第12話 期末テストは人生のテストじゃない

 期末前の教室は、いつもより椅子の脚の音が小さい。みんな、動きを隠そうとしている。空気が重いというより、薄い。酸素が節約モードに入っている感じだ。黒板の端には教科の略称が白チョークで並び、机の上には赤いチェックの入ったプリントの山。窓際では男子が教科書の端だけを器用にめくっていて、前の席の女子はスティックのりで単語カードを束ねている。音が少ないのに、目に入る情報は多い。静けさって、こういうとき音量じゃなくて視線の数で決まるんだな、と変なことを思う。


 「これ、人生決まるんでしょ」


 ミオが、声というよりも空気の端を押すみたいに言った。机の上には色ペンで塗られた予定表。朝の家事、送迎、買い物、夜の介護、そして“勉強”。時間のあいだあいだに書いてあるのは「弟、歯みがき」「薬」「ゴミ出し」。予定表の紙が、ちょっと湿っている気がした。手汗か、台所の水か、その両方か。


 「こんなの、“点取りゲーム”だよ」


 タクミはスマホで過去問をスクロールしながら、わざとらしくため息をついた。画面の反射に自分の眉が映り、少しだけ笑って消える。ため息のわりに、親指のスクロールは止まらない。ゲームって言い方は、逃げるために使うときと、踏ん張るために使うときがある。今日のタクミのそれは、踏ん張る側だ。


 俺は教卓の上のホワイトボードマーカーをひとつひっつかんで、黒板に太く書いた。チョークよりも、ちょっとだけ音が強い。


 《点数の下に、もう一個の点をつけろ》


 文字が大きすぎたかもしれない。後ろの席の数人が、首をかしげる。


 「もう一個?」


 「“がんばった点”。人に見えないけど、ちゃんとある。自分でつけるやつ。丸でも星でもいい。評価者は自分で、採点者は今夜の布団の中」


 「それ、テストに出る?」


 「出ねえ。でも、人生には出る。おまけに、先生の目にも出る。あとで『お疲れ』って言うときの声の底力になる」


 どっと笑いが起きる。笑いには二種類ある。逃げの笑いと、体勢を立て直す笑い。今のは、立て直すほうだ。笑いのあとで、鉛筆の音が増えた。よし。


 「いいか、勉強は“やめたい”と思った瞬間がチャンスだ。そこが分かれ道。その瞬間、鉛筆をもう一画だけ動かせたら、“やめたい”は“やめない”に変わる」


 タクミがニヤッとする。「先生、また名言っすね」


「黒板書いとけ」



 タクミは冗談半分に立ち上がり、黒板の端に小さく書いた。


 《“やめたい”は“やめない”の予告》


 字の最後が跳ね上がっている。そういう字は、疲れてても前を向く。前を向く字は、だいたい強い。


     ◇


 放課後の勉強会は、机をコの字に組んで始めた。名付けて「進捗見える化会」。雨宮先生が差し入れてくれた個包装のミントキャンディーと、ユメから届いた「集中用BGM(制作者の使用許諾つき)」をセット。音量は小さく。眠くならないギリギリのところ。教室の一番後ろの棚に、妙な存在感の箱が置かれる。


 「それ、なに」


 「ごほうびスタンプ」


 俺が答える前に、リコとラコが箱から飛び出すように現れた。学校帰りにユメと寄ってくれたのだ。箱のふたには、双子の字で「やるきタンク」と書いてある。中には、手作りのスタンプと台紙と、小さなシール。星、ハート、笑顔、そして謎のカバ。


 「五問解いたら“おやすみスタンプ”」

 「十問解いたら“おやすみチュウ”」


 「おやすみチュウは誰が押すの?」


 「パパ」


 「え、やだ、セクハラ」


 「家族内限定!」


 笑い声がこぼれ、緊張が少しほぐれる。ミオがスタンプの台紙を手に取り、「かわいい」と小さく言った。カバのスタンプを指で触って、次の瞬間にはノートを開いていた。スタンプの横に、今日のページ数を書き込める欄がある。双子の仕業にしては、設計が細かい。裏にユメの仕業の気配。


 「先生、スタンプって小学生みたい」


 「高校生でも効く。いや、大人でも効く。達成って、見えると嬉しい」


 「先生にも押す?」


 「押してくれ。五十問解いたら、先生にも“おやすみチュウ”」


 「やめろ、炎上する」


 教室がまた笑う。笑いは油だ。油を差してから、ギアを回す。数学の苦手なやつは計算の反復、国語の苦手なやつは記述の型を覚える。英語は音読。音読はばかにされがちだが、口を動かすのは脳を起こす最短コースだ。タクミは黙々と英語の長文を音にして、つっかえたところに小さく印。ミオは漢字を十個書いて、生活ノートの端に「今日はここから」と印。印があると、明日の自分が迷子にならない。


