第1章 潜む影

第1話 闇夜の静寂

 セレファルト王国――古い石造りの街並み、神々の落とした欠片、そして禁忌の科学がひとつの都市に縫い合わされた継ぎ接ぎの王国。


 昼の街は、まるで観光パンフレットのように穏やかだ。石畳には陽光が降り注ぎ、鐘の音が空気を満たす。

 だが、それは安全に見せるための皮膚にすぎない。


 夜の帳が落ちた瞬間、街の本性は顔を出す。

 石畳の隙間からは魔術の残滓がふわりと立ちのぼり、錆びた機械の冷たい吐息が路地を這う。

 人間、魔族、精霊──多種多様な存在が肩を寄せるこの国では、夜の領域だけは互いに越えてはならないという暗黙の線引きがある。


 その線を決めているのが、セレファルト最大のマフィア組織――ECLIPSE。


 彼らは処理機関でも正義の対価でもない。ただ、この国の闇を最も深く、最も正確に支配している。

 金、血、情報、神の残骸……扱うもののすべてが禁忌に触れていた。


 闇の均衡は、ECLIPSEが動くことで保たれる。

 逆らう者は、夜明けを迎える前に姿を消す。それがこの国の常識だった。


 だから今日も、見えない境界線は絶対零度の静けさで街を切り分けている。

 どこかで血の匂いが夜気に混ざり、青い蒸気がゆるやかに昇っていく。


 ――そして街は、巨大な石棺のように、闇へ沈んでいった。


 湿ったアスファルトの上で、街灯のオレンジ色の光が滑るように揺れる。

 その光は、折れそうなガラス片のように鋭く石畳に影を落とす。影の深さは漆黒の絵の具を流し込んだかのように重く、街の裏側を支配する闇の冷徹さを示していた。

 空気は凍るように冷たく、息を吸うたびに肺の奥がキリリと痛む。遠くを走る車のタイヤ音は、水底に沈んだ金属片が揺れるように、もつれた幻聴としてかすかに響く。


 イザナは、摩天楼の狭間に生まれた都市の死角――夜の闇が幾重にも折り重なり、光が届くことを忘れた裂け目に身を潜めていた。

 その存在は、もはや人間という枠組みから滑り落ちた何か。冷ややかな静寂が彼の周囲に降り積もり、空気は音を拒み、風すらも凍りつく。

 彼の立つ場所だけ、世界が一瞬、死んだように沈黙する。


 イザナにとって、一歩という行為すら、夜の秩序を乱す暴力に等しかった。

 だから彼は動かない。ただ、遥か遠くで揺れる一つの人影を、氷の刃のような眼差しで射抜く。


 その人影こそ、ECLIPSEに新人として送り込まれてから、幾度かの任務を経た後の、ノアだ。


 イザナの視線は、表層を撫でるものではなかった。

 それは皮膚を越え、骨格を越え、神経の一本一本に絡みついた命令の痕跡までも照らすような、透過する眼差しだった。

 ノアがどんな呼吸を選び、どんな沈黙を保っているのか――それらの全てが、彼の観察の中では、緻密な数式のように意味を持って並んでいた。

 周囲が見ているのは、礼儀正しく整えられた姿。だが、イザナにとってそこにいるのは、規律と命令に縛られた器官の集合体にすぎなかった。


 彼の中には「生きる」という概念よりも、「動作する」という冷たい構造の方が優先して存在している。


 イザナはそれを、ただ冷静に理解していた。

 感情を交えず、しかし目を逸らすこともなく、ノアという存在をまるで剥離標本のように見つめていた。皮膚の下では、過去の痛みや恐怖が薄い膜のように張り付き、冷却された血液の流れがかすかに震えている。そのすべてをイザナは感じ取っていた。

 ノアの瞳がわずかに動くたび、その奥で、歯車が噛み合うような金属的な響きが聞こえる気がした。感情ではなく、命令によってのみ駆動する機械。

 だが、その完璧な静寂の奥には、何かがまだ燻っている――そう直感した瞬間、イザナの胸に説明のつかない痛みのような熱が走る。


 それでも彼は何も言わない。

 ノアの二重の構造を暴くことは、刃を抜くのと同じ行為だと知っていた。

 まるで分厚いガラス越しに、氷の中でまだ微かに呼吸している何かを見守るように、ただ視線を注ぎ続けた。


「……まだ自分が監視されていることに、微塵も気づいていないな」


 小さく吐き出された息は、夜の冷気に触れるや否や、霧となって瞬時に散った。

 その蒸気の端に、ほのかに、しかし確実に歪んだ笑みが宿る。


 イザナは、ノアが歩む茨の道をすべて把握しながらも、その背中に手を伸ばすことなく、遠くから静かに観察する――まるで獲物が最も無防備になる瞬間を待つ捕食者のように。

 忍耐の奥底には、逃さぬという決意と、手に入れるべきものへの狂おしい執着が潜んでいた。


 




