第21話 卒業制作=ありがとうの可視化

 卒業式まで、あと十一日。校庭の梅が、教室の窓の向こうでやっと咲きかけている。咲く気はあるけど、空気がもう少しあったまってからな、みたいな顔つきだ。黒板に「卒業準備」と書いたら、クラスの何人かが同時にため息をついた。ため息のハーモニー。音階は合っている。


 「テーマは『ありがとうを残す』だ」

 俺が宣言すると、わずかなざわめき。机に頬を乗せていた犬飼タクミが顔を上げ、前髪の隙間からこっちを見た。

 「“残す”って、どう残すんすか」

 「動画だ」

 「来た、先生の領域」

 「でも、やるのはお前ら。俺は監督。主演は全員」

 「主演って、何すれば」

 「黒板に“ありがとう”を書く。それだけ」

 「それだけ?」

 「それだけ。……だけど、最高に難しい“それだけ”だ」


 教室の後ろで、如月ミオが手を挙げた。生活ノートの角に貼られた付箋が、いつもより多い。

 「書くのは“誰に伝えたいか”だけ、でいいんですよね」

 「そう」

 「じゃあ、“誰”は自由。先生でも、友達でも、家族でも、空でも、過去の自分でも」

 「空?」

 「空、が好きって子、いるので」

 「いるな」

 「あと、黒板は普通じゃない使い方をしたいです。照明を落として、チョークが光って見えるように。粉の舞いも撮りたい」

 ミオの目がちょっとだけ輝く。彼女の「やりたい」は、いつも点じゃなく線で来る。


 「タクミ、いけるか」

 「黒板、反射しやすいんで、直で当てるライトはやめたほうが。横から弱く。白チョークより、黄と青も混ぜたいっす。あと、粉の舞いは逆光」

 「頼もしすぎる」

 「でも、予算」

 「ゼロ。青春は、だいたい手持ちの材料でどうにかなる」

 「先生、それ名言っすけど、ちょっと危ない」


 笑いが広がる。笑いながらも、みんなの視線は黒板へ吸い寄せられていく。今日の黒板は、ただの板じゃない。まだ何も書かれていないのに、もう何かが残っている気配がある。


     ◇


 放課後、準備。長机を運び、教卓を脇に寄せる。遮光カーテンを半分閉め、教室を夜っぽくする。タクミはリコーダーケースみたいな自作ライトを取り出した。百均のフレームにトレーシングペーパーを貼ってある。器用さが過ぎる。


 「これで光を柔らかくします。角度は……ここ」

 ライトの位置を調整。黒板に寄りすぎると照り返す。離れすぎると粉が映えない。十センチ単位のちょうどよさを探して、足元のガムテに印を付ける。ミオは台本の下書きに目を走らせながら、教室の後ろの掲示をはがした。白い画鋲の跡が、いくつも残る。それもまた、誰かがここにいた痕跡だ。


 「撮影順、出席番号そのままだと堅いから、バラします」

 ミオは黒いペンで名前を並び替える。前後の関係に、うっすら意味を持たせるのが上手い子だ。「ありがとう、弟」の次に「ありがとう、わたしの朝」「ありがとう、担任の眉間のしわ」「ありがとう、バカな友達」。笑いと涙の波高を、無言で調整していく。


 「先生、『担任の眉間のしわ』って」

 「賛成。バランスがいい」

 「ですよね」

 「いや、ですよね、じゃなくて」


 粉受けの溝に残っていたチョーク粉を拭く。黒板消しを何度か叩くと、白い塵が逆光に浮かび、キラキラと落ちる。それだけで、生徒の何人かが「うわ」と声を洩らす。わかる。ホコリなのに、きれいなんだよな。ホコリがきれい、って言えてしまう瞬間のことを、人はたぶん「思い出」って呼ぶ。


