第3章 孤独の契約

第16話 丘の上の神聖

 まだ空が、世界で最もやわらかい金色をしていた頃。



 イザナとノアにとって、町外れの丘に静かに佇む古い教会は、外界の喧騒から隔絶された、二人だけの聖域だった。


 木枠の扉は長い年月を経て色褪せ、踏み込むたびに軋む音が風に溶ける。

 天井まで伸びたステンドグラスには、午前の柔らかな陽光が差し込み、赤や青、金色の光が床にゆらゆらと揺れる万華鏡を作り出していた。壁から剥がれかけた聖人画は、かすかな埃の中で静かに物語を語り、古い祭壇の木目には時間の温もりと冷たさが同居する。

 そこに流れる空気は、世俗の重さを忘れさせ、ただ二人だけが触れられる静かで、神秘的な世界だった。


 二人の世界は、そこだけが時の流れから切り取られたように穏やかで、子どもらしい、無限の夢と、他愛のない嘘で満ちていた。


 ノアは生まれつき、世界が定める健常の基準から常に遠い場所にいた。

 彼は少し歩くだけで呼吸が乱れ、肺が薄氷のように軋む音を立てた。顔色を悪くしてベッドに沈むことは日常の一部であり、その儚さは周りの空気まで凍らせるようだった。


 彼の白い肌は、教会のステンドグラスを透過した光を浴びると、薄膜のように透明感を帯び、まるで血管の中の青が氷水の中で揺蕩うかのように見えた。

 呼吸のたびに薄く震える肩や鎖骨は、生きているのか死んでいるのか判別できない湿った蝋のような質感を伴い、見る者の視線にぞわりとした嫌悪感と同時に抑えきれない興味を喚起した。

 まるで存在そのものが、世界の秩序を侵食するかのような、柔らかくも蠢く不気味さを秘めている。


 ノアの一挙一動は、イザナの視界の中でまるで生け捕りにされた蝶の羽ばたきのように繊細に映った。肩で荒く息をつくたび、その脆さと弱さが、イザナの心に静かだが確実な衝撃を与える。


 ノアがただそこにいるだけで、世界のすべてを握り潰す権利が自分にあるのだという、傲慢な錯覚すら芽生えた。


 脆弱な体と、かすかに震えるその声が、彼がイザナにとって唯一無二であることを、恐ろしいほど確信させるのだ。


(この弱いノアを守れるのは世界で俺だけだ)


 ノアの弱さは、イザナにとって甘い蜜のようだった。触れれば体温と湿気が指先にまとわりつき、まるでまだ生きた肉の柔らかさを確かめるかのような感触。

 しかしその柔らかさは同時に脆く、圧をかければ微かに粘膜のようにずれ、いやらしいざらつきが指に残る。鼻をかすかにくすぐる生臭さに、理性は警告を発して心は拒絶を願うのに、視線は逃げず、身体は抗えず吸い寄せられる。


 ノアが「イザナはすごいね」と目を輝かせるたびに、イザナは自らの存在の価値が絶対的なものになったと感じた。

 彼の強さや活発さが、ノアの儚さによって倍増されるかのようだ。

 イザナは、ノアが自分に依存し、自分を必要とするその事実に、満たされるような支配的な喜びを感じていた。


 それは幼い庇護欲の裏側に潜む、後の歪んだ執着の、ひそやかに芽生え始めた兆しだった。


「イザナはいいなぁ。何でもできるし、全然疲れないみたいだし」


 ノアは憧れと羨望を混ぜたような瞳でイザナを見上げた。


 イザナは誇らしげに胸を張り、丘の上の風のように揺るぎない声で答えた。


「当たり前だろ。俺は強いからな。この世界全部からノアのこと守ってやる」


 ノアは、その言葉に小さく微笑んだ。


「……忘れないでね、ずっと」


 ノアはまるで永遠の誓いを求めるように言いながら、小さく、しかし乾いた咳をひとつした。


 そのか細い咳の音を、イザナは今も、硝煙の匂いと共に地獄の底まで忘れられないでいる。それはイザナの心臓に、平和の終わりと喪失の予感を刻み込んだ、最初の傷だったのだから。







 ノアの儚さは、他の子どもたちにとっては厄介な重荷でしかなかった。


 イザナとノアが一緒にいるとき、他の町の少年たちが悪意のない、しかし冷たい視線を向けてくる。


「またノアかよ。あいつがいると、すぐ鬼ごっこ終わるんだよな」

「すぐに倒れるんだから、来なきゃいいのに」


 露骨な陰口やため息が、隠すことなくイザナの耳にも届く。サッカーをしようと誘っても、ノアの咳が聞こえると、彼らは白けた顔をしてボールを遠くに蹴ってしまった。


 向けられる冷たい視線や露骨な陰口を聞くたびに、まるで世界から色を奪われたように顔を深く俯かせた。

 彼の華奢な身体全体から、「自分の存在がイザナの遊びの邪魔になっている」という自責の念が、重い空気となって流れ出ていた。


 ノアは、細く白い指先をギュッと握りしめた。その爪が手のひらに食い込み、微かな痛みを伴うが、それは内面の傷に比べれば取るに足らない。彼は反論する言葉を喉の奥で見つけようとするが、体力の限界と精神的な消耗からくる無力感に支配され、そのための力も気力も、どこにも湧いてこなかった。

 彼はただ、その場に凍りついた影のように佇むしかなかった。


 そんなノアの孤独を目にするたび、イザナの瞳の奥の光は冷たく、鋭くなっていった。


(どうでもいい奴らだ。ノアの価値もわからない)


 周囲からノアが疎まれ、遠ざけられるほど、イザナの心の中でノアの存在は世俗せぞくの塵を払われ、純粋な結晶のように研ぎ澄まされていった。

 それは、他人の価値観という濁流から切り離され、絶対的なものへと昇華していく過程だ。


 他の少年たちがノアを「楽しい遊びを邪魔する厄介な荷物」と見なすなら、イザナにとってノアは「自分だけが見つけ、自分だけが価値を知る、守るべき唯一無二の宝物」として彼の世界の中央に据えられた。


 他の全てを犠牲にしてでも、俺だけがノアを独占すればいい――その歪んだ結論は、イザナの中で揺るぎない鋼の誓いとなった。



 ノアの儚さは、イザナにとって支配と献身を同時に誓う、最も甘美な証となったのだ。

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