し、ウイルスを共存させる。

 つまり、君の血液は“抗体”そのものだ。』

 香織が小さく震えた。

「じゃあ、蓮を使えば……治療法が?」

『理論上は可能だ。しかし、精製には“全血量”が必要だ。』

 ——全血量。


 つまり、それは命と引き換えということだった。

 誰も言葉を発せなかった。

 沈黙の中、機械の音だけが鳴り響く。


 やがて、香織が震える声で言った。

「そんなこと、できるわけない。あなたを犠牲にしてまで——!」

 蓮は静かに笑った。

「俺が生きて、他が死ぬなら、それは“生き残る”って言わないだろ。」

「バカ言わないで!」

 香織が叫ぶ。

 玲奈が制止しようとしたが、彼女の瞳は涙で濡れていた。

「あなたがいなくなったら、私たちはどうすればいいの!?」

 蓮はゆっくりと彼女の肩に手を置く。

「香織。俺はまだ死ぬとは言ってない。

 “生き延びる方法”を探す。それが俺たちの仕事だ。」

 玲奈が頷く。

「そうね。死ぬなんて、まだ早いわよ。」

 由紀も震える声で言った。

「蓮くんは、絶対死なせない。」

 その瞬間、四人の目が同じ方向を見た。

 希望はまだ消えていない。

 しかし、平穏は一瞬だった。

 突然、研究所全体が激しく揺れた。

 爆発音。照明が落ち、警報が鳴り響く。

「なに!? 外で戦闘が!?」

「いや、違う——中からだ!」

 奥のガラス壁を突き破って、巨大な“影”が飛び出してきた。

 人型ではない。筋肉が膨張し、皮膚が裂け、骨が外に飛び出している。


 神谷博士の声がノイズの中で響いた。

『——実験体Z……暴走、したのか……!逃げろ……っ!』

 次の瞬間、映像は途切れた。

 香織が叫ぶ。

「蓮、来るわ!」

 蓮は木刀を握り締めた。

 恐怖が全身を駆け抜ける。


 それでも——逃げなかった。


「……みんな、下がれ!」


 “恐れ”を“力”に変える。

 祖父の教えが、体を動かす。


 爆音。金属が弾け、獣が咆哮する。

 蓮が踏み込み、木刀を突き出す。


 骨のような腕を避け、裂かれた肉の隙間を一閃。

 血と腐臭が弾け、巨大な体が崩れ落ちた。


 荒い息を吐きながら、蓮は呟く。

「……まだ終わらせない。」

 静まり返った研究所で、香織が蓮の腕を掴む。

「蓮……あなたの血が、この世界を救えるなら……」

 彼女の声は震えていた。

「でも、あなたを失うくらいなら、私は——」

 その言葉を、蓮は静かに遮った。

「俺はまだ死なないよ。

 だって——守るって、約束したから。」

 香織の瞳が潤み、玲奈と由紀が寄り添う。

 三人の温もりが、冷たい夜に灯りをともした。

 外では、嵐のような風が吹き荒れていた。

 けれど、その中心に立つ四人の瞳には、確かに“希望”の光が宿っていた。


夜の闇が濃くなる。

 研究所を脱出した蓮たちは、崩れかけたトンネルを抜け、廃墟の都市へと戻ってきた。

 風は冷たく、街は静まり返っている。


 香織が肩で息をしながら言った。

「……信じられない。博士がまだ生きていたなんて。」

 玲奈が銃の弾倉を確認しながら、低く答える。

「けど、あの“実験体Z”の動き……普通じゃなかった。多分、まだ近くにいる。」

 由紀が蓮の腕に手を添える。

「ねぇ、蓮くん。もう休もう? あなた、血を流してる。」

 蓮は微笑みながら首を振った。

「大丈夫。浅い傷だ。」

 本当は、痛みよりも“別のこと”が心を締めつけていた。

 ——自分の血が、人類を救う。

 その意味を知ってしまったから。

 夜明け前、彼らは崩れたショッピングモールの屋上に身を潜めた。

 そこには風よけの鉄板と、小さな焚き火。

 玲奈が見張りをし、由紀が毛布を用意し、香織は傷の手当てをしている。

「ねぇ、蓮。」

 香織が静かに言う。

「あなた、本当は怖いでしょう?」

 蓮は目を伏せた。

「……ああ。怖いよ。

 死ぬのも、仲間を失うのも。

 でも、何もしない方がもっと怖い。」

 香織は小さく笑った。

「そう言うと思った。」

 その笑みは寂しげで、それでも温かかった。

 焚き火の火が揺らぐ。


 由紀が眠そうに寄り添いながら言う。

「蓮くん、もし……世界が戻ったら、何がしたい?」

 蓮は少し考えて答えた。

「普通の生活。朝起きて、飯食って、仕事して、夜になったらみんなで笑う。……そんな当たり前が、欲しい。」

 玲奈が肩をすくめた。

「地味ね。でも、悪くないわ。」

「玲奈は?」

「そうね……。もう二度と、人を撃たない世界がいい。」

 由紀が笑う。

「私は、おしゃれして出かけたい! カフェとか!」

 香織は焚き火を見つめながら、小さく呟いた。

「私は……。その光景の中に、蓮がいれば、それでいい。」

 一瞬、誰も言葉を発せなかった。

 夜風が彼らの髪を揺らし、静寂が包み込む。


 ——その“未来”を、信じたかった。


 そのとき。

 地下から地鳴りのような音が響いた。

「下だ!」玲奈が叫ぶ。

 次の瞬間、床が爆ぜ、腐臭が吹き上がる。

 “実験体Z”が現れた。

 先ほど倒したはずの怪物——いや、再生している。

 その姿はさらに歪み、まるで人と獣の境界を失っていた。

「くそっ、逃げろ!」

 蓮が木刀を構え、前へ出る。

 香織が叫ぶ。

「蓮! もう戦える体じゃ——!」

「だったら、ここで終わるだけだろ!」

 木刀が火花を散らす。

 裂けた皮膚を叩き割り、蓮は必死に耐えた。

 怪物の腕が襲いかかり、彼の体が宙に弾き飛ばされる。

「——蓮!!!」

 血が口から溢れ、視界が赤く染まる。

 それでも、立ち上がった。

「俺は……まだ……死ねねぇ!」

 祖父の声が脳裏に響く。

 “恐れを受け入れろ。恐れは力になる。”

