第十九話 手紙の代わりに、「未来の約束」

 週明けの朝の空気は、少しだけ固い。金曜の雨が嘘みたいに上がって、校門の前の桜は葉っぱを磨いたばかりのように光っていた。昇降口のマットはまだ湿っていて、靴の底がすべらないように気をつける。

 教室に入ると、黒板に「今週の目標 返事はハキハキ」と神谷先生。チョークの粉がまだ空気に漂っている。席替え後の新しい位置は、一番前の真ん中に俺、窓際の後ろから二番目にミサ。目は届くけれど、手は届かない距離。届かないって分かってから、届いていたころよりも距離を測るのが上手になった気がする。たぶん気のせい。

「……おはよう」

 背後から、小さめの声。振り向く。ミサだ。いつも通りの制服、いつも通りの髪、いつも通りの目。それでも、声の高さが半音だけ低い気がした。

「お、おう。おはよう」

 返事はハキハキのつもりが、半拍遅れて裏返る。机にカバンを置き、教科書を出し、ペンケースからシャープペンを抜く。いつもの動作を、少しゆっくりやる。ぎこちなさは、乱暴に隠すよりも、見せたほうが楽だ。

 タカヒロが後ろから身を乗り出してきて、「その“間”が青春」と意味不明の判定を下し、ハルカが「はいこれ朝刊」とクラスの噂まとめを配ってくるふりをする。俺は「ありがとうございます」とだけ返した。冗談の接着剤は、今日は薄く塗る。

 一限目の国語。教科書を開いた瞬間、紙の匂いがやけに新しく感じる。ページの隅に、前の席のやつが書いたであろう小さな落書きがある。猫。上手くはない。愛嬌はある。

 先生が朗読を指名する。教室の空気が同じ方向を向く。俺の声は思ったよりまっすぐ出て、息継ぎの位置を一つ間違えた。読み終わると、後ろから小さく二回、机を指で叩く音。振り向かなくても分かる。ミサだ。彼女の合図は、いつも指で二回。暗証番号みたいだって茶化したら、「じゃあ、変える」と言われたことがあった。結局、変わらなかった。変えるより、残すほうが大事な合図もある。

 休み時間、ハルカがこそこそ近づいてきて、声をひそめる。

「昨日の夜、ミサちゃん、珍しく“電話より文字がいい”って言ってたよ」

「ふむ」

「“言葉が落ちないほうがいい日”なんだって」

「落ちない?」

「声にすると落ちること、あるでしょ」

 ある。保健室の白いカーテンを思い出す。言う前にこぼれてしまう言葉も、言ったあとに落ちる言葉も、どっちもある。

 昼休み、弁当のふたを開けると、母の卵焼きがいつもより角ばっていた。ハルカが「角度、今日は九十度」と適当なことを言い、タカヒロが「唐揚げ一個と交換条約」と手を伸ばす。奥の窓際、ミサは女子の輪に混ざって笑っている。笑うときの肩の動きだけで、誰かの話をちゃんと聞いていることが分かる。目が一瞬だけこちらに流れてきて、すぐ戻る。戻る速度が速すぎないことに、少しほっとする。

 午後。プリント配りで教室を一周した帰り道、俺はミサの列の近くを通る。肩越しに見えた彼女のノートの罫線は、いつも通りきっちりで、左の余白に小さく書かれた単語に緑の線が引かれていた。「継続」。文字の角は丸い。

 最後のチャイム。放課後の空気は、朝より温度が低い。廊下で神谷先生が「明日の小テスト忘れるな」と叫び、廊下の端で演劇部が発声している。「あえいうえおあお」。体育館からはボールの跳ねる音。

 帰り支度をしながら、ミサが俺を見て言った。

「……図書室、行こ」

 理由は言わない。言わずに済むことが増えていく。うれしいのと、少し怖いのが半分ずつ。

 二人で図書室へ。夕方の光が窓のブラインドの隙間から細く入って、本棚の背表紙が淡く光っている。紙の匂いに埃の匂いが混ざって、静けさの温度が一度だけ上がった。カウンターの司書さんは、読みかけの本に栞を挟むところだった。「静かにね」と口の形だけで言い、目で微笑む。

