第27話 再設定

 イザナの敗北宣言のあと、部屋の空気は張り詰めたまま、まるで割れる前のガラスのように緊張を保ちつつ、ゆっくりと新しい均衡へと傾き始めていた。


 彼はノアの頬を包んでいた手を、静かに引き戻した。指先がそのまま、夜を溶かしたような黒髪をゆっくりとなぞる。

 その動きは愛しさと支配が同じ温度で交わる、不思議な静寂を孕んでいた。

 まるで、誰にも見届けられない祭壇の上で、禁断の契約を結ぶように――儀式めいた厳かさと、微かな震えが空気に溶けた。


「……わかった」


 低く、深い声が夜明け前の空間に落ちる。

 その響きにはもう、冷酷さはなかった。

 代わりに滲んでいたのは、満たされぬ孤独と、ノアという存在への、どうしようもない執着の生々しい名残。


「お前が外の世界を望むのなら――その世界ごと、俺の管理下に置く。お前が吸う空気も、浴びる光も、すべて俺の許可のもとで動く。それでいいな?」


 それは歩み寄りの言葉ではなかった。

 鎖の形を変えただけの、より静かで狡猾な束縛。


 イザナの狂気は砕けることを拒み、むしろノアの意志という甘く鋭い毒を吸い上げて、より深く、より精密に形を整えていく。

 彼の支配は荒々しい暴力ではなく、計算し尽くされた美のように滑らかで、静かにノアの世界を覆っていった。


 ――まるで、愛という名のウイルスが、ノアという存在の呼吸ひとつまでも侵食していくように。


 ノアは小さく首を傾げた。

 その澄んだ瞳には怯えの欠片もなく、ただ夜明けの光のような、揺るぎない芯が宿っていた。


「……それって結局、閉じ込めようとしてるのと同じだろ」


「違う」


 イザナは、かすかに目を伏せて否定する。


「これは、お前を失わないための、俺の理性だ」


 そう言うと、イザナはノアの額に唇を寄せ、ゆっくりと熱を落とした。

 その口づけには、過去の炎の痛みと、手放せなかった記憶の呪いが混ざっていた。


「俺の愛は、支配でしか形にできない。お前を自由にすれば、世界のすべてが、お前を奪いに来る。……あの時のように」


 かすかな声。けれど、その奥には焦げつくほどの恐れが潜んでいた。


「この部屋から出ることは許可する。……だが、俺の作ったシステムの中で行動しろ。お前の仕事も、生活も、すべて俺の指揮下に組み込む」


 ノアは目を細めた。

 物理的な檻は消えたはずなのに、世界そのものがイザナの掌に覆われ、逃げ場のない圧力が肌を締め付ける。

「本当に手放す気がないのか」と小さく舌打ちしたくなる衝動が走る。けれど同時に、ひそかな諦めも忍び寄る――まぁ、妥協された方か、と。


 息苦しさと、わずかに許された安堵が入り混じり、奇妙に背筋をくすぐるような感覚が胸の奥でくすぶっていた。


「……わかった」


 彼は小さく息を吐く。


「あんたの愛の形が歪んでるのは、今さらだ」



 その言葉に、イザナの唇がかすかに吊り上がる。歪んだ勝利か、絶望的な安堵か判別できない、微妙な笑みだった。


 ベッドサイドに置かれた黒い端末へ、イザナの白い指先が静かに伸びた。

 彼は何の感情も浮かべずにそれを手に取り、滑らかな画面をいくつかの動作で操作していく。

 指先が触れるたび、青白い光がイザナの横顔を淡く照らし出し、その表情からは血の気も、温度も感じられなかった。まるで人間の仕草を完璧に模倣する精密な機械だ。


「一時間後、支度を終えろ。今日の午後からお前を俺の専属秘書に任命する」


「……秘書?」


「ああ。常に俺の傍に置く。お前の安全のために、そして何より、俺自身のために」


 窓の外では朝の光が完全に広がり、淡い金色が部屋を満たしていた。

 その光はすべての影を消し去るはずなのに――イザナとノアのあいだにだけ、愛と支配という歪な関係の影が深く、決して消えることなく残っていた。


 同じ光を浴びていても、イザナの心は永遠の夜に、ノアの心は自由という名の朝へと、静かに歩き出そうとしていた。

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