第二十三話 卒業式前夜、“満席”の由来

 机の天板に、ライトの丸い光が落ちている。夜の十時前。勉強机というより、ここ最近は思い出置き場みたいになってしまった場所で、俺は分厚くなったノートを一冊ずつ積み直していた。数学、英語、国語。表紙ににじんだインク、端がめくれた付箋、途中で折りたたんだプリント。どれも似たような紙なのに、触るたびに違う温度が出てくるのが不思議だ。

 一冊、もっともボロいノートの真ん中あたりが、ふっと指先に吸い寄せられた。ページをめくる。紙がさらっと鳴る。薄い鉛筆の線の間に、へたくそな字で短い文が挟まっていた。

〈だが、俺の隣はいつも満席だ〉

 書いた覚えが、ぼんやりしかない。けれど、書いたときの呼吸だけは思い出せる。少し早くて、少し笑っていた。文字の形からして、最初のころの字だ。線が細くて、自信がないのに勢いだけはある。

 そうだ。席替えのあの日。二限が終わって、神谷先生がホワイトボードに席表を描いて、くじ引きの列が前まで折れ曲がっていた。俺は最後のほうで、手に貼りつくくらいに汗をかいて、引いた番号が窓際二列目の十二。桐ヶ谷ミサの右隣。ざわめきが遅れて届いて、頭の中が白い音で満たされた。荷物を運ぶとき、彼女は真正面を見たまま、声だけこちらに向けて言った。「……よろしく」。小さい音なのに、俺の心臓にはやけに大きかった。

 その日の放課後、黒板消しをしていた俺に彼女は言った。「席、……ここがいい。私、隣が空いてるの苦手で」。その一言の、最後の「で」が、今でも耳の奥で止まっている。空席って、ほんとに寒い。彼女が言ったときの目は、すぐにいつもの冷静な光に戻ったけど、たしかに少しだけ揺れていた。俺は冗談半分、勢い三分、勇気二分で言った。「じゃあ、俺が埋めとく」。言ったあとで顔が熱くなった。彼女は、間を置いてから「……うん。迷惑じゃない」と言った。あれで、決まった。満席という言葉の向きが、俺のほうに向いた。

 ページの端に、もう一つ小さなメモがあった。〈卵焼き=甘い/英語の発音=うまい/空席=寒い/雨=二本の傘〉。走り書きなのに、全部場面が出てくる。昼休みのざわめき、教室の明るい匂い、雨の音。二本の折りたたみ傘、一本はリボン柄、一本は無地。指先が少し触れたときの心臓の音は、紙には残らないのに、読めてしまう。

 ライトに照らされた文字がゆっくりにじんで、俺はノートを閉じた。閉じる音が、やけに大人びて聞こえたのは、明日が近いからだろうか。卒業式の前夜は、誰にとっても初めてなのに、どこかで見たことのある景色みたいに落ち着かない。外は冷えてる。窓ガラスに自分の顔が映って、ちょっと笑って、すぐ消えた。

 スマホが、小さく光った。画面の明かりが指先に重なる。メッセージの送り主は、予想通り。

〈眠れない〉

 短い文字が、部屋の空気を換える。俺は呼吸を一度整えてから、返した。

〈俺も〉

 少し間があって、すぐにもう一通。

〈明日、泣くかも〉

〈泣いてもいいよ〉

〈藤堂くんは?〉

 名前で呼ばれると、心臓の位置が一センチ上にずれる。変わってないのに、変わる。

〈泣かせる側になる〉

 送信ボタンを押して、しばらく天井を見つめる。誇張じゃない。本当のことを言っただけだ。明日はきっと、いろんな人が泣く。笑いながら泣く人もいるし、泣きながら笑う人もいる。俺は、その中にいて、できるかぎりまっすぐに言葉を出したい。彼女の目の高さに、ちゃんと届くように。

 少し間を置いて、彼女から。

〈期待してる〉

 短いのに、長く効く。俺は思わず、ノートの上で合図を二回、小さく叩いた。コン、コン。音は俺にしか聞こえない。けれど、その無音の返事が確かにある気がした。

 窓を細く開ける。夜の空気が薄く入ってきて、頬と首筋に触れる。白い息を一度吐く。息はふわっと広がって、すぐ消えた。雪は降っていない。遠くで車が一台走っていく音と、信号機が切り替わるカチンという音。街全体が小さな音だけで動いている。

 机に戻って、ペンを取る。ペン先が紙に触れる手前で止まった。手紙でも書こうかと思ったけれど、書き始めると、たぶん終わらない。終わらなくて困るのは明日の朝の俺だ。短い言葉で、届く言葉。選び直す。選び直すほど、手が動かなくなる。

