第36話 夜の草原

 夜の丘は、まるで世界の終わりを見届けるように、底冷えする静寂に閉ざされていた。


 足元では、微細な霜の破片が、宝石の死骸のように煌めく。ノアの体重で砕けるたびに、それは魂の微細な悲鳴を上げた。凍えた草の匂いが、肺の奥で鈍器のように響く。


 吐いた息は白い、儚い亡霊のように目の前で立ち上り、すぐに夜気という名の無情な海に溶けて消えていく。彼の小さな体は、風の軌跡を測る脆い蝋燭の炎のようだった。星の冷たい光にも届かぬほど暗く、今にも掻き消されそうな生命の欠片。


 孤独が皮膚を通して芯まで染み渡る。ノアは、世界から完全に切り離された置き去りのオルゴールのように、ただ丸まって震えていた。


 街の灯は遥か下方に広がっていた。無数の光が生きる者たちの証のように瞬く。けれどノアには、それらがまるで自分を嘲笑う目に見えた。

 どの窓も、どの家も、彼にとっては閉ざされた檻でしかない。あの光の中に「自分の居場所」はひとつもない。


 胸の奥で、祖母の鋭い声が反響する。

 ――欠陥品。いらない子。

 その言葉は、かつて愛されることを夢見た心を、何度も何度も切り裂いた。


 ノアは草の上に膝をつき、そのまま身を折るように小さく丸まった。凍てついた地面が衣服の薄い層を容易く貫通し、骨の芯まで痛みを伴う冷たさが染み渡る。

 それでも彼は逃げなかった。この無機質な冷たさの方が、階下で交わされた人間の残酷な言葉よりも、まだ優しい気がしたからだ。


 膝の間に顔を深く埋めると、頬に触れた自分の吐息がわずかに温かく、その微かな生命の証がかえって痛かった。

 自分を見捨てない、体の奥から湧き上がる、本能的な生のの熱が憎らしかった。


「もう、いらない」と、ノアは心の最も深い奥で、音を持たない声で呟いた。


 誰にも聞こえない、神にすら届かぬ声で。

 世界に見放された子供が、最後の希望を押し殺して静かに自らを無に還すような、絶望的な独白だった。

 彼の存在の輪郭が、闇の中に溶け去っていく。





 ——その静寂を裂くように、遠くから足音が響いた。

 雪でも霜でもない、確かな地を踏む重い音。

 一歩、また一歩。迷いもためらいもなく、ただまっすぐにこちらへ向かってくる。風が、音の正体を告げるより先にノアの背中を震わせた。



 丘を駆け上がってきたのは、イザナだった。

 冬の夜気を切り裂き、彼の影は獲物を追う獣のように疾走してきた。息を切らしているのに、その双眸はまるで暗闇を貫く灼熱の星のように鋭く光っている。


 銀灰色の瞳が、闇の底に蹲る、小さな、見慣れた人影をとらえた瞬間——イザナの内側で構築されていた理性の城が、音もなく崩壊した。冷静さも理性も、一瞬で夜風に吹き飛ばされる。


「ノア!」


 その名を呼ぶ声は、怒りでも悲しみでもない。感情の輪郭を持たない、ただ切実な焦燥そのものだった。それはまるで、世界の唯一の生命線が断ち切られようとしていることへの、本能的な絶叫だった。


