夕凪の声に耳を澄ませて
アメノヒセカイ
第1話 何でもない今日の
平和な日々が嫌いなわけじゃない。
でも退屈で、楽しくないわけじゃないけど、物足りない気がしてしまう。
友達といてもそれは変わらなくて、きっと白馬の王子様に連れ出されて特別な人になりたいという、極めてありきたりな感情だと思う。
八月。高校生活三回目の夏休みが始まった。私はというと、ラフな格好でエアコンの風を浴びながら、ソファで寝転んでスマホを見ている。棒アイスを咥えて、俳優やら動画投稿者やらスポーツマンの良いニュースと悪いニュースを、頭を空っぽにして見る。
たぶん大学受験に向けて勉強を頑張るべきだと思うが、今日のようにソファから脱出することですら困難な日もあるものだ。
「夏休み、さっさと草むしりする。一か月もしたらもっと増えてどうにかなっちゃうよ」
母はそうめんを茹でながら、まるで私の仕事の心配をしているような言い方をする。
実際は母も同じ住居人であるはずなのに。
「なら増えてからの方がいいと思わない?」
「草抜いた方が入ってくる蚊が少ないでしょ?」
「そうだね」
母と言い合うのは面倒な気がした。
確かに水気が多い方が蚊は寄ってくるような気がするし、その羽音も打つ手のない痒みも私の平穏を崩壊させるには十分な兵器だ。
ただ依然として私の仕事かと聞きたくなるが、
「よろしくね、
大皿に盛った麺は冷水に浸けられており、浅瀬にある岩場のように佇む氷の数々が氾濫を予見させる。母はパートとして近所の定食屋で働いている。パート先では色彩溢れた食事を作るくせに、実の娘には単調にそうめんと、めんつゆに浮かぶ申し訳程度の刻み葱と擦り生姜しかないのは不満が残る。
「これで草むしりとは、どう考えても割に合わない!」
私は母がいない、つまり隙だらけの冷蔵庫を漁る。よく探すと母の秘蔵っ子である駅前高級プリンを見つけた。絶対食べてやると決心し、そうめんが水を吸って増殖する前にやっつけておいた。
「もう、やればいいんでしょ、やれば」
私は高校生になってから外出時はシャツとスカーチョがスタンダードとなっている。スカーチョはスカートと民族衣装ポンチョを合わせたズボンの利便性を確保しつつもスカートのかわいらしさを醸し出せるようなアイテムである。
草むしりにスカーチョは合わないが諦めるしかない。
「ていうか」
庭に出る。膝の高さまで伸びた背の高い雑草が繁茂していて身動きが取れない。草刈り機がなければやる気が出ないが、軍手だけで働けと言うのが母の命令である。そろそろ理不尽な要求に対してストライキを起こしてもいいはずだ。
「鞭みたいに肌に当たって痛いし、ちょっと赤くなるしー!」
軍手の滑り止めの粒々が取れそうなほど力を入れて草を抜く。手が痛い、途方もない、庭が広く感じる。庭に出てから草を抜きながら家の敷地の外を探す。仕事の全体像を把握した方がやる気になるはずだ。
「……は?」
私が見たのは、草花の隙間にある歪な空間だった。屈むと縮小した星空が見える。私はその美しさに魅せられて匍匐前進(ほふくぜんしん)をしながら進んでしまう。しゃぼん玉が干渉するように、その圧縮された星空に触れると縞模様が一瞬見える。
そして。
「きゃあ!」
その星空に吸い込まれた。
夕方? 黄金色と橙色の空が広がっている。砂浜もいくらでも駆けることができそうな面積だ、しかも無人である。なにこれ? どういうこと?
波が穏やかで、潮は何度も砂浜を撫でるように引いたり押したりしている。
「ようこそだよ、君の名前は?」
「私はネウミ」
綿菓子が浮いている?
しかしそのぬいぐるみのようなふわふわには翼とくりくりした目、丸い鼻が付いていた。
うさぎのような長い耳もある。
「ボクはね、チャミュショ。こう見えてこの空間を作った堕天使だよ」
「堕天使?」
「うん。一度だけ神に逆らったから。科学を発展させて神様を忘れようとしている、災厄をもたらせて思い出させてやるって。天使は神の使いだから口答えしちゃだめで。でもボクは科学が発展しても神への信仰は続くって反論したからね」
「今の状況は納得できないし、そもそも受け入れられないけど。草の隙間から覗かせた星空のようなものを抜けるとここに来て、それはあなたが作ったってこと? どうやって帰るの?」
「そこだよ!」
チャミュショは耳を器用に動かして岩場を指した。その隙間にはちょうど屈めば通ることができる隙間があって、同様に星空を覗かせている。
「じゃあ、私は帰るね」
「どうして?」
「草むしり全然終わらないし」
「ここはお腹も空かないし口も渇かない。それに、この空間では現実の時間は止まっている、まさに夢の世界。つまり、この空間でゆっくりしてから外に出てもここに来たときの時間のまま。それに静か」
「確かに、潮騒も全くないね!」
「夕凪って言うみたい。夕方、陸が冷えて、海風から陸風に変わるときに発生する無風状態が続いているから」
「でもやることはないよ」
チャミュショの耳が垂れる。元気がなくなったことが見て取れる。申し訳なく感じてしまったら負けだ。
「少し探索していい?」
「もちろんだよ!」
チャミュショは耳が持ち上がってぱあっと表情が晴れる。私は砂浜を走ってみる。それから海に足を浸けてみたが、水が膝の高さを越える前に透明な壁に阻まれた。
「危険なことはないようにね」
チャミュショは耳をぴくりと上げたり倒したりしながら私のそばを飛んでいる。海の反対側には堤防がある。上って歩いたり越えたりはできるが、すぐ近くにまた透明な壁があるようで行くことができなかった。私は砂浜に転がっていた木の棒を使って、チャミュショが満足するまで一人砂取りで遊ぶ。チャミュショは嬉しそうだ。
「チャミュショ、ありがと。じゃあ、戻るね」
岩場に見つけた隙間にある星空を通り抜ける。チャミュショは岩場に残って耳を左右に振って別れの挨拶をしてくれる。
「また来てね!」
「分かったよ。また」
あの砂浜は退屈そうだけど、庭に戻れば砂浜へ行った時間のままなのは利用価値がありそうだ、と考えたが。そう、決してあの堕天使が寂しそうとか思ったわけじゃないしッ!
今から草むしりを再開するが、時間がチャミュショの空間へ行ったままとはいえ、探索したり遊んだりした疲れは残っており今から草むしりとなることにひどく後悔した。
それも、母の秘蔵っ子駅前プリンを食べる余裕すらなく、草むしりをした私は寝てしまって。起きた頃には夕食準備中で、パートから帰ってきた母は料理前に気合を入れるためプリンを食べ終えたらしい。悔しい! 私のプリンじゃないけど、私が食べるつもりだった!
「ネウミ、草むしりありがとね。夜はあんたの好物のコロッケよ?」
そう言われてしまうと許してしまいそうになるのは、私がちょろいからかもしれない。それに、あの砂浜の入り口は草花の隙間にできていたが、周辺の草はどうやっても抜けなかった。草むしりを完遂できなかった罪悪感があるわけだ。
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