 奥の机に座る。向かい合う。机の真ん中、木の目が年輪のように渦を描く。ミサは鞄の前ポケットから、白い封筒を出した。ちょっとした招待状くらいのサイズ。表に、細く薄い文字で一行。

 ──未来予想図。

 俺は、ごくりと息を飲んだ。冗談にしては、まっすぐすぎる。遊びにしては、真剣すぎる。ミサは封筒を指先で軽く押し、机の真ん中から、俺の側へ滑らせた。

「……これ、読んで」

 声はいつもより小さく、でもまっすぐ。封筒の口は糊付けされていなくて、そっと開くと、二つ折りの小さなメモが入っていた。白地に鉛筆の文字。余白は広め。行間は深め。震えてはいないけれど、少しだけためらいの跡がある。

〈高校卒業しても、隣に座っててくれますか?〉

 読んだ瞬間、顔が熱くなった。額の内側に手を当てたいけれど、ここは図書室だ。空気に手を当てるだけで我慢する。

「これ、なんの冗談?」

 声が裏返らないように、前置きで笑ってごまかす。ミサは、笑わない。首を小さく横に振る。

「冗談じゃない」

「じゃ、じゃあ」

「本気」

 即答だった。即答がこんなに刺さるとは思わなかった。俺はメモをもう一度見て、字の角を目でなぞった。丸すぎない。尖りすぎない。ちょうどいい角度で立っている。

 喉の奥の言葉が、ひとつずつ前へ出てくる。どれを掴めばいいか迷って、その間に手が先に動いた。ノートを取り出し、最後のページをびりっと切り取る。紙の端がぎざぎざになる。ペン先を落ち着かせ、書く。

〈将来、となりの席がなくても、隣にいさせて〉

 “将来”って、具体的にどこなのか自分でも分からない。それでも、今より先であることは確かだ。机と椅子が横一列に並んでいない場所でも、教科書が同じページを開いていない時間でも、隣であるって言い切れるように。

 紙を渡す。ミサは受け取って、目で読む。読み終えても、すぐに顔を上げない。紙の端を指でなぞって、指先に紙の粉を付けて、それから顔を上げる。目がきれいに笑った。

「……満席、延長ね」

 笑いながら、言った。図書室の空気が、それだけで少し温かくなる。机の木目の渦が、さっきよりも丸く見えた。

「延長って、何年単位?」

「単位は、いらない」

「じゃあ、無期限」

「うん。……破るときは、ちゃんと言う」

「破る予定、あるの」

「ない」

「じゃあ、ずっと延長」

「うん」

 司書さんが、遠くの棚で本を一冊戻す音がした。小さな音。さっきよりも身近に聞こえる。

 ミサは封筒に俺の紙をそっと重ね、封筒の口を折った。糊は使わない。何度でも開けて、何度でも読むために。封筒の角が少しだけ曲がっているのは、鞄の中で他のものとぶつかったからだろう。曲がっているほうが、安心する。完璧すぎない約束は、現実に馴染む。

「……これ、家で読むと泣くかも」

「ここで泣いてもいいけど」

「図書室、うるさいって言われる」

「鼻をすする音が小さければ大丈夫」

「ハードル高い」

 小声のやりとりが、机の上を滑っていく。笑いながら、涙のラインを避けるみたいに慎重に。

 しばらく黙る。黙るのが平気な相手は、世界でそんなに多くない。窓の外の空が、さっきよりオレンジが濃くなって、ブラインドの隙間から線のように伸びる。線が机の上に落ちて、封筒の白に触れる。白は、光を跳ね返す。