 「先生、五問解いた」


 ラコが走ってきて、ミオの台紙に星を押す。押す手が少し強すぎて、星がちょっとにじむ。にじんだ星も、星は星。ミオの肩の力が、ほんの少し抜けた気がした。


 「先生、十問いった」


 「おやすみチュウ、パス」


 「パパ先生、言ったね?」


 「すみませんでした。大人にもルールはある」


 ふざけつつ、進む。進むと、笑いが自然に減って、鉛筆の音が増える。増えた鉛筆の音は、たいてい勝ちの音だ。


     ◇


 家に帰る途中、駅のホームで教頭からのメッセージが入った。形式的な言い回しと、最後にだけ素の言葉が少し。


 《期末前の補習について把握。記録提出。健康優先。やり過ぎ注意》


 やり過ぎ注意、の四文字が、意外と柔らかい。あの人にしては珍しい絵文字みたいな柔らかさだ。返事は短く、「了解。睡眠も予算に入れます」。送信して、深呼吸。ホームに風が吹き抜ける。風は、眠気を連れていくときと、眠気を連れてくるときがある。今日は前者で頼む。


 夜。家。ユメが配信用のサムネを作りながら、双子はスタンプ台に顔を近づけて、まだ押していない形を探している。俺は明日の授業のプリントを確認し、ペンを置く。置いた瞬間、壁の時計の秒針が一瞬だけ逆回転した。いつもの、あれだ。慣れたはずなのに、心臓は一拍、早く打つ。


 ――“やめない”を選ぶチャンスの合図。


 俺は秒針に向かって、指でちいさく丸を作った。OKのしるし。双子が真似する。三人で指の丸を見せ合い、笑って、寝た。


     ◇


 試験当日。朝の校舎は、いつもより通路が静かで、階段の音が高い。教室に入ると、ミオは目の下に薄い影。寝不足の影だ。でも、笑った。笑って「おはよう」。その一言で、ほぼ全問正解みたいな価値がある。タクミはシャーペンを握って、芯を二本、ポケットに移した。緊張のときに人は、予備が好きになる。


 「配るぞ」


 監督の先生の声が落ちる。用紙が裏返しで配られ、ペンの用意が整う。俺は教卓から全員を見渡し、時間を確認して、それから、ゆっくり言った。


 「点数より大事なこと、知ってるか?」


 顔が上がる。目が揃う。


 「なに?」


 「テストのあとに“お疲れ”って言えるかどうかだ」


 短い沈黙のあと、笑いが起きる。緊張がほどける。笑った顔は、だいたい良い点を取る。点が悪くても、顔は上がる。どっちでも、今日の勝ちはある。


 「始め」


 紙が一斉にひっくり返る音は、なんど聞いても海みたいだ。最初の波で飲まれるやつもいれば、波の裏に潜って楽に進むやつもいる。潜るコツは、最初の大問を一撃で解こうとしないこと。掴めるところを先に掴む。掴んだ手が温まるまで、あせらない。教室の空気の温度が少し下がり、鉛筆の音が一定になる。タクミの眉間の皺が、最初より浅い。ミオはノートに手を置き、設問の周りに小さく丸を打っていく。丸が並ぶと、不思議と怖さが減る。点の並びは、線の予告だから。


 終了の合図。用紙が回収され、椅子が少しだけ前に。動き始める教室に、俺は小さく言った。


 「お疲れ」


 みんなが顔を上げた。うなずくやつ、笑うやつ、深呼吸するやつ、顔を上げたまま、目だけ閉じるやつ。全部、良い。俺は指で、黒板の端に小さく丸を描く。今日の“もう一個の点”だ。


     ◇


 放課後。職員室では採点の赤が踊っていた。赤ペンは、踊るときだけ強い。止まってる赤は、ただの血だ。俺は国語の記述をひとつずつ読んで、点を入れ、余白に短い言葉を置く。「次の一歩はここ」「惜しい、最後の比喩」「読み方は合ってる」。短い言葉は、明日の足場になる。長い言葉は、たいてい滑る。


 「結果は?」


 鵤がいつもの声で立った。俺はペンを置く。


 「まだ途中です」


 「平均点が下がれば、指導方法の見直しが必要だな」


 「はい」


 「どう思う?」


 いつものやり取りだ。たいていここで、俺は数字の話をする。今日はちょっと違う言葉が先に出た。出てしまった言葉は、戻らない。


 「数字は下がっても、生徒の顔は上がってます」


 鵤の眉が、ほんの少し寄った。寄ったあと、すぐに戻る。戻るのが速い。速いのは、怒りではなく、考えのときだ。


 「……何の報告だ、それは」


 「教師の評価です。自分の」


 半分冗談で、半分本気。鵤は口をつぐみ、数秒だけ黙ってから、短く頷いた。頷いたあとで、別件の書類を置いて去っていく。残された紙の上に、静かな風が落ちた気がした。風が落ちるって表現は変だけど、今日はそう感じた。


