第25話 やめない宣言 ―「覚醒」

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 小さくて、まっすぐで、嘘をつかない音。

 カチ、カチ、と秒針が歩くようなリズム。遠くで誰かがカーテンを引く擦れる音。消毒液の匂いが肺の奥へ落ちていき、鼻の奥が少しだけツンとする。白い天井。天井の真ん中に小さな染みがあって、そこから外の光がじんわり広がっていた。

 目を開ける。

 眩しさにまぶたが震え、その隙間に朝が流れ込んだ。窓の向こうに雲の切れ間。光は冷たいのに、あたたかい。矛盾ごと現実だった。

 「ソラ……!」

 声。母さんだ。椅子が倒れそうな勢いで立ち上がった気配。シーツの端を握る指先が震えて、肩に触れた手は熱く、弱く、でも、いちばん強かった。

 「……母さん」

 喉が砂利道を歩いたみたいに痛む。自分の声が自分のものじゃない。軽い咳。看護師が素早く近づいてボタンを押す。機械の画面の線が波のように跳ね、心拍の音が少し上がった。廊下を走る足音、扉が開く音、白衣の影。

 「反応良好。鎮静は切れてます。奇跡だな」

 医者の低い声が、驚きを隠し切れないまま落ちてきた。“奇跡”なんて言葉はテレビの中だけと思っていたけれど、現実もときどきテレビに寄りかかる。

 呼吸が落ち着くと、母さんは少し離れた。両手で顔を覆って、次に見せた顔は、泣きながら笑っていた。

 「二年よ、二年。ずっと、ずっと寝てたのよ、あなた」

 言葉は震えながらも、芯のある棒のようにまっすぐだった。そこにすがって、俺も笑う。笑う、という動作を体が思い出すのに数秒かかった。

 ベッド脇のテーブルに、一冊のノートが置かれていた。古びた布カバー。薄い緑。角が削れて、紙の端に指の跡が残っている。表紙には油性ペンで大きく、歪んだ字。

 “生活ノート”

 表紙の下に、小さく名前。“如月ミオ”。

 指が勝手に伸びる。ページをめくる。病院の空気の中に、学校の匂いが混ざった。チョークの粉と外の土と給食室の湯気。文字は不揃いで、でも、一本一本がまっすぐに立っていた。

 《今日のありがとう:先生が、待つと言ってくれた》

 《今日のできた:弟に髪を結んであげた。母に叱られずに済んだ》

 《今日のやめない:遅刻しそうでも、走った》

 ページの端に小さな付せんがあって、そこに丸字でこう書いてある。

 《目が覚めたら、読んでください。夢で会った先生へ》

 喉が熱くなって、水が欲しくなった。ストローから落ちる水が、身体の中の何かを動かす。まるで長い眠りの間に止まっていた時計が、からんと歯車を噛み直したようだった。

 数日後、医師の見立ては思ったよりも早かった。リハビリは続くが、日常の会話は問題なし。歩く練習、細かい手の動きの練習、そして“現実の朝”を取り戻す練習。

 母さんは帰り道、いつもよりゆっくり歩いた。交差点の信号が青になって、周りの人がせかせか渡るのに、母さんだけ一歩分遅らせる。俺の歩幅に合わせるため。恥ずかしいほどありがたい。

 退院の日。

 病院のロビーに、見慣れないけれど、どこか見慣れた背中があった。短く切った黒髪。首筋に小さな日焼け。こちらに気づくと、大きく手を振って、あわててぺこぺこと頭を下げる。