 ふと、引き出しの奥から、小さなフォークが出てきた。銀色の、子ども用みたいなやつ。第五話の終わりに、ミサが机に置いていったままのやつだ。返そうと思って返しそびれて、いつの間にか引き出しの住人になっていた。指で柄を触ると、冷たさの奥にうっすらと人の温度が残っている気がする。錯覚だとしても、いい。錯覚で生きていける夜は、たぶん正しい。

 フォークをひとまず机の上に置いて、ノートをもう一度開く。今度は、もっと前。最初のページ。日付の横に、小さな星印。席替えの日。緊張で五本の指に別々の汗をかいていた日。ページの端に、俺はたしかに書いていた。

〈だが、俺の隣はいつも満席だ〉

 この一行が、全部の始まりだったのだと、遅れた理解が追いつく。満席。教室にそういう札がかかるわけじゃない。俺の席に座るのはいつだって俺だけだ。でも、俺の隣にある席は、その言葉のおかげで空席にならなかった。自分で勝手に、そう決めたからだ。だから寒くなかった。寒くないように、手の中で何度も合図を出して、雨の日は傘を半分こして、卵焼きの甘さに笑って、体育祭のハチマキをもう一度結んでもらって。全部、満席のための手順だった。

 満席の由来は、たぶん二つある。一つは、彼女の言った「空席は寒い」。もう一つは、昼休みに教室の前の掲示板に貼られていた文化祭の案内で、赤い太字で書かれた「満席御礼」という字。別に俺たちのクラスじゃなくて、他のクラスの上映会の張り紙だ。それをぼんやり眺めていたときに、ああ、この字を俺の隣に貼れたらいいのに、と意味の分からないことを考えた。貼れないから、書いた。それだけの話だ。

 机のライトを少し暗くする。目をつぶると、黒板の上の花や輪っかが連なって揺れる光景が、まぶたの裏にゆっくり現れては消えた。明日の体育館の白い布、斜めに落ちる光、誰かの嗚咽、笑い声。声が重なるのは、合唱だけじゃない。生きている限り、どこかで誰かの声と重なる。重なった時間が長いほど、その人のことを覚える。俺たちは十分に十分じゃないけど、十分だったと思う。十分に十分じゃないから、続きが必要になる。

 またスマホが震えた。もう遅い時間だ。通知音は鳴らさず、手元だけで小さく光る。

〈“満席”って、どこから出てきた言葉?〉

 びっくりした。いきなり核心を突かれると、準備していた言葉が隠れてしまう。落ち着いて、親指で画面をなぞる。

〈最初の日。桐ヶ谷が“空席は寒い”って言っただろ〉

 送る。続けて。

〈だから、逆を貼った。俺の隣は“満席”。空いてないって、先に決めたほうが、寒くならない〉

 打ち終わって、送る前に一度読み返す。ちょっと気取ってる。でも、嘘はない。送信。しばらくして、既読の丸がつく。待つ間に親指が落ち着かなくて、机の上で二回、音を立ててしまう。音は小さくて、何も動かない。動かないけど、動く。

 彼女から、すぐに返事。

〈そんなの、反則〉

 笑いがこぼれた。もう一通。

〈由来、私からも言っていい?〉

〈聞く〉

〈“満席”は、私にとっても、お守り〉

〈うん〉

〈私、席替えのたび、空いてる隣を見ると、胸が寒くなる〉

〈知ってる〉

〈だから、藤堂くんが“埋めとく”って言ったとき、あー、この人は寒いのを消す人だ、って思った〉

 息を吸う。胸の中で何かがほどけて、軽くなる。画面の文字を何度も読む。読むたび、同じところで少し痛くなる。痛むのに、嬉しい。そういう痛みは大事にしていいやつだ。

〈だから、明日〉

 彼女のメッセージが続く。

〈明日、私が空になりそうでも、こっちから“満席”って言う〉

〈頼もしい〉

〈頼っていい?〉

〈もちろん〉

 短い往復を重ねるたびに、部屋の空気の温度が少し上がっていく。暖房なんてつけてないのに。息が白くないのは、たぶんそういうことだ。

 ふいに、階下から父の咳払いが聞こえた。廊下のきしむ音。家も夜を過ごしている。ふだん気づかない音が、一つずつ顔を出す時間帯だ。俺は一度スマホを伏せて、椅子から立ち上がった。窓のカーテンを少しだけ開けて、夜の町を眺める。向かいの家のベランダに、洗濯ばさみが規則正しく並んでいる。街灯の下、雪は降っていないが、道路沿いの植え込みの上に残っている白が、色温度の低い光を静かに跳ね返していた。

