婚約を破棄されたので殺しました

亜逸

婚約を破棄されたので殺しました

「婚約を破棄されたので殺しました」


 己を取り囲む衛兵たちに対して、ネグリジェを血の赤に染めた、見目麗しい金髪の乙女――リリーザ・トニトリアは無感情に告げる。

 リリーザの足元には、彼女の婚約者にして、この国――ダラスドマ王国の第三王子デリーヒトの死体が血塗れになって倒れ伏していた。

 そしてリリーザの手には、デリーヒトの血で染まったナイフが握られていた。


 目的は果たしたとばかりに、リリーザが力なくナイフを取り落とした瞬間、衛兵たちは即座に彼女を取り押さえにかかる。

 何の抵抗も示すことなく床に組み敷かれる中、リリーザは自分と同じように床に倒れ伏すデリーヒトを見て、安堵する。


 よかった。ちゃんと仇を討つことができた――と。




 ◇ ◇ ◇




 トニトリア子爵家の長女として生まれたリリーザには、将来を誓い合った相手がいた。

 名はサイラス・エルスマン。

 トニトリア子爵家と親交があったエルスマン男爵家の長男で、金髪のリリーザとは対照的な銀髪がよく似合う、愛嬌と精悍さを併せ持つ好青年だった。


 リリーザもサイラスも互いが互いに相手のことを心の底から愛しており、その日、近く結婚式を挙げるつもりだった二人は式場となる教会の下見に訪れていた。


「本当に素敵な教会ね、サイラス」


 神々しくも鮮やかなステンドグラスを見上げながら、リリーザは陶然と呟く。


「ああ。ここで君と式を挙げられることが、今から楽しみで仕方ないよ」


 サイラスも自分と同じ気持ちであることが嬉しくて、リリーザは微笑みながらら肩を寄せる。

 そうするのが当然とばかりに、サイラスはリリーザの肩を抱いた。


「ええ。本当に楽しみ。だけど……同時に、申し訳なく思う気持ちもあるの。私たちはこんなに幸せなのに、この国の民たちは……」

「リリーザ。そういった話はあまり口に出さない方がいい。僕たち貴族だって、王家に目をつけられたらどんな扱いを受けるかわかったものではないのだから」


 サイラスに窘められ、口ごもる。


 このダラスドマ王国では、王家が専横を極めていた。

 おのが贅を尽くすためだけに民に重税を課し、その日その時の気分で男は労働力あるいは兵力として、女は慰み者として連れ去られる。遊び感覚で民の命を摘むことも、そう珍しい話ではない。

 リリーザたち貴族も平民に比べたらマシというだけで、王家の専横に晒されているという意味では変わらない。


 自分たちの幸福が薄氷の上に成り立っている――そのことはリリーザも理解している。

 それでも、今もなお苦しめられている民たちに申し訳ないという気持ちを抑えることができなかった。


 もっともそれは、あくまでも理解しているという程度の話。

 爵位の低さゆえに王家に目をつけられずに済んでいるおかげもあってか、実感という意味では、それこそリリーザもサイラスも理解しているとは言い難かった。


 そして、


 否応なく実感させられる瞬間は、すぐそこまで迫っていた。


「お、お待ちください!」


 ともに下見に来ていた、サイラスの父――エルスマン男爵の逼迫した声が教会の外から聞こえてくる。

 ほどなくして中に入ってきた、悪趣味なまでに華美な装束を身に纏った男を見て、リリーザもサイラスも思わず息を呑んでしまう。


「デ、デリーヒト様……」


 半ば無意識の内にリリーザは男の名を、ダラスドマ王国第三王子の名を呟く。

 第三王子デリーヒトは、ダラスドマ王家の専横ぶりを象徴したような人物だった。

 貴族、平民関係なく、見初めた女性を権力を盾に奪い取り、強制的に婚約を結ばせることで、さもその女性が良い目を見させてもらっているように見せかけ、弄ぶだけ弄んだ末に捨てる。

