第19話 世界への呪詛

 ノアが売られたという報せを受けてから、世界が砂のように崩れる中で数日が過ぎた。


 灰色の空は、冷たく鈍い鉛の板のように街を覆い、光は一切届かず世界の輪郭さえも呑み込んでいた。石畳に落ちる雨粒の音は、ひとつ残らず吸い込まれ、ただ湿った空気の重さだけが支配する。


 黒いコートに身を包んだ警察の男たちが、玄関先に無表情に立つ。

 彼らの影は長く、ねじれ、地面を黒い墨のように染めてゆらめく。微動だにしないその姿は、無慈悲な刃が視界の端に潜むかのような威圧感を放ち、イザナの胸の奥に寒気を這わせる。


「ヴェルン家のご遺体が今朝、発見されました」


 淡々としたその声は、戸口から吹き込む冷たい風よりもはるかに重く、イザナの胸に鉛の塊のようにのしかかった。


 イザナは言葉の意味を理解できず、ただ母の袖をぎゅっと握りしめたまま、全身が凍りついたように立ち尽くす。

 男たちの声は、静かに、しかし確実に世界の輪郭を削ぎ落とす冷たい刃のようで、その刃はイザナの周囲に広がる現実を無慈悲に切り裂いていった。


 すでにすべては終わっていた。

 暖炉の残り火は、もはや冷めきった灰のように赤く鈍く瞬き、部屋の中の湿った木の匂いと、焦げた紙の香りが混ざり合っている。

 ノアの両親は絶望の底で、理性を溶かされた蜜蝋みつろうのように脆くなり、祖母の命を奪った後、手にした火を家そのものに押し付けた。


 炎は舌のように壁を舐め、天井の梁を溶かし、家具を生肉のように滴る色へと変えた。

 煙は粘液の膜のように空気を覆い、視界を溶かす。板が軋み、窓ガラスが悲鳴にも似た音を立てて崩れ落ちるたび、熱と匂いが皮膚の奥まで染み込み、理性の隙間を刺す。


 家は跡形もなく崩れ、焦げた木片は湿った肉のようにほぐれる。灰は雪解けのように静かに地面に落ちては、虚ろな空へと吸い込まれていった。燃え残った煙の糸が夜空に絡まり、かすかな光だけが絶望の残滓を映し出す。


 そこには終わりと喪失の感覚が、あらゆる温度や質感を持って生々しく、深くへと押し込まれていた。



 報告の一語一語が、脳の神経を叩き潰すように響き、彼の内側で何かが、決定的に音を立てて砕け散った。

 それは悲しみや恐怖の混濁ではなく、純粋で濃密な怒りの形。

 冷たく研がれた刃のような怒りが、理性を容赦なく押しのけ、世界そのものに牙をむかせる。イザナの全身を覆うその熱は、まだ凍てついた冬の空気を焼き尽くすかのように、禍々しくも圧倒的な存在感を放っていた。


「誰も、誰も彼もが、俺の知らないところでノアを奪っていく」


 それは世界という名の巨大な敵に向けられた、魂の底から噴き出す呪詛だった。



 ノアを奪い、悲劇の中に自ら身を投じた家族も

 かつて温かく感じた幻影のような人間の善意も

 祈りにすがったはずの神の救いも


 ――すべてが、イザナの視界で泥にまみれた木偶や壊れた陶器のように崩れ落ちた。

 信頼という概念は、踏みつけられた果物のようにぐしゃりと潰れ、存在したことさえ嘲笑うかのように彼の脳裏から完全に蒸発した。

 心は裏切りの濃い血で浸され、もはや光も温もりも寄せつけない深くねっとりとした闇となった。







 イザナはその夜、誰にも告げずに、焼け焦げた家の跡地へと足を踏み入れた。

 長時間、膝をついたまま動けなかった。


 雪と煤が混ざり合った灰色の絨毯は、ノアの温もりも、家族の絆も、すべてを等しく吸い込んだ死の象徴だ。イザナはその冷たい灰を素手で掬い上げる。


 焼け焦げた木の匂いと、鎮火後に立ち込める冷たい硝煙の残滓が、重く粘る空気となって鼻腔を鋭く突き刺す。その腐敗した香りに、微かに混じる鉄のような血の匂いが絡みつき、空気そのものが不穏な膜のように圧迫する。

 その中で、イザナは幻聴を拾った。――あの教会の光の中で響いた、ノアの無垢な笑い声の残響だ。薄皮一枚のように儚く、しかし胸を裂くその音は、灰と硝煙に覆われた現実の中で唯一残された輝きを放っていた。

 それはまるで、触れれば粉々になる、壊れかけの宝石の欠片。


 彼は顔を上げ、鉛色の空に向かって声にならない問いを投げかけた。


 ――神がいるなら、なぜ、最も無垢なものを奪い、その周囲を地獄で焼き払うのか。


 その問いに空は沈黙で応えるだけだった。

 この世界に正義も救済も存在しない。

 あるのは冷酷な取引と、無関心な暴力だけだ。





 イザナの心臓は、もはや感情で脈打ってはいなかった。それは復讐という名の歯車を回すための冷たい動力源と化した。


 ノアを奪い返さなければならない。

 そのためには、この世界を支配する者たちと同じ力、あるいはそれを凌駕する力が必要だ。

 家族の命さえ金で取引されるなら、自分もまた、最も効率的で、最も罪深い手段を選ぶしかない。


 愛を失った少年の脳裏に、冷徹な計算と復讐の設計図が静かに組み上げられていく。



 世界は深い夜に沈み、音も光もすべてを呑み込んでいた。その闇の中で、イザナの足音だけが、氷の床を裂くかのように静かに響く。

 前方は霧に閉ざされ、視界はほとんど奪われている。それでも彼の足は迷うことなく踏み出される。


 胸の奥で、少年が失った愛の熱が、静かに、しかし確実に脈打っていた。

 希望も慈悲も、すでに溶け去ったその場所に、純粋で冷たい復讐心が灯る。

 氷のように鋭く、青い炎のように妖しく揺れるその熱は、凍りついた世界に刺さる光の尖塔せんとうのようだった。


 イザナは自らを燃え盛る業火に変え、世界の腐敗を焼き尽くす覚悟を胸に刻む。

 迷いはなく、恐れもなく、ただ己の意志だけを頼りに、漆黒の霧の中へと踏み入れていく。



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