第48話 崩壊の予感
ノアの瞳は、銀色のデータ筒が映し出した地獄の映像と、イザナの背に刻まれた純粋な炎を同時に見ていた。
画面の牢獄、注射器、締め付けられる腕の列――それらが彼の内部で乱反射し、薄い氷のように堆積した感情を押し崩していく。
胸の中で何かがざらりと音を立てて砕けるのがわかった。
「……全部、見たのか」
イザナの声は確認の余地を与えない断命のように落ちた。熱を含んだものではなく、掴むと手が切れるような冷たさを伴っていた。
ノアは小さく頷く。
言葉にならない砂礫されきが喉元で乾き、呼吸が粗くなる。胸の内側で、再生してしまった痛みと、イザナに向けた過去の温度が嵐のように衝突していた。
感情は水槽の中のガラス細工のように揺らぎ、いつ砕けてもおかしくない。
イザナはノアを抱きしめたまま、低く囁くように言った。
「俺は――お前を奪った世界を、全部壊した」
その言葉は救済でもなく、威嚇でもなく、宣告に近かった。
ノアの震える指先が、データ筒の冷たい金属を掴み直す。その感触は、まるで水面に浮かんだ氷を握りしめたかのように冷ややかだった。指先の感触は昔嗅いだことのある薬臭さと同時に、燃えた木の匂いを微かに纏っていた。
ノアの世界がどこまで焼かれ、何が灰となって空に消えたのか。
彼の身体はその恐ろしい事実を、傷を負った野良猫が優しい手を拒むように、まだ全てを受け入れられずにいた。
「答えは出ただろう、ノア」
イザナの声は更に低く、そこには選択肢の余地がなかった。
「この世界か、俺か――どちらを選ぶ?」
ノアの中で、幼馴染の淡い影がふわりと浮かんでは消える。
だがその光景は、まだ名前にならない。
言葉として確かに呼べるところまで戻ってはいなかった。彼の内側を支配しているのは、計算された冷たさと、再び燃え上がった痛み。
それらが綱引きをする中で、答えは出せずにいた。
「……おれ、は……」
その瞬間、警告音は間に合わなかった。
床が一瞬、大地の吐息のように内臓を揺らすほどの微かな振動を持って揺れ、次いで執務室全体を、肉を叩き潰すような凄まじい衝撃が襲った。
防弾ガラスが巨大な鐘を骨が砕ける音に似た響きで殴られたようにひずみ、微細な亀裂が蜘蛛の巣のように急速に広がる。
ノアの身体が抱かれたまま大きく揺らされ、額の冷たさとイザナの体温の熱さが混ざり合った。
机上の万年筆や紙が空気の波に乗って狂ったように踊り、空気は瞬時に血と硝煙、そして肉が焦げたような匂いで重く満たされた。
窓の外、夜を裂くように赤と橙の光が、まるで地獄の口から噴き出す溶岩のように立ち上り、執務室のガラス面に新鮮な血液の濃い反射を落とす。
灯りは流動する魂のように揺らぎ、世界の輪郭をすべてを焼き尽くす終焉の血の色に塗り替えた。
警報が遅れて鋭い悲鳴を上げ始める。
電子音の不協和が部屋全体を不安定な周波数で振動させ、ノアの鼓膜を直接叩いた。
扉が蝶番ごと引き剥がされるように荒々しく開き、秘書のチーフが駆け込んできた。
顔は血の気が失せて真っ青で、肩で息をする。その息は心臓を鋭利な氷で刺すように速く、言葉は喉の奥で砕かれたガラスの刃のように短かった。
「ボス! 総動員です! 国の上層部、全戦力を投入――首都の軍機と機動隊、上空支援を含む一斉攻撃です! 命令は即刻、殲滅! ECLIPSE殲滅のための投入です!」
その宣告に、室内の空気が刃のごとく締まる。慈悲はなかった。届いたのは、冷酷な断絶。
イザナの瞳に、もはや「待つ」余白はなく、代わりに純然たる怒りと殺意が湧き上がる。
「世界は本当に愚かで傲慢だな」
イザナは静かに言った。
言葉は低く、まるで地層の底で響く古い魔術の呪文のように重かった。
だがその声に含まれたのは、笑いにも似た哀れと、研ぎ澄まされた刃のような決意だ。
次の瞬間、彼の掌から放たれたのは、言葉を超えた世界の理を塗り替える作用だった。
室外で唸りを上げていた防衛システムは、一瞬にして内側から力を絞り上げられたかのように歪んだ。飛行していた一機のヘリコプターは、水を吸ったスポンジを握り潰すかのように粉々に弾け散る。
爆炎が夜空に赤黒い裂け目を作る。
金属の悲鳴が遠くから肉が引き裂かれる音のように連鎖して届いた。
秘書長が、首の骨を鳴らす。
だが言葉は出ない。彼らはただ、ボスの化身のようなその手際を見つめていた。
自分たちの体が今まさに、粘土のように変形させられている――そんな錯覚を覚えるほどだった。
恐怖と
イザナはノアを強引に抱え、デスク下に開かれた緊急シェルターへと押し込む。
床に落ちた書類の端が焦げ、空気は塵の匂いを含む。ノアは抵抗する余地もなく、押し込まれたシェルターの狭い内部で床の冷たさを感じた。
金属の壁は、冷たい臍のように閉じていく。
「動くな、ノア。俺の視界から、一歩でも出るな」
イザナの声が耳元で低く震える。
言葉は命令であり、誓いであり、宣告だ。
ノアの鼓動が耳朶に重く響く。胸の中で何かが焼かれ、同時に守られているという奇妙な安心が混ざる。
扉が閉まる直前、イザナの顔が一瞬だけ近づく。
狂気と献身が混ざり合ったその表情は、神話の中に潜む怪物のように美しく、恐ろしく、そして愛に満ちていた。
彼はノアの額に軽く唇を触れさせるように近づけ、囁いた。
「お前を、誰にも渡さない。ノア。世界を燃やしてでも、お前を――」
言葉はそこで途切れ、鋼の扉が閉じる音が金属の箱の中で反響する。
暗がりの中、二人の距離はわずかだが、隔ては果てしなく深い。
外からは爆発と警笛が、波のように断続的に押し寄せる。
世界の断末魔は、まるで濁った果汁を絞り出すかのように容赦なく迫ってきた。
シェルターの内部は薄暗く、まるで、巨大な獣の胃の中に押し込められたように金属の冷たさが皮膚を針で突くように肌に刺さる。
ノアは膝を抱え、胸の奥で嗚咽にも似た、静かで乾いた音を立てる。
彼の喉に張り付いた感情は、血のような熱を持ち、まだ「イザナを選ぶ」という答えとしては形を成さない。
だが確かなのは、イザナが選ばせようとしたその瞬間、世界そのものが二人を巨大な刃で試しにかかっているということだった。
外の炎は心臓から流れ出した血液が燃え盛っているようだ。
二人の選択を急かすように紅く、狂おしく燃え盛っていた。
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