 一方、闇夜の街を歩くノアは、自分がまるで標本のように観察されていることなど、知る由もない。彼の世界は、与えられた使命と、その実行の正確さだけで構成されていた。


 ノアの足取りは、石畳を滑るように淡々とし、一歩一歩が訓練された機械的なリズムを刻む。

 周囲の状況を確認する彼の視線は、夜鷹の如く鋭く、僅かな光と影の揺らぎさえも情報として処理する完璧さで訓練されている。

 夜の冷たさは、彼の薄いコートを容赦なく叩きつけて冷徹な現実を突きつけるが、彼の任務遂行能力は鋼のように揺るがなかった。


 しかし、その瞳は黄金に輝きながらも、まるで光が薄い霧に溶け込むかのように、輪郭をぼやかしていた。

 幼少期の記憶を失っているせいか、ノアの感情は漆黒の水面に揺れる淡い光のように揺らぎ、確かな形を持たない。


 見る者に神聖さと、触れられぬ儚さを同時に感じさせるその存在は、まるで幻のようだ。彼は与えられた命令と冷たい理性にのみ忠実に生きる、孤独で美しい道具でもあった。





 だが、イザナはその偽りの平穏を許さない。

 イザナの脳裏で冷たい声が響く。


「お前が失ったのは、記憶だけじゃない。お前自身を、俺以外の誰かに明け渡すな」


 イザナの感覚は、もはや人間の域を逸脱していた。

 ノアがどれほど冷静を装おうと、その完璧な静寂の下に潜む揺らぎを、彼の皮膚の奥で確かに感じ取っていた。

 呼吸のリズム、瞳孔のわずかな収縮、心拍が一拍遅れる瞬間――それらの微細な波を、イザナは音としてではなく、体の内側に直接響く振動として聴いていた。


 いつだったか、過去の話題を出したとき、ノアの唇がほんの一瞬、僅かに震えた。

 その無意識の反応こそ、イザナにとって何より甘美な証拠だった。

 他の誰にも見抜けない心の微細な傷が、自分の掌の上では確かに脈打っている。その実感が、イザナを満たすと同時に底の知れない支配欲と執着をさらに研ぎ澄ませていく。


 ノアが息を吐くたびに、その空気さえもイザナの支配下に置かれているように感じられた。

 まるで世界のあらゆる情報が、透明な糸となってノアからイザナへと流れ込み、彼の中で新たな脈動となって再構築されていくようだった。

 それは観察ではなく共鳴に近い。

 ノアが震えれば、イザナもまた震える。だがその震えの意味を知るのは、いつだってイザナだけだった。


 そのたびに、イザナの瞳の奥で何かが微かに軋む。


 ノアは気づかぬうちに、イザナの監視という名の熱に包まれ始めていた。


 その熱は光を持たず、声もなく、ただ静かに彼の輪郭を溶かしていく。


 イザナの心は、表面上の氷のような静寂とは裏腹に、深部でマグマのように激しく燃え上がっている。

 体内を巡る灼熱の血流が、彼の人ならざる力を駆り立て「動け、今すぐに捕まえろ」と、原始的な衝動を囁く。


 彼は隠れた影の中で、組んでいた腕をゆっくりと解き、手のひらを冷たい壁に触れさせた。


「……そろそろ、次のステップに進む時か」


 イザナの低い声には、策略と沸き立つ熱意が混ざり合っている。まだ表立って手を出し、ノアのスパイとしての任務を破壊する時ではない。ノアが自らの力と知略で、この裏社会という名の迷宮を必死に歩む様子を、イザナは高みから観察する。

 そして、ノアが誰にも救えない絶望的な窮地に陥った時――その瞬間だけ、守護者として介入するのだ。


 イザナにとって、これは単なる監視ではない。

 これは、失われた「唯一」を支配という名の鎖で再び手元に引き寄せるための、甘美で残酷なゲームだった。


 ノアは、そのすべてに無自覚だ。

 任務を遂行するその瞳は冷たく輝き、イザナの灼けるような視線に微かに反応することさえなく、警戒の影も見せない。

 ただ、与えられた使命を機械のようにこなす。



 その無垢な無自覚さが、イザナの胸に暗い衝動を渦巻かせる――苛立ちと、抑えきれぬ執着と、危ういほどの愛おしさが絡み合う。

 まるで森に潜む巨大な虎が、掌の中で壊してしまえそうな一匹の仔猫を、獲物とも玩具ともつかぬ感情で見つめるかのように、危険で禍々しい興奮が彼の内を支配した。


 イザナは壁に凭れていた体を静かに起こし、ノアが消えた方向へ視線を投げかける。


「……今夜も、俺のテリトリーの中で、ゆっくりと飼い慣らしてあげるからな」


 心の奥底で呟かれた支配者の言葉は、夜の闇の奥底へと音もなく吸い込まれていった。

 

 影の中に立つイザナの目が、闇そのものを切り裂くような冷たく強い光を、一瞬の閃光として放った。それは再会という名の「捕獲」が、もはや不可避の運命として定められたことを示す予兆。


 イザナのテリトリーにおいて、獲物であるノアの逃げ場は、既にどこにも存在しなかった。






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