 「た、タクミです! 犬飼タクミ! あの、えっと、現実のほうの!」

 早口に詰まりながら、スマホを掲げる。

 「先生、これ見てください。“#やめない宣言”、いまトレンド一位です」

 画面に流れる短い動画。黒板。白いチョーク。

 《やめたいは、やめないの予告》

 目頭が熱くなって、慌ててまばたきを増やす。

 「お前、現実でも編集、上手いな」

 「へへ。弟子の成長速度、なめないでください」

 帰宅してから数日、俺は歩いた。病院の周り。小学校の前。商店街。知らない喫茶店。知っている空き地。世界を撫で直すみたいに歩いて、そしてある朝、母さんに頭を下げた。

 「母校、行っていいかな」

 母さんは長い長い息を一度吐いて、笑った。

 「行ってらっしゃい。最初の“いってきます”だね」

 母校。昇降口の匂いは、昔と同じ、少し湿って、ゴムの粉が混ざっている。上履きの底が床に触れる音。掲示板に並ぶ“今月の目標”のプリント。人の歩く速さ。先生の呼ぶ声。全部、帰ってきた。

 職員室の扉をノックする。扉の格子ガラスの向こう、数人が顔を上げる。扉を開けると、コーヒーの匂いと紙の匂いがふわっと混ざった。

 「教育実習生、天野ソラです!」

 大きめの声で言うと、思っていた以上に胸が熱くなった。笑うのを我慢すると、不自然な顔になる。

 「来たわね、“やめない先生”」

 椅子から立ち上がったのは、雨宮先生だった。現実の雨宮先生は、夢の中の彼女より髪が短くて、笑うのが少し下手で、その代わり“疲れた人を見つけるのが上手”な目をしていた。

 「体、無理しないで。最初の週は見学。次の週から少しずつやりましょう」

 教頭の席から低い咳払い。鵤。眉間は相変わらず険しいが、目の底にうっすらと笑い皺。

 「まずは職員室のルールからだ。書類は期限前提出、プリントは枚数を守る、コピー機は祈ってから回せ」

 「最後、現実味ありますね」

 「祈らないと詰まる」

 職員室が少しだけ笑いに包まれる。俺はすでにここが好きで、たぶんずっと好きだったんだと思い出す。

 担当クラスは二年の三組。偶然か、用意か。教室のドアをそっと開ける。

 旧式のプロジェクタ。黒板の左下に小さく残る白い粉の塊。窓際の席に、見覚えのある後ろ姿。肩甲骨の上でまとめられた髪。白いブラウスの襟元に名札のピン。名札の名前は、現実の音で。

 白咲ユメ。

 その下に、小さく“教育補助員”。二十一歳。

 呼吸を忘れた。心臓が思い出させてくれた。俺は生徒の視線を背中に浴びながら、教壇から一歩だけ前に出る。

 「今日からこのクラスで国語の実習をします、天野です。二週間、よろしく」

 「よろしくお願いします」

 声が重なり、椅子が動き、どこかでボールペンがカチンと鳴る。教室の音が、俺の音に混ざる。

 チャイムが鳴り、次の授業の準備が始まる。俺は教壇の端を拭きながら、窓際の補助員の彼女をちらりと見る。彼女はノートをめくる指を止めず、ただ少しだけ、目の端で笑っていた。気づいている。こちらも笑う。昔から、こういう合図がいちばん好きだ。