 やっていることは外道の一語に尽きるのに、王家という後ろ盾ゆえに咎められることはない。


 そのデリーヒトが、なぜか、突然、自分たちの前に現れたのだ。

 つい先程まで、ともすれば王家の批判とも捉えられかねない話をしていたせいもあって、リリーザとサイラスは思わず表情を強張らせてしまう。

 そんな二人の様子に気づいているのかいないのか、デリーヒトは下卑た笑みを浮かべながらこちらに近づいてくる。

 リリーザを守るようにして一歩前に出たサイラスの目の前で足を止めると、デリーヒトはサイラスを無視して、下卑た笑みをそのままに言った。


「貴様がリリーザか。なるほど、なかなかに俺好みの顔と体をしているな」


 案の定、デリーヒトの目的がリリーザであることを知ったサイラスは、角が立たないよう気をつけながら第三王子に意見する。


「デリーヒト様。第三王子である貴方様といえども、結婚予定の女性に対してそのような物言いをするのは、些か問題があるかと」

「その相手が貴様というわけか」

「恐れながら」

「そうか」


 と、応じたのも束の間、デリーヒトは腰に下げていた剣を抜き、勢いをそのままにサイラスの胴をはすに斬り裂く。


「これで、結婚の予定はなくなったな」


 笑いを堪えるような言葉が聞こえる中、サイラスは背中から床に倒れる。

 リリーザは何が起きたのか理解できず「え……?」と呆けた声を漏らすも、サイラスが倒れた際に散った返り血が頬に付着した瞬間――


「いやぁあぁああぁああぁあぁっ!! サイラスっ! サイラスっ!!」


 絹を裂くような悲鳴を上げてサイラスに縋りつこうとする。が、そうはさせまいとデリーヒトに腕を掴まれ、制止させられてしまう。


「離してくださいっ!! 手当てを! サイラスの手当てをさせてくださいっ!!」


 相手が第三王子であることも忘れて掴まれた腕を振り払おうとするリリーザに、デリーヒトは口の端を吊り上げながら言う。


「そうか。手当てか。ならば、そんなことをする必要性をなくしてやろう」


 デリーヒトは腕力に物を言わせて、サイラスから遠ざける形で、暴れるリリーザを床に打ち捨てる。

 そして、剣を逆手に持ち変えながらサイラスに近づ――


「サイラスッ!!」


 ようやく目の前の事態を飲み込めたのか、エルスマン男爵が、デリーヒトから庇うようにしてサイラスに縋りつく。


「しっかりしろッ!! 今医者を呼んで……や……る……」


 だが、サイラスの脈を確認した途端に言葉尻が小さくなっていき、心臓の鼓動を確かめるために胸に耳を当てた直後、


「……あ……あぁ……」


 絶望に満ちた嗚咽が、エルスマン男爵の口から漏れ出てくる。


「そん……な……」


 床に打ち捨てられ、体を起こしたリリーザの表情も絶望に充ち満ちていく。


 サイラスが死んだ?

 なんで?

 どうして?

 さっきまで一緒に笑っていたのに?

 さっきまであんなに幸せだったのに?


 頭では理解できても、心が目の前の現実を受け入れてくれなかった。受け入れられるわけがなかった。


「ふん。トドメを刺すまでもなかったか」


 デリーヒトはつまらなさげに吐き捨てると、剣を鞘に収め、茫然自失としているリリーザを馬車へ運ぶよう、教会の外に待機させていた近衛兵に命じる。


 その際、エルスマン男爵と同様、教会の下見に同行していたリリーザの父――トニトリア子爵が騒ぎを聞きつけ、「お待ちください!」と娘が連れ去られるのを食い止めようとするも、


