バイトの相方は好青年だが、着ぐるみを見る目はどうもアレ

すわ樫井

1.前編

第1話 テレビ局の「かわいいあの子」


「遅くなりました、永野です!」


 その一声だけで、職員通用口に漂っていた緊張感がフッと緩んだ。



 地方局と言えど、テレビ局の職員通用口を突破しようとする憂国の士や鉛玉は、稀にある。

 少しの疑心を残したまま、来館者に入館バッジを手渡した老守衛も、見知った職員の登場に表情を和らげた。


「ありがとうございます! その人相悪い奴、今日のイベントのバイトです!」


 永野の声はよく通る。例え彼がまだ階段の踊り場にいても、上から響く声だけで、彼が今日も元気で楽しそうだということがわかる。

 良い声だ、と安部深(ふかし)は入館バッジを鞄につけながら思う。

 悪い目つきに茶色い坊主頭、両耳に並ぶ銀色のピアス。人相も愛想も悪いという自覚がある深は、それなりに無礼な発言をしながら現れた永野に小さく頭を下げた。

 開局記念日を祝うイベント日だからだろうか。永野は、8月の空のような色のポロシャツを着ていた。左胸に小さく、このテレビ局のマスコットキャラクターでもある白い鳥がプリントされている。短い黒髪も相まって、永野の、人好きする明るい笑顔によく似合っていた。


「今日も頼むぜ、フカシ」

「はよす」


 挨拶は気安い。

 春と秋のイベントシーズンくらいしか顔を合わせない2人だが、永野は深のことを弟だか後輩だかに思っている節がある。

 深の連絡先が書かれたメモと一緒に前任者が寄越してきた、「深を頼む」という言葉を真に受けたのかもしれない。永野の胸ほどしかない深の小さな背丈が奇妙な錯覚を招くのかもしれない。


「いつもごめんな。いい加減お前に別の仕事割り振るか、時給上げるか、相方替えるかしてやりたいんだけど。経費削減ってので、なっかなか難しくってな。悪い。……」


 スタッフ控室へと向かう道すがら、一通りの罪悪感を吐き終えた永野は、ちらりと背後を振り返った。

 見えたのは、俯く深の茶色い頭だけだ。相槌も打たず3歩後ろで永野の影を踏む深が、永野の詫びをどう捉えたかはわからない。


「本当は、せめてフカシを臨時でも採りたいんだけどな。人事に口出しできない下っ端でごめんな」


 歩きながら、背後に伸ばした手で茶色い頭をぐりぐりと撫でる。随分短く切られた髪は、頭皮が近い所為だろうか、永野の手のひらを温め、ついでに柴犬の類を見ると撫でまわさずにはいられない永野の心をも温めた。

 深は、社会人歴7年のれっきとした成人男性だ。

 永野と深の付き合いはここ2年程だが、この局と深の付き合いは4年になる。それらを承知していても、極端に言葉少ななこのバイトを見ていると永野は、フカシは家で飼えるんだろうかという危険な疑問が胸中でくすぶることがある。


「また何か嫌なこと言われたら、すぐ言えよ? 我慢すん」

「永野さん。廊下じゃ、声が響きますよ」


 俯く顔を覗きこもうとしゃがんだばかりの永野の背に、こつりと扉がぶつかった。そして降る、柔らかな声。


「はよ」

「おはよう、安部さん」


 苦々しい顔を瞬間見せた永野の頭上で短い挨拶が飛び交った。

 薄く開いた扉の隙間、スタッフ控室から聞こえたのは、腹が立つほど爽やかな声だ。


「永野さん。もし良かったら、今日のお仕事の説明を先に頂いて良いですか?」


 振り仰いだ先、永野の視線を迎え撃ったのは、にこやかかつ柔らかな頬笑み。

 老若男女に警戒され喧嘩を売られやすい深とは対照的に、来場者も職員もバイト仲間をも惹きつけるこの男――林実(はやしみのる)らしい笑みだ。


「あと、安部さんも良い年した大人ですよ。就職させて欲しかったら、嫌なことがあったら、ちゃんと言えるんじゃないですか? 一応、口ついてますし」


 そして、深に対する厳しい言葉も相変わらずだ。

 毒を吐かれた深は眉ひとつ動かさないかわり、永野の表情が目に見えて険しくなった。




***




 猫撫で声をかけてやっても、釣り上がった目尻と眉間の皺でじろりと見遣るだけの深は、「無愛想の妖精」と陰で呼ばれている。

 他方、温かな眼差しとさりげない気遣いを惜しみなく提供する林に対する職員の評価は、「まるで春風」だ。

 その由来は、去年の春イベントで雇われるや否や、その恵まれた容姿と柔らかな物腰で老若男女の心をさらってしまったから、らしい。


「写真っ、良いですか?」

「はい?」


 親子連れの一団も去り、ようやくスタジオの中が空っぽになったと思った途端。

 緊張が滲む声をかけられ、ゆったりと林は振り返った。


「写真! 一緒に!」


 携帯をぱたぱたと振ってみせているのは、20歳前後の女性3人連れだった。声を張り上げる1人の後ろで、チークだけでは無い赤みを頬に乗せた女性たちも、小さな拳を握りこくこくと必死に頷いていた。


