第二十一話 告白の練習、そして“好き”の本番

 冬休み前の教室は、どこか落ち着かないざわめきに包まれていた。

 黒板には「三者面談日程」と大きく書かれた紙。掲示板には「受験まであと八十七日」と赤いマジック。

 ストーブの熱気が漂う中で、誰もが少しずつ、ここから先のことを考え始めていた。


 窓際の席で、ユウトはペンを止めた。

 目の前の進路希望票に、まだ空欄が残っている。

 志望校、志望理由、将来の夢。書けるはずの言葉が、紙の上で固まっていた。


「……決まんないの?」

 隣の席から、桐ヶ谷ミサがのぞきこんできた。

 制服の袖口から指先だけを出して、ノートを軽くつつく。


「いや、一応……第一志望は、あの県立」

「藤堂くんの家から、通える距離?」

「うん。まあ、歩けなくはない」

「歩いて行くの?」

「……たぶん、走ってく」


 軽口のはずなのに、ミサの返す声がどこか沈んで聞こえた。

 彼女の進路希望票には、別の高校名が書かれていた。

 同じ県内でも、電車を乗り継いで一時間はかかる距離。


「……なんで、違う高校にしたの?」

 放課後、ユウトは思い切って聞いた。

 窓の外では、細かい雪が降り始めている。

 白い粒がガラスを叩き、溶ける音が微かに響いた。


 ミサは少し黙ってから、ゆっくりと答えた。

「……藤堂くんと同じところ、行くのは簡単」

「簡単?」

「うん。だって、勉強の点数も足りてるし、家からも近いし」

 そう言いながら、彼女は窓に寄って、指先で曇りガラスに線を描いた。

 線はすぐに消える。

「でもね、“好き”って言葉を軽くしたくないの」


 ユウトは口を開きかけて、何も言えずに閉じた。

 ストーブの音だけが、小さく鳴っていた。


「一度離れて、それでも隣にいたいって思えたら……そのとき言う。“好き”って」


 そう言って、ミサは席に戻った。

 彼女の声は穏やかで、でも少し震えていた。

 ノートを閉じる音が、やけに大きく聞こえる。


 沈黙。

 雪の音だけが、間を埋めていた。


 ユウトは笑って、軽くうなずいた。

「じゃあ、俺も練習しとく」

「練習?」

「“好きだ”って言う練習」

「……本番は?」

「卒業の日に」


 ミサの目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 驚いたような、でもうれしそうな、そんな表情。

 それからふっと微笑んだ。


「……了解。じゃあ、練習相手、私でいい?」

「他にいない」

「それ、練習にならないじゃん」

「本番の練習は、本番と同じ環境でやるもんだろ」

「理屈っぽい」

「誉め言葉」


 ミサはあきれたように息を吐き、窓の外を見た。

 雪が少し強くなってきて、白い粒が風に流されている。

「……じゃあ、練習開始」

 と、彼女は急に真顔で言った。

「ほら、言って」

「い、いま?」

「うん。時間、計る」


 スマホのストップウォッチを構え、いたずらっぽく目を細める。

 その姿が、教室の蛍光灯の光に照らされて、やけにまぶしく見えた。


「……す、好きだ」

 小さな声。

 すぐにミサが、「はいストップ」と言って画面を押す。

「〇・八秒。早口」

「タイムアタックじゃないんだけど」

「でも悪くない。ちゃんと目、見てたし」

「採点するなよ……」

「だって、練習だから」


 彼女は笑いながら、自分の机の上に手を置いた。

 その手が、ほんの少しだけ震えているのに気づく。

「じゃあ、次は私の番」

「え」

「練習だもん。交代」


 ミサは息を吸い、ほんの少し間を置いた。

 その間が長くて、教室の時計の秒針の音がはっきり聞こえる。


「……すき」


 それだけ言って、顔を伏せた。

 雪がガラスにぶつかって弾ける音が、やけに近い。

 ユウトは言葉を失い、ただ頬が熱くなるのを感じていた。