「貴様も、ああなりたいのか?」


 血溜まりに倒れるサイラスを顎で示すデリーヒトに恐れを為し、色を失いながらも道を譲る結果に終わってしまう。


 リリーザは、馬車に乗せられてなお茫然自失としたままだった。

 その様をいっそ愉快に思っているのか、デリーヒトは絶望に彩られたリリーザの顔を満足そうに眺めてから、王城へ向かうよう御者ぎょしゃに命じた。











 王城の一室に軟禁されたリリーザは、まるで人形のようだった。

 眉一つ動かさず、言葉一つ発さない。

 それは、最愛の人を失ったリリーザが無意識の内にとった、己の心を護るための行動であり、最愛の人を失ったとわかっていてなおその事実を認めない現実逃避でもあった。


 そんなリリーザの心を、デリーヒトは容赦なく踏みにじった。


「どうした? そんな無駄な抵抗をしたところで、貴様が俺のものになった事実は変わらんぞ?」


「そうやってしていれば、サイラスとかいう間抜けな婚約者が現れてくれると本気で思っているのか? だとしたら残念だったな。そいつは俺の手でもうとっくにあの世に逝っている」


「今日も悲劇のヒロインぶっているのか? そんなことをしても、愚かなサイラスが生き返ったりはしないぞ?」


 そうやって毎日毎日少しずつ少しずつリリーザの心を揺さぶり、少しずつ少しずつリリーザの心を傷つけたところで、トドメに等しい言葉を浴びせる。


「いいことを思いついた。あのエルスマンとかいう、うだつの上がらない男爵に息子サイラスの剥製を造らせ、この部屋に持ってくるよう命じよう。よかったな。これで貴様は毎日サイラスと会えるようになるぞ」

「……いや……いやぁ……」


 閉ざされた心を無惨な形でこじ開けられたリリーザの口から、絶望が漏れる。

 そして、


「それだけはお許しくださいデリーヒト様! どうか……どうかサイラスを静かに眠らせてあげてください!」


 縋りつき、懇願した。

 これが見たかったとばかりに、デリーヒトは口の端を吊り上げる。


「案ずるな。サイラスの剥製なんてものは、造る気はない」


 言い回しに不吉なものを感じたリリーザは、恐る恐るデリーヒトを見上げる。


「『もう』とは、どういう意味ですか?」

「実を言うと、もう何日も前にエルスマンに息子の剥製を造って俺のもとに持ってくるよう命じていたのだが、あろうことかあの男、息子の死体のみならず、一族郎党もろとも出奔しよってな。さすがの俺も、逃げた腰抜けどもをわざわざ捜し出してまでサイラスの剥製を造らせる気にはなれなかったというだけの話だ」


 そう言って、デリーヒトは高笑いする。

 もし、仮に、エルスマン男爵が出奔していなかったら……今自分の目の前にサイラスの剥製があったかもしれない事実に、リリーザはただただ色を失った。











 それからのリリーザの日々は、地獄の一語に尽きるものだった。

 本当ならばサイラスに捧げるはずの純潔を、デリーヒトに力尽くで奪われた際、


「このダラスドマ王家の子種を賜ることができたのだ。笑え。喜べ。貴様は本来得られるはずのない栄誉を手にすることができたのだぞ。まあ、貴様如きの腹からとうときダラスドマの血筋を産み落とさせるわけにはいかんから、避妊の薬はしっかりと飲んでもらうがな」


 心ない言葉を浴びせられた挙句、言葉どおりに笑って喜ぶよう強要された。

 その日以降、何度も何度も尊厳を踏みにじられ、心が摩耗したリリーザに、デリーヒトは言う。


「なんだその顔は? 本来ならば天地がひっくり返っても婚約を結ぶことができないこの俺と婚約し、毎日のように寵愛を受けているのだぞ? もっと幸せそうな顔をしたらどうだ? たとえば、あの日、あの場所で、あの男に向けていたであろう顔と同じようにな」


 どこまでもどこまでも非道に、執拗に、デリーヒトはリリーザを虐げ、おのが欲望の捌け口にする。

 虐げられれば虐げられるほど、リリーザの心に、暗く、激しい、情念が燃え上がっていく。


 殺意という名の情念が。


 だが、その情念に従って行動を起こせば、父――トニトリア子爵のみならず、その一族郎党の首がギロチンにかけられることになる。それだけは絶対に避けなければならない。

 ゆえにリリーザは、月に一度のみ面会が許されているトニトリア子爵に、あらかじめしたためておいた密書をデリーヒトの目を盗んで渡し、エルスマン男爵と同じように、一族郎党を連れてこの国から出奔するようお願いした。

