そして陽は沈む

真宮まつり



 教室のど真ん中の机に座って、夕焼けをぼうと眺める。二階の一番端、校庭側にある美術室。美術部は去年部員がいなくなって廃部になったから、放課後のここは俺が黄昏るための場所になりつつある。校庭のほうでサッカー部が何やら盛り上がっている。この夏は少し寒い、気がする。


 ガラ、と教室のドアが開く音がしたから、俺は反射的にそちらのほうへ視線をやる。思った通り、顔を出したのは幼馴染……春日夢だった。俺の姿を見るなり嬉しそうに笑う顔は、十年以上変わらない。


「よかった、今日もいた」

「そりゃあな」


 俺が立ち上がると、彼女は代わりと言わんばかりに俺の座っていた机にスクールバックを置いた。俺はその机の端に手を置いて体重を預ける。


「お前、今日は部活じゃねーの?」

「そうだけど、あんなの生産性のかけらもないよ。行く意味なんてないから、こっちに来たの」

「今俺と話してることが一番無意味だろうが」


 口から飛び出た言葉は本心だった。こんなことは言いたくないが事実だから仕方がない。たとえどれだけ部活がつまらないとしても、この会話よりはずっとタメになる。……と思うのだが、目の前の彼女は人差し指を立てて反論してくる。


「自分をそんなに卑下しちゃダメだよ、未来クン。私はきみとの会話こそ、一番価値あるものだと思って生きてるんだから」


 そんな言い方をしたのはわざとであろう。なんと性格の悪いことだ。相変わらず、俺の扱いはひどく粗雑だ。昔から内弁慶で、クラスメイトには何も言わず付き従うくせに、俺には真っ向から自分の要求を投げかける。そういうやつだった。


「ね、だからさ、明日もここにいてよ」


 約束、と彼女は立てていた人差し指を折って、代わりに小指を立てた。俺はため息をつく。仕方なしに俺も小指を立てて、彼女のそれに近づける。彼女は小指同士を絡めようとして、そして、

 小指が透けた。


「わかってんのに、なんでやろうとする?」

「次こそは、奇跡が起こるかもしれないから」

「起きねえって」


 高校一年の夏、俺は死んだ。夏休みに入る前日のことだった。階段から転げ落ちて、当たり所が悪かったらしく、病院に運ばれてすぐに呼吸がなくなった、そうだ。


 俺は階段から落ちた後、気が付いたらこの教室にいて、ずっとそのまま出られずにいる。ゆえに俺が死んだときの状況は、すべて目の前の幼馴染から聞いた話である。


「未来。きみの名前でしょ。きみが諦めちゃだめだよ」

「俺は未来を諦めたんじゃない、不可抗力で閉ざされたんだ。無駄な希望なんか持つべきじゃない」

「もう、それはきみが先にいっちゃったから言えるんだよ。未来、きみはいつだって私を置いていく」


 私の気持ちなんて少しも考えない。


 目を伏せた彼女の背を、橙が覆う。彼女の表情は影が落ちていて、うまく読めない。ただひとつ言えるのは、声色があの頃のような弱々しさをはらんでいた、ということ。


 俺は何を言っていいのかわからなくて、言葉を探す視線はうろうろと教室を動き回る。誰か椅子しまわないで帰りやがった。机の上、消しカス捨てていけよ。あの机だけ列からズレている……


「ねえ、何か欲しいものはある?」


 遠くに行きかけた俺の意識を、また明るくなった彼女の声が連れ戻した。なんて脈絡のない話だろう。だがそれさえもありがたかった。とにかく沈黙が嫌だった。幼馴染との間に生まれる沈黙など、何も怖いことなんてないはずなのに。


「なんだその質問……」


 俺は努めていつも通りの言葉を返す。彼女もいつも通りの笑顔を見せる。


「いいから、答えてみて」

「……バスケットボール」


 言ってから、まずった、と思った。脳みそを介さないまま勝手に出ていった言葉は、明らかにふさわしくない。


 俺はこの教室から出られない。出られるはずがない。バスケなんてできやしない。そもそもバスケなんか、中学生のときに引退した。それなのに。


 幼馴染は目をまん丸にして、ぱちぱちと何度かまばたきをする。理解するのに時間を要するみたいに。


「……バスケが、したいの?」

「今のなし、忘れて。そんなもんより、俺は……」


 何か言わないと。何か。こいつを納得させられる、何かを。


 俺の思考回路が高速で回り出す。呼応するように、足は勝手に窓際へ動く。サッカー部の声とホイッスルの音が耳をつんざくように響いたそのとき、教室の外……廊下のほうから足音が聞こえた。俺も彼女もそちらを見やる。ひょっこりと顔を出した女子生徒は、どこか見覚えがある。夢の友人だ。