 窓を閉める前に、俺は息を吸って、小さな声で言ってみた。「満席」。声に出すと、少し恥ずかしい。けれど、その恥ずかしささえも、明日のための準備だと思えば、悪くない。

 机に戻り、フォークをティッシュで軽く拭く。明日、返そう。小さなお礼の言葉と一緒に。フォークの柄の裏側に、小さな付箋を一枚、貼った。〈借りました〉とだけ書く。子どもみたいだ。でも、子どもみたいなやりとりを残しておくことが、たぶん大人になるための階段の一段だ。

 引き出しの手前に、文化祭で余った金色の輪っかが一つだけ残っていた。紙の輪。あの日、最後にホチキスで留めたやつ。指で丸みを整え、机の端に置く。これも、明日、渡せるなら渡そう。名札もリボンもいらない。輪っか一つで十分だ。意味の説明は、要らない。俺と彼女の間では、要らない。

 スマホがまた震えた。画面には、短い言葉。

〈おやすみ、ユウト〉

 名前で閉じられると、眠りの扉がちゃんと見える。俺は返した。

〈おやすみ、ミサ〉

 送って、スマホを裏返す。ライトを落として、布団に潜る。冷たいシーツに体が慣れるまで、少しかかる。この時間帯の天井は、真っ黒じゃなくて、目を凝らせばほんの少しだけ灰色が混じっている。世界が寝ている音が、静かに重なっている。

 目を閉じても、すぐには眠れない。眠れないと、無駄にいろんなものが鮮明になる。屋上の錆びた手すり、階段の踊り場の窓ガラスについた指紋、保健室のカーテンの薄い黄ばみ、体育館の床の傷。傷の一本一本に、人の時間が詰まっている。詰まっているから、明日は泣ける。泣いていい。泣かせていい。泣いて笑って、笑って泣いて、ああ、終わるんだなって分かるのだ。

 枕の横で、指を二回、軽く合わせる。コン、コン。返事は来ない。でも、返ってくるはずの返事の気配だけで、十分に眠気が近づく。まぶたの裏に、最初の日の教室が出てくる。ホワイトボードに描かれた席表。十二の数字。荷物を抱えた俺。正面を見たままの彼女。小さな声。「……よろしく」。俺の小さい声。「よ、よろしく」。二つの「よろしく」が、今に繋がってここまで来た。

 “満席”の由来は、ポスターの赤い字でも、ノートの走り書きでもあるけれど、たぶんいちばんの始まりは、彼女の一言だ。「空席って、なんか寒いから」。それに対して俺が出した、子どもみたいな対抗策。「じゃあ、俺が埋めとく」。あの瞬間、俺たちの間に見えない札がぶら下がった。満席。予約不可。空きなし。客席は二つだけ。ずっと二つだけ。立ち見は不可。スタッフは二人。上映時間は未定。延長可。延長希望。

 目を閉じたまま笑った。笑ってから、深く息を吐く。吐いた息は、音にならないで消える。消えるけれど、体のどこかに残る。残った温度が、体の端から端までゆっくり広がる。

 スマホはもう鳴らない。外も静かだ。時計の秒針が、小さく跳ねる。跳ねるたびに、明日が近づく。近づくたびに、怖い。怖いけれど、楽しみ。楽しみって言えるくらいには、練習した。練習の回数を数えたら笑われる。笑われるくらいが、ちょうどいい。

 布団の中で、心の中だけで、言ってみる。明日、彼女に言うつもりの言葉の前半部分。言葉はいつも、言う前がいちばん難しい。言ってしまえば、案外簡単だ。簡単だと思えるくらいに、俺たちはここまでやってきた。

 明日で、“満席”は完成する。完成は、終わりじゃない。看板を裏返して、「準備中」を「営業中」にするだけだ。定休日は、たぶんない。あるとしても、臨時休業。張り紙には、きっとこう書く。

 “また隣ね”。

 目を閉じる。眠りがやってきて、少し手前で躊躇して、ゆっくり肩を叩くみたいに近づく。俺は浅くうなずいて、眠りに席を譲った。今夜だけは、眠りも客だ。座席は二つ。眠りが一つ座って、残りの一つには、明日が座る。二人は静かに、同じ方向を見る。カーテンは閉じているのに、朝の光が遠くで準備運動を始めている気配がした。

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