 密書のやり取りを交わす中、命を捨ててまでサイラスの仇を討とうとする娘を説得していたトニトリア子爵も、こちらの決意が固いことを知り、折れてくれた。


 それから一ヶ月後、トニトリア子爵とその一族郎党が出奔した話を、デリーヒトは喜々としてリリーザに語ったが、それはすなわち出奔の話をすればリリーザを虐げることができると彼が思い込んでいる証左。

 つまりは、デリーヒトがこちらの殺意には気づいていない証左だったので、この時ばかりはリリーザも少しだけ小気味良い気分だった。


 これで舞台は整った。

 けれどすぐに事を起こせば、父たちの出奔が、リリーザがデリーヒトを殺すつもりでいることを知った上での行動だと、ダラスドマ王家に思われてしまう。

 そうなってしまったら、王家は地の果てまで父たちを追跡することだろう。


 ゆえにリリーザは待った。

 デリーヒト殺害と、父たちの出奔は無関係だと思わせるほどの、仮にそう思わなかったとしても、追いかける気が失せるくらいに手がかりらしい手がかりが失せるくらいの月日が流れるのを。

 デリーヒトを殺してもおかしくないと思わせる契機が訪れるのを。

 ただひたすらに待ち続けた。


 そうして待って待って待ち続けて――


 二年後。リリーザの心と体が限界まで擦り切れ、何をされてもろくに反応を示さないほどにまで心が死んだ頃に、デリーヒトは「もう飽きた」という理由で、形だけの婚約を破棄した。

 一族郎党が出奔したことで、どこにも行く当てがないリリーザにとって、デリーヒトとの婚約を破棄されることは死の宣告と同義。

 デリーヒトを殺す動機としては充分だと確信したリリーザは、表向きは心が死んでいようとも、絶えず燃やし続けていた殺意に従って、最後にもう一度だけ自分を抱きに来たデリーヒトを隠し持っていたナイフで突き刺した。


「ぐ……は……ッ!? ち、血迷ったか、リリーザ!?」


 刺された脇腹を手で押さえ、後ずさりながらデリーヒトはリリーザを睨みつける。


「血迷ってなどいません。私はいたって正気ですよ、デリーヒト様」


 無感情な声音で応じながら、リリーザは血の赤に染まったナイフを片手にゆっくりと詰め寄っていく。

 声音からも表情からも何の感情も感じられないことが、かえって一層強い殺意を感じさせたのか、デリーヒトは思わず怯んでしまい、さらに後ずさってしまう。


「ま、待て! 貴きダラスドマ王家の血がこんなにも流れているのだぞ!? も、もう充分ではないか!?」

「充分とは?」


 本当に、心の底から、相手が何を言っているのか理解できなかったリリーザは、ほんわずかに首を傾げながら詰め寄っていく。

 今まで散々見せつけられた尊大さはどこへやら、デリーヒトは情けなく尻餅をつきながら叫んだ。


「え、衛兵! 衛兵はどこに行った!? さっさと俺を助けに来い!!」

「何を言っているのですか。私を虐げ、いたぶることによって生じた悲鳴を独占したいと、衛兵の方々をこの部屋から遠ざけたのは、他ならぬデリーヒト様ではありませんか」


 今さらながら思い出したのか、デリーヒトの顔色が真っ青になる。


「ま、待ってくれ……助けてくれ……命だけは助けてくれ……」


 恥も外聞も捨てて命乞いするデリーヒトに、リリーザはいよいよ本格的に首を傾げる。


「何を言っているのです? トドメを刺すまでもなくサイラスが亡くなっていたことを知った時、あなたはひどくつまらなさそうにしていたではありませんか。これから私がするのは、あなたの大好きなトドメですよ?」