 「よーし、リハいくぞ。リコーダーケースのライト、点灯」

 「先生、それ名前なんとかならないっすか」

 「正式名称、今日決めよう。“青春ライト”とか」

 「ださ」


 笑いながら、撮影は始まった。


 一本目。運動部の女子が、チョークを持って黒板の前に立つ。背中の汗がまだ乾いていない。チョーク先が黒板に触れると、全員の呼吸がちょっと止まった。

 『ありがとう、背中押してくれた手』

 書き終わった瞬間、チョーク粉がふっと舞い上がる。タクミがレンズをぐっと寄せた。俺はライトを一段落とし、影を伸ばす。


 二本目。理科好きの男子。字は細いけど、迷いがない。

 『ありがとう、ネジが余らない日』

 教室が小さく笑う。「お前、余らせてたのかよ」「いつも余るわけじゃない」そんな囁きが空気をあっためる。


 三本目。ミオ。

 彼女はチョークを握りしめて、黒板の真ん中に、少し小さめの字で書いた。

 『ありがとう、弟』

 文字の最後の点で、粉が多めにはじけた。あ、と思った瞬間には遅い。ミオがむせて、咳を一度。俺が水を差し出す。

 「ごめん、粉……」

 「むしろ“見せ場”になった」

 「粉、見せ場」

 タクミが肩をすくめる。「逆光、当てといてよかった」


 一本、一本。名前の数だけ“ありがとう”が増える。文字の形がそのまま顔になる。丸い字の子は丸い「ありがとう」。とがった字の子は、やっぱりとがってる。でも、とがった「ありがとう」も、ちゃんと優しい。


 『ありがとう、朝のパン屋』

 『ありがとう、保健室』

 『ありがとう、今日の空』

 『ありがとう、だめだと思った自分』

 『ありがとう、昔の俺を笑ってくれたやつ』

 『ありがとう、席替え』


 「席替えは、感情が詰まりがちだな」

 「先生、あのとき最悪でした」

 「あのときって、どのとき」

 「だいたい全部」

 「おい」


 途中、予想外のトラブル。備品のプロジェクタ用延長コードが見当たらない。タクミの眉間がきゅっと寄る。

 「編集の仮出し、どうやって見るの」

「俺のノートで回す。画面、小さいけど」

 「先生の目、死にますよ」

 「死なない。保健室で休み方習ったから」


 休憩を挟んで、最後の一本。黒板の右下、少し空けておいたスペースに、クラスで一番口数が少ない男子が立った。全員、自然と黙る。彼はチョークを握り直して、下を向いた。迷って、迷って、顔を上げた。黒板に触れる。


 『ありがとう、担任の眉間のしわ』


 吹き出した笑いに、俺も混ざった。混ざったまま、ちょっと泣きそうになった。お前、それ、ずっと見てたのか。そうか。ずっと、見てたのか。


     ◇


 撮影は二日かけて終了。タクミが編集に入る。放課後の情報室。イヤホンの片方を俺が借りて、画面を覗く。波形が呼吸みたいに並んでいる。要らない呼吸は切らない。切りすぎると、人間じゃなくなる。


 「ここ、先生の“息”入ってます」

 「残そう。息は生きてる証拠」

 「名言、量産期」

 「うるさい。尺、足りてるか」

 「尺、足りないのは“ありがとう”じゃなくて、余白。だから最後に余白つけます。黒板がただ黒い三秒」

 「賛成」


 ミオはナレーション台本を整え、黒いヘアゴムで髪をひとつにまとめた。録音室代わりの図書準備室。段ボールの間にマイクを立て、息が直接当たらないようティッシュでポップガードを作る。いつもの手作り。いつもの工夫。


 「じゃあ、行きます」

 ミオの声は、教室にいるときより、少し低い。

 「“ありがとう”って言うと、世界が一瞬だけ止まる。……その止まった時間が、思い出になる」


 録音ブースの空気が熱を持つ。誰も動かない。タクミが指でカウントを切る。最後の行まで、ミオの声に、凹凸がなかった。強すぎず、弱すぎず。ちょうど真ん中。雨宮先生の声に似ているな、とふと思う。


 「OK。一本で決めるの、プロ」

 「プロではない」

 「プロになるやつ」


 完成。タイトルはシンプルに『ありがとうの可視化』。サムネイルは黒板の斜め上からの一枚。粉が光っている。あの粉が、星座みたいに並んでいる。


     ◇


 式当日。体育館。冷たい床の上、静かに椅子が並ぶ。壇上の花が、緊張で少し俯いて見える。開式の言葉、来賓挨拶。マイクの高さが何度か調整される。凛とした空気に、咳払いがふたつ。保護者席のどこかから嗚咽が微かに漏れる。


 上映の時間。照明が落ち、スクリーンに最初の黒が出る。あの“黒が出る”一秒のために、俺たちは二日動いた。黒は怖い。怖いけど、黒がなきゃ白も光らない。


 一本目の「ありがとう」が、体育館の真ん中に浮かぶ。チョークの擦れる音が、スピーカーからふわっと広がる。体育館の壁は音を跳ね返す。跳ね返った音が、人の胸のあたりに入る。音の温度が上がる。


 『ありがとう、背中押してくれた手』

 『ありがとう、ネジが余らない日』

 『ありがとう、弟』

 『ありがとう、今日の空』

 『ありがとう、保健室』

 『ありがとう、担任の眉間のしわ』


 笑いが起きたところで、別の場所から鼻をすする音。笑いと涙の交通が、体育館の中でスムーズに整備されていくのがわかる。道路じゃない。川だ。川が、ゆっくり、ひとつの流れになっていく。