 木刀が折れた。

 だが、折れた部分を逆手に握り、蓮は怪物の心臓に突き立てた。

 轟音。

 咆哮。

 そして、沈黙——。

 崩れ落ちた怪物の体の中から、白い煙のような光が立ち上る。

 その光は蓮の体へと吸い込まれ、皮膚の下で何かが変わる感覚が走った。


 しばらくして、夜が明けた。

 街の空気が、ほんの少しだけ澄んでいた。


 香織が駆け寄る。

「蓮! 生きてるの!? お願い、目を開けて!」

 ゆっくりと、蓮のまぶたが開く。

 彼の瞳は淡い金色に輝いていた。

「……多分、あいつのウイルスが……俺の中で変わった。」

「変わった?」玲奈が息を呑む。

「うん。共存……いや、進化かもしれない。」

 香織が震える声で言った。

「あなたが、“人類の次”なのね。」

 蓮は小さく笑った。

「違うよ。みんなで生き残るための、“始まり”だ。」

 空が赤く染まり、太陽が顔を出す。

 由紀が手を伸ばし、朝日に照らされる。

「ねぇ、見て……きれい。」

 玲奈が頷く。

「地獄みたいな世界でも、太陽は昇るのね。」

 香織が蓮の肩に頭を預ける。

「これが、あなたが守った“朝”ね。」

 蓮は微笑んだ。

「俺たちが生きてる限り、朝は必ず来る。」

 風が吹き抜ける。

 遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。

 かつて滅びたはずの世界に、

 小さな生命の音が戻ってきていた。

 香織、玲奈、由紀——。

 それぞれが傷つき、それでも立ち上がる。


 そして蓮は、ゆっくりと呟いた。


「これが……俺たちの“生きる理由”だ。」


 彼の掌には、淡く光る血の跡が残っていた。

 それは、人類が失いかけた希望の証だった。




朝日が街を包み始めた。

 瓦礫の影から顔を出す光が、血に染まった大地を優しく照らしていく。

 人の気配はほとんどなく、風が廃墟の隙間をすり抜ける音だけが響いていた。

 蓮たちは、研究所の外縁にある廃病院の屋上にいた。

 あの夜の戦いから三日が経っていた。


 玲奈が双眼鏡で遠くを見ながら言う。

「感染者の群れ、ほとんど動きがない。……まるで眠ってるみたい。」

 由紀が驚いたように目を見開く。

「まさか、ウイルスが……止まったの?」

 香織が静かに頷く。

「蓮の血液が空気中に拡散した。

 あの時、実験体Zの体内でウイルスが“変質”したのよ。

 共存型ウイルス——感染しても、暴走しない形へ。」

「つまり……人類は滅びなかった?」

 由紀の声は希望に震えていた。

「まだ断言はできないけど……少なくとも、終わりではないわ。」

 香織がそう言って、ゆっくりと蓮の方を見た。

 蓮はベンチに座り、包帯に覆われた腕を見つめていた。

 金色の光を宿した瞳は、以前よりも静かで穏やかだった。

「どうやら、俺の中のウイルスが安定したみたいだ。」

「もう痛くない?」由紀が尋ねる。

「少し熱っぽいけど、大丈夫。……むしろ、体が軽い。」

 玲奈が苦笑した。

「超人ね、あんた。」

 蓮は少し笑い、そして真剣な表情に戻った。

「けど、これがいつまで保つかわからない。

 ウイルスが進化しても、人がまた同じ過ちを繰り返せば……。」

「そうね。」香織が呟いた。

「だから、次の時代は“作る”しかない。