 最初の一限は見学だ。雨宮先生の授業は、夢の中と同じで、現実のリズムに優しかった。

 「言葉は道具。道具は練習。練習は失敗。失敗は――」

 「練習中!」

 教室の後ろのほうで誰かが叫び、笑いが走る。雨宮先生が軽く頷く。

 「はい、正解。では今日の詩は短い。声に出して、意味を作りましょう」

 授業の後、プリントの束を抱えて廊下に出る。昼休みが始まる直前、俺の袖口をつまむ細い指があった。

 「ソラくん、屋上、行く?」

 声は低く、よく通る。振り向くと、名札の“白咲ユメ”が、少しだけ頬を赤くして立っていた。

 「補助員が教師に屋上に誘うのは、教育的にどうなんだ」

 「教育実習の一環。教師の昼休みの取り方を学ぶ、っていう名目」

 「名目が完璧すぎる」

 「じゃあ、合格?」

 屋上。

 鍵の錆の匂い。フェンス越しの町。遠くを走る電車。風が吹くと、白いシャツの袖がはためき、髪の結び目が揺れる。空は高くて、夏の手前の、まだ湿度を知らない青。

 「おかえり、先生」

 言われて、反射的に笑った。

 「ただいま」

 その一往復に、夢が全部入った。

 「補助員なんて、いつの間に」

 「内緒。じゃないけど、サプライズが好き」

「現実に来たんだな」

 「うん。たぶん、ずっと前から来てた。あなたが起きるのを待ってただけ」

 ユメはフェンスに指をかけて、下を覗くふりをして、横顔だけ俺に見せた。

 「本当は配信、続けるか迷った。現実の仕事、ぜんぶ投げたくなった夜もあった」

 「知ってる」

 「知ってるの?」

 「いや、知ってる気がするだけ。夢の中で、毎晩、誰かが“やめない理由”を話してた」

 俺の声は、風に半分持っていかれた。それでも伝わると信じて、続ける。

 「俺も怖かった。起きて、ぜんぶ違ったらどうしようって。夢の生徒たちも、屋台の看板も、ポップコーンの袋も、ユメの声も、ぜんぶ“なかったこと”になってたら、どうしようって」

 ユメはうなずく。

 「でも、続いてた」

 「続いてた」

 同じ言葉が重なるとき、世界は少しだけ真実になる。

 スマホが震えた。通知。タクミから。

 《先生、屋上っすか。バレバレ。あと、トレンド、見てください》

 画面を開く。“#やめない宣言”がいまも燃えていた。炎上じゃない。暖炉だ。人が集まって、手をかざして、譲り合って座る火。

 サムネに黒板。白い文字。

 《やめたいは、やめないの予告。》

 コメントがついている。

 『この言葉で課題終わった』『明日学校行く』『推しの先生になりたい』

 『起きてくれてありがとう』『おかえり』

 胸の奥のどこかが、ほどける音がした。

 「先生」

 ユメが、俺の袖をつまむ。

 「何度でも言うね。おかえり」

 「何度でも言う。行ってきます」

 そう言うと、彼女は目を細めた。

 「現実でも、やることいっぱいあるよ」

 「分かってる。授業の準備、指導案、出欠、掲示物、保護者会、それから、……家のごはん」

 「配信のサムネも」

 「それはお前の仕事だろ」

 「手伝わせて」

 「喜んで」

 会話はいつもみたいに軽くて、でも、一言ずつが未来の柱みたいに真っすぐ立っていく。

 昼休み終わりのチャイムが鳴る。屋上の風が少しだけ湿って、午後の気配が降りてくる。

 「行こうか、教室」

 ユメが頷く。フェンスから指を外し、踵を返す。その動きが一秒遅れて胸の中に残像を作る。俺はその残像ごと握りしめて、階段へ向かった。

 午後の最後の時間、担任の先生の計らいで、五分だけ“実習生のごあいさつ”の時間をもらった。

 黒板にチョークで三文字。

 《再 開 式》

 「大げさ」

 ユメが小声で笑う。俺も笑う。

 「今日は三つだけ、話す」

 教室が静かになる。

 「一つ。テストの点数は大事。でも、点数の上に、もう一個、自分で点をつけろ。“がんばった点”。誰にも見えないけど、ちゃんとある」

 何人かがペンを走らせ、何人かが鼻で笑って、それでも笑いはやわらかい。

 「二つ。やめたいって思ったら、その気持ちを、だれかに預けろ。家族でも、友達でも、先生でも、推しでもいい。預けると、急に軽くなる」

 窓際でユメが、ほんのすこし頷く。

「三つ。これが一番言いたいこと。――“やめたい”は、“やめない”の予告だ」

 黒板の文字を指で叩く。粉が舞う。教室の空気が揺れる。

 「以上。実習生の、最初の授業でした」

 拍手が起きた。最初は遠慮がち、すぐに大きくなる。タクミの席に似た位置の男子が、机の上で指を叩いてリズムを作り、クラス全体がそれに合わせる。誰かが「先生、サインください」と叫び、笑いが広がった。鵤が廊下の奥から咳払いし、笑いがほどける。