 相手が何を言っているのかわからない――今度は、デリーヒトの方がそう思わされる番だった。

 だったから、情けなく失禁するほどにまで恐怖を覚えてしまった。


 そんなデリーヒトを生ゴミでも見つめるような目で見下ろしながら、リリーザはナイフを逆手に持ち替える。


 そして、


 デリーヒトの胸板目がけて、微塵の躊躇もなくナイフを振り下ろした。




 ◇ ◇ ◇




 デリーヒトを殺し、衛兵に取り押さえられた後、リリーザはそのまま王城の地下にある牢屋にぶち込まれた。

 それから間を置かずしてやってきたのが、デリーヒトの父――ダラスドマ国王だった。


「子爵家の令嬢風情がやってくれたものだな」


 遊び感覚で散々民を殺してきた国王の目は、自分の息子を殺された怒りに充ち満ちていた。

 そんな国王を内心で軽蔑しながら、リリーザは感情のこもらない表情で、声音で、デリーヒトを殺してから何度も言い続けた言葉を紡ぐ。


「婚約を破棄されたので殺しました」


 そんなリリーザを内心のみならず態度で軽蔑しながら、国王は苛立たしげに言う。


「心が壊れているフリはよせ」

「婚約を破棄されたので殺しました」

「貴様の一族郎党が出奔したのも、貴様の指図によるものだろう?」

「婚約を破棄されたので殺しました」

「出奔から二年……最早彼奴きゃつらがどこにおるのかもわからぬ。本当にやってくれたものだな」

「婚約を破棄されたので殺しました」


「心が壊れているフリはよせと言っとるだろうがッ!!」


 国王の怒号が響き、居合わせていた牢番の兵士が震え上がる。

 デリーヒトの殺害を企てた時点で死を覚悟していたリリーザが、今さらその程度のことに動じるわけもなく、


「婚約を破棄されたので殺しました」


 引き続き無感情に、されど心の内では挑発の意を込めながら、同じ言葉を繰り返した。

 国王は青筋を浮かべ再び怒鳴ろうとするも、さすがに無駄な行為であることには気づいているようで、深々とため息をついてからリリーザに告げた。


「三ヶ月後、貴様の公開処刑を執り行う。その旨を大陸全土に告知した上でな」


 国王の言わんとしていることを察したリリーザは、口元まで出かけていた「婚約を破棄されたので殺しました」を思わず飲み込んでしまう。

 そのことに目聡く気づいた国王は、我が意を得たりとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべながら言葉をつぐ。


「三ヶ月もあれば、大陸のどこにいるやもわからぬ貴様の父親にも、処刑の報は届くであろう。さて、貴様の父親は、娘が処刑されると聞いてこの国に戻ってくるか否か……まあ、どちらに転んでも見物みものではあるな」


 息子が息子ならば親も親と言うべきか。

 デリーヒトと同様、悪趣味な方向で知恵が回る国王に吐き気を覚えたリリーザは、溜飲を下げたまま帰らせてやるものかとばかりに、「婚約を破棄されたので殺しました」と無感情に返した。











 三ヶ月後。

 王城前の広場で処刑されることとなったリリーザは、国王がわざわざこのために造らせた舞台の上で、十字の磔刑たっけい台にはりつけにされていた。


「どうだ? 良い眺めであろう?」


 広場に万に及ぶ民衆に視線を巡らせながら、国王は満足げに言う。


「ギロチンでは苦しむことなく一瞬で終わってしまうからな。デリーヒトを殺した貴様には苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に死ぬ義務がある。よって……」


 国王は舞台の下に待機していた兵士たちに向かって顎をしゃくる。

 それだけで理解した兵士たちは、油がたっぷりと染み込んだ藁を、磔にされているリリーザの足元に積み上げた。


「貴様は火刑に処すことにした。この儂を愉しませるという意味でも、この儂の逆鱗に触れたらどうなるか愚民どもに知らしめるという意味でも、精々みっともなくもがき苦しんでから死んでくれよ?」


 まさしくリリーザがもがき苦しむ様を間近で見るつもりなのか、国王は舞台から下りず、磔刑台から少し離れた位置で処刑の準備が終わるのを待った。

 その間リリーザは、見たくもない処刑を見せつけられるために王命と称して広場に集められた民衆の様子を、ボンヤリと眺めていた。


 民衆の多くがこの処刑に対して不快感を覚えているようで、リリーザに向けられた視線の多くは憐憫に満ちていた。

 一方、国王に向けられた視線は、恐れや怒りといった負の感情がほとんどだった。

 国王も当然それらの視線に気づいているが、千人規模で配置した兵士たちを前にして、民衆にできることなど何もないことがわかっているため、いっそ愉悦すら覚えている様子だった。