 ラスト、ミオのナレーション。

 「“ありがとう”って言うと、世界が一瞬だけ止まる。……その止まった時間が、思い出になる」


 黒板が、画面の中で、光に変わる。粉が星屑みたいに弾ける。三秒の黒。息を飲む音。そこで、最後の一枚が出た。


 『ありがとう、先生』


 俺の名前が、画面の右下に、少し歪んだ字で出た。歪みは泣きながら書いたからだと、すぐにわかった。黒板に残っていた粉の乱れ方で、わかった。スポンジみたいに、何かが胸の中で一気に水を吸った。


 「……お前ら、ズルいよ」

 声が変なところで割れた。体育館の空気が、やわらかく笑う。涙腺は、もう無抵抗。敗北宣言。俺は手の甲で目頭を押さえた。押さえながら笑うのは、難しい。


 横を見ると、教頭の鵤がハンカチで目を押さえていた。え、そこが泣くんですか、監査役。鵤は咳払いを一つして、姿勢を正した。俺にだけ小さくうなずく。うなずきを返す。ふたりの間に、誰にも見えない議事録が一行増えた気がした。


 上映が終わると、拍手。静かな拍手。大きいけれど、うるさくはない。音が胸の中で溶けるタイプの拍手。生徒の何人かは拳を握っていた。拳を挙げない代わりに、握る。握った拳は、たぶん強さ。


 式の締めのあと、壇上に向かう途中で、ミオが駆け寄ってきた。目が真っ赤だ。なのに笑っている。

 「先生、これで授業、終わりです」

 「いや、まだテストあるだろ」

 「ないよ。もう卒業だもん」

 「じゃあ、俺がテスト受ける番か」

 「合格です。ずっと合格」


 タクミが後ろから肩をどん、と叩く。

 「先生、音割れてませんでした。現場MIX、神」

 「泣きながらミキシングしてたの、誰だ」

 「先生」

 「正解」


     ◇


 夜。家。ユメがソファで膝を抱えて、タブレットを見ていた。画面の中で黒板が光っている。何度見ても、あの粉は星に見える。


 「これ……世界中で再生されてるよ」

 「え?」

 タブレットを受け取る。SNSのトレンドに『#ありがとうの可視化』が載っていて、英語のハッシュタグも混ざっている。翻訳されていないのに、伝わっている。文字が言葉を超える瞬間って、本当にあるんだな、と素直に思う。


 コメントが流れる。知らない言語でも、意味が分かる言葉はある。たとえば、ありがとう。発音は違っても、心臓が理解する。


 ユメが涙ぐみながら俺を抱きしめた。肩に頭を預ける重さが、今日だけ、いつもより一ミリだけ増えて感じる。疲れの重さか、達成の重さか。どっちにしろ、うれしい重さだ。


 「先生、卒業おめでとう」

 「……俺、まだ夢の中だけどな」

 「いいの。夢の中でも、“ありがとう”は現実になる」

 「うまいこと言う」

 「配信者なので」


 双子が布団から顔を出した。歯を磨いたばかりの口で、小さな声をそろえる。

 「あり、がと、う」

 「誰に?」

 「きょう」

 「今日に感謝は、強いな」


 壁の時計を見る。秒針が、また一秒進んだ。今日は進む音が、やけに澄んでいる。ほんの少しの、永遠みたいな音で。


 「なあ、ユメ」

 「なに」

 「俺、たぶん、起きる準備ができてきた」

 「うん。知ってる」

 「起きたらどうなるか、まだ怖いけど」

 「怖くていいよ。怖いままで、ありがとうって言えば、たぶん大丈夫」

 「なんで」

 「世界が、一瞬だけ止まるから。止まった時間で、心が追いつく」


 名言、負けた。そう言うと、ユメは「勝ち負けじゃない」と笑い、俺の手を握った。指と指の間の温度が、今日の最後のテスト。合格。家族は、採点が甘くていい。


 灯りを落とす。暗闇の中、黒板の粉みたいに、今日の言葉が空中にしばらく漂っていた。しばらく、という時間が、思い出に変わるのに十分な長さであることを、俺はついさっき学んだばかりだ。


 「おやすみ」

 「おやすみ、先生」

 「おやすみ、運営」

 「だれが運営」


 笑いながら、目を閉じる。

 “ありがとう”で、世界は一瞬止まり、

 再生ボタンを押すと、ちゃんと進む。


 秒針が、また一つ、前へ。

 その音を聞きながら、俺は眠りに落ちた。

 明日、もう一度、誰かに――そして自分に――ありがとうと言うために。

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