 教壇の上から見下ろす顔の海は、見慣れないのに、見慣れていた。未来には見慣れるまでの時間が必要だけど、今日は、その時間ごと愛せた。

 放課後。

 職員室に戻ると、机の上にメモ。雨宮先生の字。

 《明日の五限、あなたに任せます。題材は自由。ただし、原則に従うこと。原則=生徒が笑って、なにか一つ持ち帰る》

 裏に小さく、もう一行。

 《あとで保健室でコーヒー》

 思わず笑う。鵤の机を見ると、書類の束の上に重ねられた赤いキャップのペンで、でかでかと“期限厳守”と書かれたふせん。現実は気が利いている。

 帰り道。

 校門を出ると、空の色が夕方に向かって深くなっていた。電柱の影が斜めに伸び、道の端に小学校帰りの子どもたちがランドセルで小さな壁を作っている。コンビニから出てきた高校生が、からあげ棒をかじりながら笑っている。日常がまとわりついてくる。服についた、うれしい重み。

 ポケットのスマホがもう一度震えた。タクミから、グループチャット。

 《先生、明日の撮影打ち合わせどうします?》

 《先生、私も手伝います。ミオ》

 《弟が“現実の先生すごい”って言ってます。さっき動画見せました》

 画面の中の文字は、夢と現実の境界を平気でまたぐ。俺も、もう平気でまたぐ。

 家に帰ると、母さんが煮物の匂いをまとって台所に立っていた。

 「おかえり」

 「ただいま。明日、授業する」

 「先生か」

 「見習い」

 「立派な先生よ」

 母さんの声は、ゆっくりした階段みたいに、一段ずつ俺を上げてくれた。

 自室の机に、退院の日からずっと置きっぱなしの“生活ノート”がある。表紙をもう一度撫でる。紙のざらざらが指紋にひっかかり、音のない音を生む。ページを開くと、最後のほうに空白のページがあった。俺はペンを取る。文字は少し震える。でも、それも今の俺だ。

 《今日のありがとう:目が覚めた。待っていてくれた人がいた》

 《今日のできた:おかえりと言った。いってきますと言った》

 《今日のやめない:黒板に立つ。明日、もう一回》

 ページの下に、黒板でいつも書いていたあの言葉を、丁寧に、少しだけ大きめに書く。

 《やめたいは、やめないの予告。》

 書き終えると、外から風の音。窓ガラスがほんの少し鳴る。遠くで電車が渡る音。秒針の音が、眠りの中で聞いたものと同じリズムで部屋の空気を刻む。

 俺はノートを閉じ、深呼吸をひとつ。ベッドに背中を預ける。天井の染みはもうない。ここは病院じゃない。家だ。明日は学校だ。仕事は山ほどだ。怖さもある。楽しみもある。どっちもある。だから両方まとめて抱えて、寝る。

 目を閉じる直前、スマホがもう一度だけ震えた。ユメから。

 《明日、教室の後ろのほうで拍手する係。いい?》

 《それ、最高に難しい役》

 《得意だよ。あなたの“やめない”にタイミング合わせるの》

 《じゃあ俺は、あなたの“やめたい”を預かる係》

 《うん。ずっと》

 送信を終え、スマホを伏せる。暗い部屋に、秒針がまっすぐな線を増やしていく。世界はちゃんと前に進んでいる。

 “やめない先生”は、まだ練習中だ。

 でも、練習中には、もうひとつ名前がある。

 ――教師。

 明日、始業式を勝手にやる。

 俺の黒板で。

 君たちの教室で。

 そして、現実の、いまの、この世界で。

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