 その様子を眺めながら、リリーザは思う。


(ああ……これでやっと、サイラスのもとへ逝ける……)


 デリーヒトの辱めに耐え、生き恥を晒し続けたのは、あくまでもサイラスの仇を討つため。

 それを成し遂げた以上、もうこの世に留まる理由はない。

 心残りがあるとすれば、家族であるトニトリア子爵家とその一族郎党の無事をこの目で確かめることができなかったことくらいだ。


 などと、考えていたせいか。

 リリーザは不意に、見つけてしまう。

 民衆の中に紛れ込んだ、父――トニトリア子爵の姿を。


 父がこの広場にいる理由は考えるまでもない。娘である自分を助けに来てくれたのだ。

 多少は手勢を揃えているだろうが、この場には千人規模の兵士が配置されている以上、そんな真似をしたところでただ無駄死にするだけ。

 それがわかっていたからこそ、デリーヒトによって殺されたはずのリリーザの心が、表情が、悲痛に歪んでしまう。


(どうして……! 私のことは見捨ててほしいと、あれほどお願いしたのに……!)


 声に出すわけにもいかず、視線だけで自分のことは見捨てるよう父に訴えていたところで――ふと気づく。

 父の周囲にいる手勢も含めて、広場に集まった民衆のそこかしこに、覚悟をたたえた目をした者たちが、千の兵士に倍する規模でつどっていることに。


 いったい何が起ころうとしているのか……戸惑いながらも視線を巡らせていたところで、リリーザは、視界に映った〝彼〟を見て目を見開いてしまう。


 そんな……


 あり得ない……


〝彼〟がこの場にいるはずが……!


 胸中に疑問と喜びが渦巻く中、〝彼〟はその手に持った弓をつがえ――放った矢で国王の右肩を貫いた。


「な……にぃ……ッ!?」


 愉悦に満ちた表情が、苦痛と怒りに変わる中、


「かかれぇえぇえぇええぇえぇッ!!」


〝彼〟の号令一下、隠し持っていた武器を抜いた数千もの民衆が処刑の舞台に殺到した。


「ひぃ……ッ!」


 千の兵士程度では抑えられないと見るや、国王は引きつるような悲鳴を上げながら我先にと王城へ逃げていく。

 全てを呑み込む激流と化した民衆が兵士たちを蹴散らし、国王を追って王城へ流れ込んでいく。

 その様を唖然と眺めていたリリーザのもとに、トニトリア子爵とその手勢がやってきて、彼女を磔刑台から下ろした。


「お父様……これは一体……」


 いまだ事態が飲み込めず、呆けた声で訊ねるリリーザに、トニトリア子爵は満面の笑みを湛えながら言う。


「あれほどの圧政を敷いていたのだ。民の中から国家を打倒しようと考える者が現れるのは当然の帰結というもの。〝彼〟はそうした者たちを束ね、レジスタンスを組織したわけだが……」