 恐怖じゃなく、希望で繋がる世界を。」

 太陽が高く昇り始めた。

 由紀が立ち上がり、空を指差す。

「見て! 鳥が飛んでる!」

 一羽、また一羽。

 灰色の空に、白い翼が舞う。

 誰も言葉を発せず、ただその光景を見つめた。


 玲奈がぽつりと呟く。

「……もう、戦うだけの世界じゃなくなったんだな。」

 昼になる頃、香織が屋上の隅で何かを書きつけていた。

「それ、何してるの?」

 由紀が覗き込むと、香織は笑った。

「記録よ。この数ヶ月のことを、誰かが残さなきゃいけない。」

 そこには、こう記されていた。

“希望は死なない。たとえ世界が滅びても、人はまた立ち上がる。”

 その文字を見て、蓮は小さく頷いた。

「……それ、いいな。」

「あなたの言葉よ。」香織が微笑む。

「私は忘れたくない。あなたがいたことを。」

 夕暮れ。

 赤く染まる空の下、四人は並んで座っていた。


 玲奈がふと、銃を取り出した。

 それを見て由紀が息をのむ。

「玲奈さん……?」

 玲奈は無言で、その銃を解体し、屋上の縁から放り投げた。

「もういらない。

 これで誰かを守れると思ってたけど、違った。」

 香織が目を細める。

「玲奈……。」

「これからは、撃つ代わりに“繋ぐ”。

 それが、あたしの役目。」

 蓮はその言葉に、ゆっくりと頷いた。

「そうだな。俺たちは、生き残ったんじゃない。——生き延びたんだ。」


 夜が近づく。

 焚き火がまた、静かに灯された。

 香織が火の前で両手を温める。

「蓮。」

「ん?」

「これから、どこへ行く?」


 蓮は少し考えてから答えた。

「……北へ行こうと思う。まだ無線が生きてる研究区画がある。

 もしかしたら、他にも生存者がいるかもしれない。」

 由紀が笑う。

「また旅、だね。」

「そう。けど今度は、逃げるためじゃない。

 “繋ぐ”ために行く。」


 沈みかけた太陽の中で、蓮は三人に向き直った。

「ありがとう。

 俺、多分……一人だったら、途中で折れてた。」


 香織が小さく首を振る。

「あなたがいたから、私たちはここにいる。」


 由紀が笑って言う。

「これからも、みんなで進もうよ。」


 玲奈が立ち上がり、夜空を見上げた。

「約束だ。次に会う時は、“再生した世界”で。」


 月が昇る。

 風が静かに吹く。

 蓮は空を見上げ、手を伸ばした。

 掌には、微かに光る金色の血の跡がまだ残っている。

「じいちゃん。

 俺、ようやく“恐れ”の向こうに辿り着いたよ。」

 彼は目を閉じ、そっと呟いた。

「この命、もう一度、世界のために使う。」


 そして夜が明ける。


 遠くの地平線に、真新しい光が差し込んだ。

 それはまだ弱々しいが、確かに“始まり”を告げる光だった。


 人類が再び歩き出す夜明けに、

 四人の影がゆっくりと消えていく。



 ——それでも、誰かが言った。

「生きていれば、きっとまた会える。」

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ゾンビパニックサバイバル 短編ver 猫撫子 @susumu3379

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