     ◇


 帰り道。夕焼けはテストのあとに似ている。疲れているのに、色が派手。派手なのに、どこか静か。家に着くと、ユメはキッチンで夕飯の準備。双子は床にひろげた大きい紙に、今日のスタンプを並べている。星が増えて、カバが増えて、笑顔のシールがテーブルの脚に一枚貼りついている。剥がすのが大変なやつだ。


 「今日は配信、ちょっと早めに始めるね。タイトルは『期末テストは人生のテストじゃない』でいく」


 「強いタイトルだ」


 「先生の言葉、借ります」


 「ロイヤリティは“おやすみチュウ”で」


 「それは家庭内でお願いします」


 配信が始まる。ライトが当たる瞬間、ユメの表情の筋肉がほんの少しだけ変わる。スイッチが入る音はしないけれど、入ったのが分かる。モニタの向こうで、コメントの川が流れ始める。俺はミキサーのつまみを調整し、音量を滑らかにする。滑らかは気持ちいい。


 「こんばんは、ユメです。今日はね、テストの話。期末テストは、人生のテストじゃない。失敗って、“練習中”って意味なんだよ。まだ途中、ってこと。ね、先生?」


 カメラに映らない位置から、俺は親指を立てる。双子がそれを見て、同じポーズを作る。リコが小声で「先生、イエーイ」と言い、ラコが「せんせい、タコヤキ」と言う。意味は分からないが、語感が良いので良しとする。


 コメントが溢れる。


 『その先生紹介して』

 『やめたいをやめない』

 『練習中でいいじゃん』

 『ユメちゃんの旦那さん、先生説』

 『練習って言い方、救われる』


 ユメがカメラに向かって、言葉を一つひとつ投げる。


 「世界はまだ練習中。わたしも練習中。だから、みんなも“やめない”で。うまくいかない日は“やめたい”って言ってから、もう一歩。もう一歩したら“やめない”に変わるから」


 画面の右下に、俺の手元が一瞬だけ映る。ミキサーの上で指がOKの丸を作る。双子が指差して、笑う。


 「パパ、せんせい!」


 「うん。まだ練習中の先生」


 言いながら、胸の奥でつぶやく。練習中って、なんて優しい言葉だろう。失敗をごまかさずに、でも責めないで、次に進める。次に進むための踏み台。踏み台を作るのは、だいたい家と学校の仕事だ。


     ◇


 その夜は、採点の続きはやらなかった。意識してやらないで寝た。“寝る時間の予算”は削らない。約束したからだ。布団に入って、天井を見て、秒針の音を聞く。壁の時計が、ふいに一瞬だけ逆回転した。今日も来たか、という気持ちと、来てくれてありがとう、という気持ち。逆回転は合図。やめたい、やめない、どっちにする、の問いかけ。今日は迷いがなかった。迷いは明日用に取っておく。


 「OK、続行」


 声に出さずに言って、目を閉じる。すぐに眠りに落ちた。眠りに落ちるのが速い日は、たいてい勝っている。


     ◇


 翌日。答案が返り、教室のあちこちで「あ〜」とか「よっしゃ」とか、短い言葉が飛び交う。点数は上も下もある。上のやつには「次はここを伸ばす」。下のやつには「ここまでは来た。次はこれ」。そして全員に、最後は同じ言葉。


 「お疲れ」


 「お疲れ」が揃う教室は、強い。揃わなくても、強くなれる。ミオが答案を見て、長く息を吐いた。点は、目標より少し下。けれど、生活ノートの端には昨日よりもスタンプが増えていて、付箋の字が前より大きい。


 「先生、“がんばった点”、自分でつけた」


 「いくつ?」


 「三つ。弟の薬、忘れなかった。遅刻しなかった。寝る前に今日の“よかった”を書いた」


 「満点だ」


 「点数、普通に負けたけど」


 「負けたときに“満点だ”って言えるの、強い」


 タクミが答案を持って、にやにやしながら近づく。「先生、英語、上がった。あと二点で赤から脱出」


 「脱出じゃなくて、浮上って言え」


 「浮上。はい、褒め切り抜き、お願いします」


 「よし。『気づいたら、やめたいの向こう側にいた』」


 「ちょ、かっけー」


 教室が笑って、笑いの中に、ちいさな拍手が混ざる。拍手は点じゃないけど、点よりも長く残るときがある。そういう音を、今日は拾えた。


 帰りのHR。黒板の端に、今週の名言を貼り替える。白い紙に黒い字で、短く。


 《“練習中”は、前に進んでいる合図》


 貼り終えて、振り返る。何人かがうなずく。うなずく顔は、昨日より寝不足じゃない。鵤が廊下を通りかかって、ガラス越しに指で小さく丸を作る。OKだ。OKがもらえると、次の仕掛けに取りかかれる。


 テストは終わった。人生は続く。続いている間、俺たちはたぶんずっと練習中だ。練習中は恥じゃない。ちゃんと恥ずかしがりながら、ちゃんと進む。そのやり方を教えるのが、国語の授業の、隠れた大問題。配点は自由。採点者は、それぞれ。


 今日も、続行。

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