第10話 封印された回線

 ノアが自身の記録が封じられたデータ筒を見つめていた、その緊迫の瞬間。

 手元の端末が、予兆もなく、突如として恐ろしい赤に点滅した。


 通信コードは――国家機密回線。


 それは、ノアがスパイ時代にのみ使用を許され、ECLIPSE潜入時に自ら削除・封印したはずの、最奥のルートだ。

 胸の奥が不快なほど冷たく跳ねる。その違和感は、背後に敵がいる時よりも遥かに重い。


「……あり得ない。これは完全に削除したはず」


 ノアは背筋に冷たい緊張を走らせ、警戒心の極限まで意識を研ぎ澄ます。

 指先が応答キーに触れる瞬間、スクリーンに映し出されたのは国の情報局副長官の姿。

 背景は無機質な白、そこに浮かぶ男の表情は凍りついたようで、一切の感情の痕跡を残さない。


 その声が空気を震わせず、直接ノアの神経を貫くかのように響いた。


『ノア。貴様の身元は既に露見している。ECLIPSE内部の情報を確保次第、即時離脱せよ。繰り返す――任務は中止、離脱を最優先とせよ』


 その冷酷な命令に、一瞬ノアの呼吸が完全に止まった。


(露見?誰に?……イザナのことか。いや、国家の裏の組織、もっと上層にまで話が及んでいるのか?)


 ノアの脳内で情報処理が光速で回転する。


『位置は掌握した。介入が有効なのはごく僅かな猶予のみだ。ECLIPSE内に留まる選択を続けるなら、国家はもはや援護の枠外と判断する——以後の処置は我々の裁量に委ねられる』


 映像が激しく乱れ、副長官の音声が途切れがちになる。ノアの指先がわずかに震えた。

 彼の心臓の鼓動が、データ保管庫の静寂にやけに響く。それは、冷静なスパイにはあるまじき感情の揺らぎだ。


「今ここで離脱したら、イザナに全てを奪われる……」


 ノアが呟いた声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。スパイとしての理性は、即座に任務中止と撤退を選べと叫ぶ。


 だが、胸の奥では、別の、場違いな声が抗い難い誘惑を囁く。


 ――「破壊の果てにしか、再生はない」


 イザナの低い、静かに振動する声が、ノアの記憶の中で鮮明に蘇る。

 その瞬間、ノアが握るデータ筒の封印が、警告のようにわずかに光を放った。真実への渇望が、理性を焼き焦がす。


 副長官の声が、ノイズの奥で、最後の、絶対的な響きを伴って響く。


『ノア――命令だ。そのデータを破壊しろ。誰にも渡すな。……特に、イザナには』


 通信が強制的に途切れた。


 薄闇の中、ノアは静かにデータ筒を見つめ続ける。その瞳には、国の命令とイザナの支配、そして自身の真実への渇望という、三つの力が絶妙な均衡で同居していた。




 次の瞬間、データ保管庫全体に甲高い警報音が鳴り響いた。

 ノアの究極の選択の時間は、完全に終わりを告げた。


 甲高い警報が耳をつんざくように鳴り響いた直後、ノアは理性の全てを駆動させ、データ保管庫の冷たい廊下を矢のように駆け抜けた。


 黒いスーツの影が、通路の角という角から次々と現れる。闇に溶け込むように現れるその一体一体は、ただの兵士ではなかった。――動きが尋常ではない。これは、ECLIPSEの通常迎撃部隊の動きではない。

 身のこなし、視線の配り方、呼吸さえも計算され尽くした戦術のリズム。

 すべてが、国家の特殊工作員の標準装備として染み付いた動作だ。ノアの視界は一瞬で情報を取り込み、次の行動を脳内でシミュレートする。


「……上層部、俺を消す気か」


 ノアは舌打ちし、腰のホルスターから小型拳銃を流れるように抜いた。

 乾いた発砲音が金属質の廊下にこだまする。

 瞬時に二人の影を倒すが、次の瞬間、閃光と爆音を伴ってスモーク弾が投げ込まれ、視界は白く爆ぜた。


「こちらC-3。ターゲットは識別番号ノア=ヴェルン。排除指令を確認」 「了解。生死問わず。対象は機密漏洩の危険あり」


 冷酷な通信が飛び交う。ノアはその声を聞きながら、乾いた笑いを漏らすしかなかった。


(結局、俺は使い捨ての道具か)






 だが次の瞬間、白煙を裂くように、低く、重い、大地を揺るがすような音が響いた。


 ――“ズゥンッ”。


 それは銃弾とは違う。廊下の壁が抉れ、床が文字通り震える。スモークの奥で、誰かの悲鳴が、人間的な恐怖を伴って上がる。


「……な、なんだ、あれは――」


 銃を構えたエージェントたちが、命令を忘れ、一斉に後退した。


 視界がクリアになると、そこに静かに佇んでいたのは、漆黒のロングコートを纏ったイザナだった。夜明け前の冷たい淡光が彼の輪郭を際立たせ、まるで神話から抜け出したような存在感を放つ。

 一歩、また一歩と、彼はゆっくりと歩を進める。その足元には、戦闘訓練を受けた国家工作員たちが、まるで時間が止まったかのように無造作に倒れ、意識を失って転がっていた。

 静寂が、破壊の後にだけ流れる静かな旋律のように、空間を支配している。


「……本当に、くだらない国だな」


 イザナの声は、鋼のように硬質で冷たく、その奥底には、世界さえ焼き払う激しい炎が潜んでいた。


 ノアは思わず息を呑んだ。

 その圧倒的な光景に、戦闘で高ぶっていたはずの心拍が一瞬停止した。


「どうして、ここに……」


「お前を殺そうとする奴がいる場所に、俺が来ない理由があるか?」


 イザナの視線がノアを真正面から貫いた。その瞳は、激しい怒りでも憎悪でもなく――自身の領域テリトリーを侵されたことへの、支配者の純粋な執着そのものだった。


「俺以外がノアをどうにかできると思ってるなら……面白い冗談だ」


 銃声も、叫びも、戦場を満たしていたすべての音は、いつの間にか霧のように消え失せていた。残されたのは、冷たい空気の中で、ひときわ異質な存在感を放つイザナの姿だけだった。

 その威圧は、言葉や動作ではなく、まるで空間そのものに張り巡らされた見えない重力のように、すべてを押し潰すかのように広がり、場の空気を圧縮していた。


 戦場に満ちていた混沌や血の匂いは跡形もなく消え、ただ一人、彼だけが世界の中心に座しているかのようだ。


 ノアの中で、理性という名の防壁が、ガラガラと音を立てて再び揺らぐ。

 国家も、任務も、忠誠も。イザナという名の狂気の前では、全てがその意味を失っていく。


 ノアは、自分を殺しに来た国家よりも、自分を生かそうとするイザナの支配の方が遥かに危険であることを、身体の芯で理解した。

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