 イザナは駆け寄ると、地面に座り込むノアを腕の中に閉じ込めた。その抱擁はあまりにも強く、まるで逃げ場を塞ぐ檻のよう。

 ノアの体は軽く、冷たく、折れそうなほど脆い。その冷たさが、イザナの胸を焼くように貫いた。


「馬鹿なことをするな!」


 イザナの声は怒鳴り声というより、震えた祈りのようだった。


「こんな夜中に、ひとりでどこに行くつもりだった!」


 ノアは小さく息を飲み、震える唇を噛んだ。


「……もう、いいんだ。僕は……邪魔なんだから。どこにいたって……」


 その言葉は、イザナの中の神経に直接触れた。

 沈黙が一瞬、鋭い金属音のように張りつめる。

 イザナはノアの口元にそっと指を当て、言葉を止めた。指先が触れた場所から、彼の意思が静かに流れ込んでいくようだった。


「やめろ」


 低く、抑えた声。

 その瞳には、世界のどんな理屈も届かない孤独な光が宿っていた。


「ノアは俺のものだ。誰にも価値なんて決めさせない。あいつらの声なんて聞くな」


 イザナの腕がさらに強くノアを抱きしめる。

 コートの中で二人の体温がぶつかり合い、冷たい夜気の中に一瞬だけ、微かな温もりが生まれた。

 けれどそれは優しさではなく、所有の確信だった。風が吹き抜け、草の上の霜が一斉に揺れる。



 丘の上の風は、まだ夜明けの気配を知らなかった。夜の帳は深く垂れ、その静寂は世界のすべての醜聞しゅうぶんを覆い隠すようだった。


 月は薄い雲のヴェールに深くかすみ、街の灯りは遠くの星のように頼りなく瞬いている。

 草原の霜の上に溶けた二人の影は、ほとんど一つの黒い塊に見えた。それは世界の理から隔絶された、二人だけの密室の肖像だった。


 イザナの抱擁は、獲物を捕らえた肉食獣の力を宿していた。ノアの呼吸は浅く、まだ冷え切った空気を吸い込みながら、その心はゆっくりと形を取り戻していく。

 イザナの腕の中で、鼓動と鼓動が衣服を隔てて触れ合うたびに、微かな、恐怖と安堵が混ざり合った震えがノアの体に伝播した。


「……そういえば、どうして、イザナがここに来たの?」


 ノアの声は風にさらわれそうなほど小さく、まるで絹糸のように繊細で、それでいてどこまでも透き通っていた。

 涙の跡が頬を冷やし、瞳だけが夜の光を集め、微かなガラスの輝きを反射している。

 両親や祖母の罵声が届かないこの夜の密室で、ノアは初めて、イザナという存在の核心に触れようとしていた。


「僕のことなんて、イザナには関係ないはずなのに……。お父さんとお母さんは、きっと怒って止めようとしたでしょ?なのに、どうして」


 その問いは、まるで氷でできた矢のようだった。純粋さゆえに、どんな理屈より鋭くイザナの胸を射抜く。街の方から吹き上げてくる風が、二人の髪を撫で、霜をまき散らした。冷たく、乾いた空気が頬を切り、夜の匂いに微かな鉄の味が混じる。


 イザナはノアの視線から逃さなかった。

 灰銀の瞳の奥で、狂気と献身が猛烈な嵐のように渦を巻いている。彼は言葉の代わりに、ノアの頭を再び胸に押し付けた。

 骨が軋むほど強いその抱擁は、もはや感情ではなく、ノアを世界から断絶させるという、意志そのものだった。その圧迫の中に「答え」はすでにあった。


「関係あるよ」


 イザナの声は、ひどく乾いていた。まるで荒野を経てきたかのような渇き。

 それでも確かな熱が混じっている。


「俺の世界にはノアだけだよ。ノアだけが大切なんだ。それ以外、どうでもいい」


 吐息がノアの耳をかすめた瞬間、彼の背筋がわずかに震えた。

 それは、イザナの絶対性に触れたことへの、肉体の本能的な反応だった。


 イザナはノアの頬を指先でなぞり、強引にその顔を自分の方へ向けた。指先が触れた場所は氷のように冷たく、けれどノアにはそれが、偽りのない唯一の現実だった。


「あいつらの声なんて聞くな。ノアは欠陥品でも、お荷物でもない。ノアは俺の光だ」


 言葉が、夜の闇を淡く、血の色で染めていく。


「それに――俺はお前の王子様だから。 お姫様が一人で夜に逃げ出すことを、王子が許すわけないだろ」


 イザナの声音には、優しさと支配が完璧に溶け合っていた。ノアの世界の境界線を、静かに、しかし決定的な力で塗り替えていくように。



 その瞬間、風がやみ、世界が一拍だけ止まった。空気の流れが滞留し、霜に覆われた草の上を、薄い月の光が奇妙なほどに滑らかにすべる。白く輝く草原の中で、二人だけが、時間と重力から解放されたかのように呼吸をしている。


 ノアはイザナの胸の中で、小さく息を吐いた。肩の震えが徐々に消え、冷えた体に血が巡っていく。その腕の力は強すぎて苦しいのに、心の奥では初めて、何かが温まっていく気がした。祖母の冷たい言葉が遠のき、胸の奥に巣食っていた孤独が、音もなく、霧のように溶けていく。


 ノアは頬に触れるイザナの手にそっと指を重ねた。その手は冷たいのに、不思議と魂の錨のように落ち着く。凍てついた涙の跡を残したまま、ノアは静かに微笑んだ。


「うん……。イザナは僕の王子様だね」


 微笑みはかすかで、壊れそうに美しかった。

 まるで曇天の向こうから一筋の救済の光が差したような、儚い輝き。

 その輝きがイザナの胸に熱を灯し、それは彼の理性を完全に焼き尽くした。


 ノアのその一言は、どんな誓約よりも強い鎖となり、イザナの心を、永遠に縛り付けた。


 彼は何も言わず、ノアの体をさらに強く抱きしめる。

 その抱擁には、もう逃げ道がない。愛の監獄だ。だがノアには、それが恐怖ではなく、絶望からの救いの形に見えた。


 夜の草原は再び静まり返る。遠くの街の灯が二人を照らし、影を重ねてゆく。冷たい風の中、ノアの安堵とイザナの歓喜が奇妙に調和して響いていた。


 その音は、祈りでも希望でもない。

 ただ、世界に見放された壊れた魂同士が寄り添って生まれた、美しくも致命的な音色だった。

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