 トニトリア子爵は後方を見やり、笑みを浮かべながら言葉をつぐ。


「詳しい話は、から聞くといい」


 トニトリア子爵の視線の先には〝彼〟の姿が、



 デリーヒトに殺されたはずの最愛の人――サイラス・エルスマンの姿があった。



 死ぬ間際に見た都合の良い夢でも構わない。

 今だけは愛する人と再会できたことを喜びたかったリリーザは、目尻から涙を舞い散らせながらサイラスに抱きついた。


「サイラス……サイラス……! またあなたに会えるなんて……!」


 サイラスも涙を堪えながら、リリーザを優しく抱き返す。


「僕も会いたかったよ、リリーザ。……すまない。君がこんなになるまで助けに来てあげられなくて」


 デリーヒトに虐げられ、彼を殺した後も三ヶ月間牢に繋がれたリリーザは、痩せこけて見るも無惨な有り様になっていた。


「そんなことないわ……! たとえ夢でも、あなたに会えただけで私は……私は……!」


 澎湃ほうはいと涙を溢れさせる、リリーザ。

 サイラスは彼女を抱く腕に少しだけ力を込めながら、されど言葉にはこれ以上のないほどの力強さを込めながら言う。


「夢じゃないよ。教会でデリーヒトに斬られた時、僕は確かに瀕死の重傷を負ってしまった。けれど、、一命をとりとめることができたんだ」


 そう言ってサイラスは、王城へなだれ込む民衆を指揮する、父――エルスマン男爵を一瞥する。


 う。

 あの時、サイラスはデリーヒトに斬られて意識を失ったものの、命までは失っていなかった。


 サイラスがデリーヒトに斬られた直後、エルスマン男爵はまさかの出来事に驚愕以上の怒りを覚えた。

 だが、その感情を露わにしたところで事態がさらに悪化するのは目に見えている。

 ゆえに、相当な努力を要して怒りを鎮め、この状況から息子を助けるすべを模索した。


 デリーヒトがこのまま引き下がってくれたら、すぐさまサイラスの容態を確認し、然るべき治療を受けさせていたところだが、やはりというべきか、デリーヒトはサイラスにトドメを刺す腹積もりだった。


 息子はまだ生きていると仮定、というよりも、生きていると信じたエルスマン男爵は、命乞いをしたところでデリーヒトが息子にトドメを刺すことをやめないと確信していた。

 られる前に殺ることも考えたが、そんなことをすれば自分とサイラスのみならず、一族郎党がギロチンにかけられることになる。

 この身を挺して庇ったところで、斬殺死体が一つ増えるだけの結果に終わるだけだろう。


 ならば、サイラスが死んだとデリーヒトに信じ込ませるしかない――数秒にも満たない中そう結論づけたエルスマン男爵は、迫真の演技をもってサイラスに縋りつき、彼が死んだように見せかけた。

 それでもなおデリーヒトがサイラスの生死を確かめようとした場合は詰みだったが、上手く騙せたのか、それとも単純にサイラスのことなどどうでもいいと思っていたのか。デリーヒトは、すぐにサイラスへの興味を失ってくれた。

 そして、デリーヒトがリリーザを連れ去った後、彼女には悪いと思いながらも秘密裏にサイラスを教会から運び出し、信頼できる医者に診せた。


 デリーヒトに斬られた傷は思いのほか深く、サイラスは数日もの間、生死の境を彷徨った。

 その最中さなかに、息子を斬った張本人から息子の死体の剥製を造って王城に持ってこいと、紙切れ一枚で命じられたのだ。

 ダラスドマ王家を見限る理由としては充分であり、エルスマン男爵は、サイラスを安全な場所で治療させるためにも、一族郎党とともに出奔することを決意したのであった。


 それから半月後、意識を取り戻したサイラスは言う。

 僕は絶対にリリーザを取り戻す――と。


 傷が完全に癒えた頃、サイラスはエルスマン男爵の反対を押し切ってダラスドマ王国へ戻った。

 どうにか王城に忍び込んで、リリーザを連れ出そうと画策したが、どうにも彼女は王城内でも相当に警備が厳重な場所に軟禁されているらしく、彼女の様子を確かめにいくことすらできなかった。


 リリーザのためならば国家の転覆すら辞さない覚悟だったサイラスは、次の一手として、王国に不満を抱く者たちを集めてレジスタンスを組織した。

 まさかそこまで無茶をやらかすとは思わなかったエルスマン男爵は、初めの内はサイラスを止めようとしていたものの、彼の並々ならぬ覚悟を前に説得を諦め、レジスタンスに協力することを決意した。


 王国を打倒するほどの力を蓄える必要がある以上、相応に時間がかかるのは避けられない。

 サイラスはそのことに歯がゆさを覚えながらも、そのせいでリリーザが取り返しのつかないほどにデリーヒトに壊されてしまうのではないかと恐怖しながらも、粛々とレジスタンスの力を蓄え続けた。