「もちろん。構いません、ありがとうございます」


 通りすがりざまに携帯電話を向け、声もかけずに写真を撮る客は多い。順番待ちの列も気にせず、我が子を孫を先にしろと無理を言う客さえ少なくない。

 しかし彼女たちは、スタジオ内を走り回ったり、キャスターたちが腰掛ける椅子に座りご満悦になったり、記念撮影に興じたりする親子連れがいなくなるのを待って声をかけてくれたらしい。

 惜しげもなく晒される太腿や細い腕は眩しいばかりだが、その気遣いが有難く、林は心の底からの笑顔を見せた。


「良かったね、ノラッテくん。綺麗なお姉さんたちが、一緒に写真撮ってくれるって」


 そして林の右横に立つ、真っ白な鳥をデフォルメしたような着ぐるみの頭を撫でた。

 少し勝ち気なりりしい釣り眉を持つ「ノラッテくん」も、ぱっと両手の羽を上げて、伸びあがるように体を揺らした。


「はは、ノラッテくん、嬉しいなあ! よし! じゃあもうひと頑張りだ!」


 ぽふりと白い背中を叩かれた「ノラッテくん」は、任せろと言わんばかり林の背を叩き返した。

 着ぐるみじゃなくってあなたと写真が撮りたいんです、と言いたげな女性たちも、1人と1匹のやりとりにぐっと言葉を飲み込んでしまう。

 人間ではない体をフル活用した愛嬌ある感情表現にほだされたから、というよりもむしろ、人外の生き物との会話を嬉しそうに弾ませる林に何か感じ入る所があったのかもしれない。

 いっちに、いっちにという林の声に合わせて、人工の毛皮で出来た丸っこい体が、トッタトッタと女性たちに歩み寄る。

 白いつむじを見下ろす林の目が、愛情に満ちているからだろうか。その姿はまるで、小さい子どもと、彼の面倒をみる近所のお兄さんのようだった。


「それでは、皆さんお並びください。私がシャッターを押しますから」


 林の役名は、着ぐるみの補助とカメラ係だ。足元の限られた場所しか見ることが出来ず、喋ることも出来ない「ノラッテくん」の目となり口となり、家族や友人全員の姿をフレームに納めることを仕事にしている。

 職務を全うしようと手を差し出せば、どこかうっとりとすらして1人と1匹を見ていた女性の表情が強張った。


「あのっ、そうじゃなくてあたしたち、」


 林を見上げて声が張り上げられたと同時。

 携帯電話を握る女性の手を、少し遠慮がちに、羽を模した白い毛皮が包んだ。

 丁寧に伸ばされたまつ毛の下の瞳が、びくりと揺れて異形を見た。

 じっと見つめる大きな目は、黒いプラスチック塊だとわかっている。それでも女性は、言葉を途切れさせごくりと唾を飲む。

 どこかしょんぼりと肩を落とし、そっと手に触れたふわふわの感触。

 まるで、「写真だめなの?」とでも言いたげな消沈した仕草に、


「や、かっ、カワイイっ!」

「えええ?!」


 たまらずきゅっと白い胴体を抱き締めた。残る2人は素っ頓狂な声をスタジオに響かせる。

 正面玄関を向いていた警備員も、若い娘の叫び声に反応し、「ノラッテくんと写真を撮ろう!スタジオコーナー」の様子を伺っているようだ。


「何、ちょーふさふさこの子! それから良い匂い! ほらサキも撫でてみて!」

「え、本当?」

「……ええ。今日のためにノラッテくん、ちゃんとお風呂に入ってお日様の下で日光浴までしてきましたから」


 笑顔を消して目を見開いていた林も、職務を思い出したかのようににっこりと笑って相棒の自慢をする。

 嘘ではない。

 職員の誰よりも「ノラッテくん」を愛する男の手によって、白い毛皮で出来た体は、お洒落着洗いの洗剤で洗われごしごしと拭われ陰干しされている。

 先週末に行われた、イベントスタッフを集めた説明会の後。ただの自己満足だからと、給料も出ない勤務時間外に丁寧に洗われた毛皮だ。

 冷めた目の大人をも虜にする手触りが保たれていなければ、割に合わない。


 人相の悪い顔に飛沫をくっつけながら、水に浸けられる部位を黙々と押し洗いをしていた小さな背中を思い出しながら。

 彼女たちの興奮が収まるまでの間、林もこっそり「ノラッテくん」の白い背を撫でていた。

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