第30話 永遠契約

 ノアがドアノブに手をかけた瞬間、冷たい空気が指先を撫でた。

 部屋を出ると、廊下の空気は寝室の密閉された温度とは違い、ほんの少しだけ広がりを持っていた。その「自由」と呼べる感覚は、まるで垂直な壁をよじ登るクライマーに握られた命綱のように細く、けれど確かに彼の心を支えていた。


 ノアは自分の部屋へと向かう。広すぎる室内には、イザナが用意したらしい上質なスーツが一式、まるで儀式のように整然と並んでいる。

 黒一色の生地は無駄な装飾がなく、冷たく光を返していた。袖を通すと、鏡の中の自分がかすかに別人に見えた。痩せた輪郭はまだ痛々しいけれど、瞳の奥には夢の残響と――イザナとの取引で獲得した、わずかな光が宿っている。


 専属秘書。

 その肩書きは、イザナの傍に鎖で繋がれることを意味していた。

 だがノアは、それを服従とは呼ばなかった。

 それは、閉ざされた世界の中で唯一、外へ通じる細い導線だった。


 与えられた制限を、ノアは決して檻とは見なさなかった。むしろその狭間で、自分という存在を研ぎ澄まし、魂の自由を取り戻すための舞台としていた。

 イザナの狂気が渦巻く圧倒的な力に飲み込まれぬため、彼は理性の刃を振るい続ける。

 その刃は諦めずに抗う意志そのものであり、身を削りながらも反抗を貫くための唯一の道具だった。


 束縛の中で培われた静かな反骨心は、どんな圧力にも屈せず、ノアの内側で冷たく、しかし鋭く燃え続けていた。

 それこそが彼に残された、唯一無二の戦術であり、存在の証明でもあった。


 ノアは小型の通信機をジャケットの裏に仕込む。それは生命線であり、同時に首輪でもあった。


「……時間厳守」


 小さく呟いて部屋を出る。与えられた猶予は、残りわずかだった。








 ――そして、邸宅ていたくの最上階。


 イザナの執務室は、夜明けの光さえも踏み入ることをためらうような、張り詰めた静寂に支配されていた。天井まで届く巨大なガラス窓の向こうでは、まだ半ば眠る都市が、薄桃色の朝靄に包まれながらゆっくりと目を覚ましていく。

 ビル群の影が長く伸び、遠くの空を切り裂くように無数の光が点滅を始めていた。

 だが、イザナの世界には、その輝きは届かない。


 彼の執務机の上には、整然と並べられた端末と書類、そして一切の乱れを許さぬ秩序があった。空調の微かな唸りと、端末が放つ電子の光だけが、静寂の中にかすかに脈打っている。

 それはまるで、生き物の鼓動ではなく、完璧に制御された人工の心臓のようだった。


 イザナの黒い瞳は、窓の外の景色をただ背景として流し見ていた。

 その瞳に映るのは、世界の広がりではない。

 彼にとって都市は、手の中で自在に組み替えられる無機質な盤上の駒でしかなかった。

 すでにこの世界の秩序は、彼の掌の内にある。

 金も権力も、情報さえも、意のままに動く。



 ――ただ一つ、思い通りにならない存在を除いて。



 ノア。

 その名を心の奥で思い浮かべるだけで、イザナの胸の奥に微かな熱が灯る。

 氷のように冷え切ったこの空間で、唯一、形を持って脈打つ色だった。世界を制した男を、唯一不安にさせる光。その光を掌に閉じ込めてなお、彼はなぜか満たされない。


 それが、イザナという存在の、唯一の不完全さだった。


 漆黒のデスクに腰を下ろし、イザナは端末を操作していた。指が滑るたび、裏社会の情報や資金が音もなく、冷徹に動く。

 だが、今開かれているデータはすべてノアに関するものばかり。行動予測、心理反応、そして警護システム。秘書という肩書は、ノアを正当な理由で外に連れ出すための鍵であり、最も近くに閉じ込めるための、優雅な檻でもあった。