 そして、リリーザの処刑の報を聞き、勝算は未知数であることを承知した上で事を起こすことを決断した次第だった。


「さすがに僕も、民たちの怒りがここまでだったとは思わなかったけどね」


 訓練された兵士たちを圧倒して次々と王城へなだれ込む民衆を見やりながら、サイラスは言う。

 レジスタンスを組織したのはサイラスだが、組織した理由が愛する女性を助け出すためであることは常々公言している。

 ゆえに、リーダーであるサイラスに代わってエルスマン男爵が蜂起した民衆の指揮を執っていることにも、サイラスが国王を追おうとしないことにも、文句をつける人間は一人もいなかった。

 むしろ、目的を果たしたサイラスに祝福の視線や言葉を向けてくれた。


 その最中さなか、サイラスは万感の思いを込めてリリーザに言う。


「もう離さない。もう誰にも渡さない。これからはずっと、僕は君と一緒にいる」


 そう言って再び抱き締めようとするサイラスの体を、リリーザは両手で、弱々しく押し止める。


「私も同じ気持ちよ……だけど……だけど……」


 これまで流していた喜びの涙が一転、悲しみの涙がリリーザの頬を伝っていく。


「私は……穢されてしまった……。この体に汚いところなんてないくらいに……デリーヒトに穢されてしまった……。そんな私に、あなたに抱き締められる資格なんて――」


 知ったことかと言わんばかりに、リリーザの抵抗を押しのけて、サイラスが抱き締めてくる。


「君が一緒にいてくれる。僕にはそれだけで充分だ。それ以上の幸せなんて知らないし、知りたくもない」


 穢れていてもいい。

 汚くなっていてもいい。

 僕と一緒にいてくれ。

 抱き締めてくれた腕から、密着した胸から伝わってくる心臓の鼓動から、痛いくらいに伝わってきた想いを前に、リリーザは悟る。

 自分がいかに馬鹿なことを考えていたのかを。


 この人は、私がこの世でただ一人愛した人なのだ。

 穢れたくらいで、汚くなったくらいで、私のことを決して見放したりしないことはわかっていたはずだ。


「ごめんなさい、サイラス。馬鹿なことを言ってしまったわ……」


 過ちを認め、サイラスの背中に腕を回し、抱き締め返す。


「馬鹿なんてとんでもない。君はいつも聡明じゃないか。僕なんかよりもずっと」


 サイラスは、もう堪えきれないとばかりにリリーザと唇を重ねる。

 デリーヒトのそれとは違い、優しく、情熱的な口づけを、リリーザはこれ以上ないほどの幸福を覚えながらも受け止めた。




 その後――




 ダラスドマ王国は民衆によって打倒され、国王は民の血を散々吸ったギロチンで処刑され、民主導の国家が新たに立ち上げられた。

 その初代首長にサイラスを推す声もあったが、愛する女性との喪った時間を取り戻したいことを理由に固辞した。

 誰もがその答えを予想していたのか。ならばとばかりにエルスマン男爵が推され、他の推薦者たちと選挙で争った末に初代首長に選ばれた。


 それから三年。小さな、されど数え切れないほどの諍いを経て、民主国家ダラスドマが軌道に乗り始めた頃。

 かつて王城があった町の外れにある、慎ましやかな一軒家に住んでいたリリーザとサイラスに、二人にとっては先の革命よりも重大な出来事が発生する。


「ほ、本当……なのか?」


 どこか夢見心地に訊ねるサイラスに、この三年の間に心身ともにすっかり回復したリリーザが、目尻に涙を浮かべながら首肯を返す。


「ええ。私とあなたの子供がここに」


 そう言って、愛おしげに自身の腹を撫でる。

 直後のサイラスの喜びようは、それはもう飛び跳ねんばかりだった。


 革命を成し遂げたレジスタンスのリーダーとその妻の生活としては、やはり慎ましやかではあるけれど。

 二人の表情は、これまでの苦難な嘘のように、幸せに満ち溢れていた。

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婚約を破棄されたので殺しました 亜逸 @assyukushoot

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