2
十年という歳月が流れ、寂れた山間の町は少しずつ変わった。大きな宿ができ、エトランゼ亭の周りにも、新しいレストランやカフェが建ち並ぶようになった。
そんなある日、エトランゼの扉を叩く一組の客があった。
それは、恰幅の良い、初老の男と、彼より少し年若い青年の二人組だった。男の立ち居振る舞いには、旅慣れた雰囲気があるものの、その瞳にはどこか頼りなげな、ぼんやりとした影が宿っていた。
「ごめんください。ここで「一途」という名のローストビーフをいただけると聞きましたが?」
男はそう言って、カウンターに腰を下ろした。
セフィーラはいつものように、完璧な焼き加減のローストビーフを、シンプルなグレービーソースと、地元産の新鮮な野菜を添えて提供した。
男は静かに一切れを口に運んだ。
フォークの先で切り分けられた、ほんのりピンク色の肉片が、彼の口の中へと消えていく。
その瞬間、男の顔色がさっと変わった。目を見開き、噛みしめるたびに、彼の表情に驚きと懐かしさが混じり合った。
彼は目を閉じ、まるで遠い記憶を辿るように、ゆっくりと咀嚼した。
「……これは……」
男は一言だけ呟いた。そして、目を開けると、セフィーラをまっすぐに見つめた。彼の瞳の奥に、深い感情が揺らいでいた。
「この味は……まるで、俺の魂の故郷のような味がする……」
男は再び肉を口に運んだ。今度は、自分の味を確かめるように、料理人の真剣な眼差しで味わう。肉汁が口いっぱいに広がり、鼻腔を抜けるハーブの香りが、彼の記憶の扉を叩いているようでもあり、魂の飢えを満たすようでもあった。
食後、男はセフィーラに尋ねた。
「このローストビーフのレシピは、どなたから教わったのですか?この調理法、この火入れ……尋常ではない情熱を感じる」
セフィーラは、静かに答えた。
「十数年前、この街に立ち寄った旅の料理人から教わった、ただ一つのレシピです」
男の瞳の奥に、強い光が灯った。
「その料理人の名は?」
「リオネルと申します」
セフィーラが答えた瞬間、初老の男は雷に打たれたように固まり、代わりに彼の連れが話し始めた。
「私は、この人の世話役をしている者です。この人は、五年ほど前、異国の地で疫病に倒れました。
命は取り留めたのですが、過去数年間の記憶をひどく曖昧にしてしまったのです。
特に、自分が世界を股にかける料理人だったこと、そして、旅立つ前の記憶が、ほとんど消えてしまいました…彼の名前がリオネルなのです」
男は、自分の名をリオネルと告げられたにもかかわらず、どこか他人事のようであり、しかし、じっとセフィーラを見つめていた。
「彼は記憶を失っても料理への情熱だけは失いませんでした。彼は、失った記憶を取り戻す手がかりとして、自分が過去に追い求めた味を探し求めて、世界を旅し続けているのです」
連れの男性はわずかに微笑んでセフィーラに告げた。
「このローストビーフこそ、彼が求めていた味なのでしょう。この味は、彼の記憶ではなく、彼の魂が覚えている味なのです。彼は、この地を、決して忘れていなかった……」
セフィーラは、静かに、しかし強く、男の言葉を聞いていた。
リオネルは、約束を破ったわけではなかった。
彼は、病と戦い、記憶という最も大切なものを失いながらも、セフィーラとの愛の証である「味」を求めて、無意識のうちに、約束の場所へと帰ってきていたのだ。
「私が待っていた時は決して間違いじゃなかった…」
セフィーラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 それは、深い安堵と、愛しい人がすぐそこにいるのに、まだ遠いという、胸の奥に秘めた哀切の涙だった。
・・・・・・
セフィーラは静かに立った。 観客たちの視線が彼女に集まる。
リオネルは席から動かず、カウンター越しにセフィーラを見つめる。 胸の奥が熱くなる。 かすかに震える手。呼吸が止まる。
セフィーラは涙を拭い、静かに、しかし強く、リオネルを見つめ返した。
彼女の体が一瞬止まったかと思うと、次の瞬間、まるで彼に何かを求めるかのように、その視線は店の奥、厨房の入り口へと向けられた。
リオネルの目に、昔の情熱が戻る。 体が前のめりになり、自然と立ち上がる。
彼は、カウンターを飛び越え、迷うことなく厨房へと駆け上がる。
セフィーラへの愛と、究極の肉料理への情熱、その二つが結びついた場所。
彼は、一歩、また一歩と、厨房の奥へと進むたび、記憶の断片が蘇る。
岩塩とハーブの香り、使い込まれた調理台、セフィーラが毎日手を入れ続けたオーブン……。
リオネルの手が、古い棚に置かれたままになっていた、彼が使っていたスパイス入れに触れた。
彼はすべてを思い出した。 岩塩とハーブの香り、白いハンカチ、約束の言葉、そして愛しい人の笑顔と約束……。
「セフィーラ!」
声が空間を震わせる。
リオネルは、厨房から振り返り、セフィーラをまっすぐに見つめた。 その瞳に、かつての料理人リオネルの鋭い光が宿っていた。
セフィーラは微笑む。 嗚呼、帰ってきた…。
二人は、十数年の時と記憶の壁を越え、厨房の入り口で再会した。
「一途という名の料理。愛しい人の記憶を求め、命を懸けて作り続けた、奇跡の味…」
そう誰かが囁いた……。
・・・・・・
リオネルは、すべての記憶を取り戻したわけではなかった。 しかし、セフィーラへの愛と、究極のローストビーフの味、そして料理人としての魂という、最も大切な記憶が鮮明に蘇った。
彼はこの町に留まることを決めた。
「俺の旅は終わった。約束通り、帰ってきたよ、セフィーラ、待たせすぎてごめん」
リオネルとセフィーラは、エトランゼ亭を「灯(ランプ)」と名を変え二人でやって行く事にした。
リオネルは、セフィーラの愛が完成させたローストビーフを、「一途」の名で守り続けた。彼は、記憶の曖昧な部分をセフィーラの愛で補いながら、その技術と情熱を再び潮風の街で燃やした。
セフィーラは、もう誰かを待つ料理は作らない。 傍らのぬくもりを守るのみである。
彼女の料理は、愛する人を繋ぎ止めた、「奇跡の愛」として語り継がれる。
そして、そのお話の向こうには彼らの愛の証である最高の肉料理が、いつも優しく灯をともし続けている。
エトランゼ亭(灯)の扉は、今夜も静かに開かれる。 店内にはローストビーフの香りが満ち、厨房から聞こえる小さな音が、二人の息づかいと重なる。 セフィーラはカウンター越しに微笑み、リオネルはその笑顔に応える。
誰も知らない小さな奇跡が、ここにある。 十数年の時と、記憶の壁を越えて、二人の愛が、静かに日常の中で生きていた。 そして、街に灯るランプは、今も変わらず、優しく道を照らしている。
一途というローストビーフ 茶ヤマ @ukifune
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