 それを隠すように、「合格」と呟いた。


「……なにそれ」

「採点返し」

「ずるい」

「お互い様」


 ミサが笑った。

 その笑い方は、今まででいちばん柔らかかった。

 冬の光が、彼女の頬に白く反射している。

 その反射を見つめていると、胸の奥が少し痛いほど熱くなった。


「ねえ」

「ん」

「卒業の日、言うの?」

「……うん」

「じゃあ、私もその日、ちゃんと聞く」


 黒板の端に貼られた「三学期の予定表」には、卒業式まであと七十日と書かれている。

 七十日なんて、遠いようで近い。

 時間はいつも、意地悪に速く過ぎていく。


 放課後。

 校舎の外に出ると、雪が積もり始めていた。

 夕暮れの光の中で、グラウンドが白く染まっている。

 ミサは靴の先で雪を軽く蹴りながら言った。


「……これで冬、二回目だね」

「うん」

「最初の雪、覚えてる?」

「覚えてるよ。屋上の階段。マフラー貸した」

「まだ持ってる」

「洗ってないだろ」

「洗ってない」

「やっぱり」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 その笑い声が、冷たい空気の中でゆっくりと消えていく。


 ミサが少し真剣な顔になって、空を見上げた。

「ねえ、藤堂くん」

「なに」

「“好き”って言葉、便利すぎるよね」

「便利?」

「うん。いろんな形があるのに、全部“好き”でまとめちゃう」

「……でも、それでいいと思うけどな」

「どうして」

「だって、“全部まとめて好き”って言えるほうが強いから」


 ミサは小さく息をのんで、それから笑った。

「……ずるい。そういう言い方」

「誉め言葉」

「はいはい」


 雪が二人の肩に落ちる。

 白い粒が髪に残り、溶けずに光る。

 ミサは指先でそれを払うこともせず、ただ前を見て歩いた。


「ねえ、卒業式の日」

「うん」

「もし、どっちかが言えなかったらどうする?」

「そのときは、また練習」

「永遠に練習かも」

「それも悪くない」

「……ほんと、ずるい」


 校門の前で立ち止まり、二人は空を見上げた。

 空はもう、すっかり夜の色に近づいていた。

 街灯の下、雪が細く降り続ける。


「明日も降るかな」

「さあ。でも、降ったらまた“練習”しよ」

「なにを」

「“好き”を」


 ミサは少しうつむいて、それから笑った。

「……じゃあ、毎日練習だね」

「うん」

「疲れる」

「じゃあ、俺が代わりに言う」

「代行サービス?」

「愛情業務委託」

「なにそれ」

「新設企業」

「すぐ倒産する」

「黒字予定」

「もう、ばか」


 笑いながら、二人は歩き出した。

 足跡が、雪の上に並んでいく。

 ふたつの線が、ひとつに寄って、また離れて、また重なる。

 その模様が、振り返ると少しハートに見えた。

 ミサがそれに気づいて、頬を染める。

「……バレたら、恥ずかしい」

「もうバレてる」

「誰に」

「雪に」

「意味わかんない」

「詩的表現」

「不採用」

「採用希望」


 やがて分かれ道。

 ミサの家は坂を上った先。

 ユウトは手を振る代わりに、そっと言った。

「また明日」

「うん。……練習、忘れないでね」

「忘れたら?」

「減点」

「厳しい」

「愛のムチ」

「受けとく」


 ミサが背を向けて歩き出す。

 雪が彼女の肩に落ちて、髪の黒に溶けていく。

 その背中を見送りながら、ユウトは静かに呟いた。


「本番、楽しみにしとけよ」


 風が吹く。

 校舎の屋上から、誰かの笑い声が遠くに響いた。

 世界はまだ冬の途中。

 けれど、その白さの中に、確かに春の匂いが混じりはじめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る