 コン、というノックの音が重い静寂を切り裂く。


「入れ」

 低く、冷たい声が響いた。


 重厚な扉が、空気を押し分けるように静かに開いた。その一瞬、室内の温度がわずかに揺らぐ。冷たく統制された空間に、異質な生が入り込んだのだ。


 ノアが姿を現した。

 漆黒のスーツに包まれた細身の体は、まるで影が形を持ったかのようで、白い肌だけが夜明けの光を拒むように際立っていた。

 首元まできちんと締められたネクタイ、整えられた髪。その一つ一つに「覚悟」という名の緊張が宿っている。


 彼の歩みは迷いがなかった。

 カツン、と革靴の音が床に響くたび、イザナの支配する空気がわずかにきしむ。

 一歩、また一歩――その律動はまるで、檻の中に自ら足を踏み入れる獣のようだった。


 時計の針が約束の時刻を指す。ぴたりと、狂いなく。ノアはイザナのデスクの前で立ち止まり、静かに視線を上げた。

 その瞳には恐れも諦めもなく、ただ一点の理性と反骨の光が宿っている。


「……時間通りでしょう?」


 凍てつく空間の中で放たれた声は、わずかに空気を震わせた。イザナの指が端末の操作を止め、ゆっくりと顔を上げる。

 黒曜石のような瞳と、薄く笑む唇。

 ――支配者の世界に、光がひとつ、侵入した瞬間だった。


「あぁ。俺の秘書は優秀だな」


 デスクの隅には、ノア専用の端末と文具が整えられていた。


「座れ。今日の業務は単純だ。俺の傍から離れるな――それだけだ」


 イザナの声音は穏やかで、しかし逃げ道を許さない、絶対零度の支配を含んでいた。


 ノアはわずかに息を吐いた。吐息が静寂を震わせ、消える前に、彼は小さく頷いて椅子へと身を沈める。革張りのシートが軋む音だけが、無機質な空間に現実の存在を刻んだ。

 窓の外では、都市の輪郭が光を受けて目覚め始めている。ガラス越しの朝日は、白金の刃のように差し込み、ノアの頬をかすめた。

 だが、その光はすぐにイザナの影に呑まれる。


 彼のすぐ隣――その冷たい支配の中心に、自分の居場所がある。

 光と闇のわずかな狭間。自由と拘束の境界線。

 そこが、今のノアの「生きる位置」だった。


 まるで、陽の当たらない檻の中で、唯一の風穴を探しているかのように。


 イザナは再び端末を開き、冷ややかに仕事を再開する。ノアが視界の端にいる――それだけで、彼の世界は安定を取り戻す。

 ノアは、この男が積み上げた世界の権力の、ただ一つの正当化理由だった。


 ノアはデスクの冷たい表面を指先でなぞった。この冷たさが、今の自分の現実。

 ほんの一息の自由と引き換えに、彼はイザナという名の檻に組み込まれた。


 専属秘書――その言葉は、イザナの孤独を満たすための生きた鎖であり、ノアの魂を世界から隔離するための、最も美しく、悲しい牢獄だった。


 窓の外では朝の光が溢れ、都市の喧騒が遠くで鳴っている。


 壊すことも、救うこともできない、歪な関係。




 ノアの胸の奥では、記憶の底から掬い上げたような鐘の音が、ゆるやかに響いていた。

 それは遠い教会の、朝霧の中で揺れる祈りの残響。清らかでありながら、どこか痛みを孕んだ音色が、心臓の奥を静かに叩く。


 ――まだ、外の世界は生きている。そう告げるように。


 対して、イザナの瞳の奥には光がない。

 夜の底を映した鏡のように艶やかで、深く、そして底知れぬほど冷たい。その奥底に沈むのは、支配でも憎悪でもなく、ただひとつ――喪失への恐怖。

 ノアという光が自分の掌から零れ落ちることへの、無限に続く闇。


 二人の間には、音もなく世界が横たわっていた。


 鐘の余韻と、影の静寂。

 祈りと執着。


 まるで、ひとつの心が光と闇に裂かれて、それでもまだ互いを求め合っているようだった。


 これは、光と闇の狭間で続く、永遠の契約だ。

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