「夢、またここにいたの? そろそろ帰らないと。一緒に帰ろう」

「あ……ごめん、先帰っていいよ。私まだ、話さなきゃ……」

「夢! ねえ、まだそんなこと言ってるの? もう秋月くんは……」


 幼馴染は一瞬俯いた。再び顔を上げたとき、その眉間には深くしわが刻まれて、見開いた瞳はわずかに潤んでいる。


「わかってる、未来は死んだ! ……でも、それはさ、今私の目の前に未来がいないことと、イコールじゃないよね……?」


 夢は引きつった笑みを浮かべる。彼女にとっては​──そして俺にとっては​──この場に俺がいることは、揺るぎない真実だ。しかしそれは、友人にとっては虚実だ。


「いるんだよ、未来は、ここに……」

 夢は泣き崩れる。真っ赤に染まった美術室に、いっそうるさいほど彼女の嗚咽が響く。

「……夢……」

「ぁ……ほら、いま、聞こえたでしょ……? 未来は、ここにいるの……」


 彼女の虚ろな目は友人を見つめたまま、右手の人差し指は俺を指す。俺はぎゅっと握りこぶしを作る。


 四十九日というのは、死んだ人間が地獄に行くか天国に行くかを、閻魔様に決めてもらうためにあるらしい。この四十九日間は此岸にいて、判決が下されたら彼岸に行く。そういうものだとか。


 さて、俺はどうか。四十九日が過ぎても迎えが来ることもなく、何も起こらないままここに居続けて、明日で一年になる。一年だ。一年。そろそろ、言わないといけない。認めないといけない。


「夢。よく聞け」

「未来……?」

「っだから、秋月くんは……」

「黙って! 未来が、ここにいる未来が、私に何か伝えようとしてるの!」


 友人は呆れかえって、もういい、と呟いて教室を出て行った。


「俺はここにいるべきじゃない。お前は俺と話すべきじゃない。俺は向こうに、お前はここに、いるべきだ」

「未来、やだ、私、まだきみといたい……お願いだよ、未来、もう一回だけ、きみに触れさせて」

「無理だ。なあ、わかってるだろ。お前と俺には……生者と死者には、壁があるんだよ。お前は俺に囚われるべきじゃない。なあ、夢。これは、俺とお前との、最後の会話だ」


 チャイムが鳴る。最終下校時刻まで、あと十五分。


「未来、あのね、私、この先何があっても、きみと出会ったことが一番の奇跡だと思う」

「……そうだな」

「私がこんなに明るくなったのは、きみのおかげ。きみは、私の太陽だから」

「……俺はそんな大層な人間じゃない」

「ううん、私にとってきみは、間違いなく太陽なの。憧れなの」

「…そうかよ。じゃあ、褒め言葉として受け取っておく」

「うん、そうして。……ねぇ、私覚えてるよ。未来がバスケ辞めるって決めたとき、泣いてたの」

「うるせーな……わかるだろ。泣きたくもなるだろ」


 俺はあの日も、未来を閉ざされた。交通事故に遭って動かしにくくなった、憎らしい右脚。それでも、ずっと俺を支え続けてきた右脚。あの怪我さえなければ、バスケを辞めることも、階段から落ちることもなかっただろうな。


「お前と出会ったこと、ここまでこうして話せてること、全部奇跡だ。……知っての通り、俺は感情表現がどうしようもなくヘタクソで、というか、たぶん世界のたくさんの事象に興味がなかった。あの日泣いたのは、お前に感化されたからだ」


 昔から人見知りなくせに、気心の知れた俺に対してはたくさんの表情を見せてきた、こいつのせいで。うっかり俺も、世界に興味を持ってしまった。バスケにも、仲間にも。


「そう? だったらさ、感情が豊かすぎる私と、うまく感動できないきみと、ふたりで一人前だね」


 涙を拭いて、彼女は眉を下げて力なく笑う。嫌だなあ、この期に及んで、こいつはまた俺の知らない顔を見せる。俺にできない顔をする。


「……そうかもな」

「ねぇ、未来。名前、呼んで」

「なんだ急に……夢。これでいい?」

「ありがとう。……未来、本当に、触れないのかな」


 夢は俺に手を伸ばす。俺の頬に触れたはずの手は、しかし空を切った。ダメなんだね、と言った声はわずかに滲む。夢の頬やら鼻の頭やらが赤いのは、俺の後ろから差し込む夕日のせいか、それとも瞳からあふれ出す涙のせいか。


「……ほら、早く帰れ。もうそろそろ見回りが来る」

「……うん」


 机に置いたままにしていたスクールバックを、夢は緩慢な動作で右肩に掛ける。ふうと一つ息を吐いた夢は、くるりと俺のほうを向く。


「未来」

「なんだ」

「……明日も、ここにいてね」


 言葉に詰まった。俺はこれに、なんと返すべきなのだろう。


 夢は俺に背を向けて、今まさに教室を出ようとする。


 ああ、なにか、なにか言えはしないだろうか。足りない頭を必死に動かす。今俺が、夢に言えることは何か。


 本当は、俺のことなど何も気にせず生きていてほしい、と思うべきだろう。それ以上は望むべきではない。しかしきっと、夢はそんなことできやしない。そもそも俺は、何の外連もなくそんなことを言えるほど大人ではない。そうして、とうとう俺は何も言えないまま、言わないまま、その背を見送った。ここで俺が何か言おうものなら、夢はきっといよいよ俺を忘れられなくなるだろうから。せめて俺のことを、この一年の不思議な日々のことを、綺麗な思い出として、胸の内にしまっておいてほしかった。


 日付が変わるとき、俺はきっと彼岸へ行く。そんな気がした。


 あいつが欲しいものを聞いてきた理由を、俺は本当のところではわかっていた。ただ、それが信じられなかったから、わからないふりをした。


 チャイムが鳴る。校内は暗くなっていって、見回りの教師がちらと教室を覗き込んだ後、美術室の扉に鍵をかけた。

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そして陽は沈む 真宮まつり @matsuri_03

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