「……さ」

 ミサが封筒を指でとん、と叩く。

「“未来予想図”の、追加分」

「追加?」

「うん。少しだけ」

「どうぞ」

「卒業して、別の場所でも、“隣”って言える言葉、見つけよう」

 “隣”は、机と椅子の名前じゃない。二人で決めた合図だ。

「例えば?」

「同じ鍋、つつくとか」

「冬限定」

「一年中、鍋ってある」

「夏の鍋は汗が死ぬ」

「じゃあ、夏はかき氷」

「頭痛い」

「我慢」

「愛が薄い」

「濃い」

「はい」

 ばかみたいなやりとりを、ばかみたいにまじめな顔でやる。その時間が愛おしい。

 ミサは封筒を鞄にしまい、ファスナーを丁寧に閉めた。閉める音が、静かな室内にちゃんと響く。俺は机の上のシャーペンを回し、芯が出すぎていたことに気づいて戻した。出すぎると折れる。ちょうどよく出すのが難しい。約束も、多分それに少し似ている。

「ねえ」

 席を立ちかけたミサが、もう一度座り直す。

「今日の“満席延長”、広める?」

「誰に」

「たぶん、すぐ広まる」

「広報が強いからな」

「じゃあ、“秘密”。でも、顔に出てる」

「顔、出ちゃうよな」

「出る」

「桐ヶ谷も出てる」

「……出てない」

「出てる。目がいつもより丸い」

「……ばか」

 やさしい二文字。今日の「ばか」は、紙の上に置いておけるくらい軽かった。

 図書室を出ると、廊下の光が少しだけ暗くなっていた。夕方の冷たい空気が肩に触れる。階段の踊り場で、吹奏楽部の音が重なり合っている。音の重なりと人の重なりは、似ている。ずれる日もあれば、きれいに合う日もある。今日は、合うほうだ。

 昇降口で靴に履き替える。玄関のガラスに空が映って、俺たちの背丈が少しだけ伸びて見える。

 外に出ると、風が弱くなっていた。校門までの短い道。いつもならタカヒロとハルカがどこからともなく現れるのに、今日は誰も来ない。空気がふたり分、ほどよく余っている。

「ねえ」

「なに」

「今日のメモ、写真撮っておけばよかった」

「脳内保存で」

「容量に不安」

「なら、俺が持つ」

「分ける」

「クラウド」

「難しい言葉、禁止」

「ごめん」

「……ありがとう」

 校門のところで足が止まる。道はここで分かれる。右と左。いつもは右へ一緒に行って途中で分かれるけれど、今日は時間が合わない。ミサは塾の時間が近い。時計を見る代わりに、空の色で時刻を測る。

「……行く」

「うん」

「約束、読む」

「うん」

「泣くかも」

「鼻かめ」

「静かに」

「練習して」

「練習、やめるって言った」

「そうだった」

 ミサは一歩下がって、鞄の前ポケットに手を入れ、白い封筒の角に触れて確認する。角は、さっきより安心した顔をしていた。

「また明日」

「また明日」

「……隣、あけておいて」

「空けない。満席」

「そうだった」

 笑う。笑って、踵を返す。走らない。歩く。歩きながら、一度だけ振り返る。手は振らない。髪が動いて、代わりに手みたいに見える。角を曲がったところでいなくなる。残るのは、白い封筒の残像。

 俺はポケットの中で、親指で手の甲を二回押した。返事はこない。でも、さっきの合図が残っているから、足りる。

 家に帰ると、玄関の冷気が少し強くて、秋が一歩近づいたのが分かった。自室に入って、机に座る。“出来事メモ”のページを開く。ペンを持つと、今日の文字は素直に出てきた。

 朝、ぎこちない挨拶。合図二回=いつも通り。

 席の距離は広いけど、目は届く。

 放課後、図書室。封筒→「未来予想図」。

 〈卒業しても隣に座っててくれますか?〉の一行。

 返事→〈席がなくても、隣にいさせて〉。

 満席、延長宣言。無期限。破る予定なし。

 封筒は糊なし=何度でも開けるため。角が少し曲がってて安心。

 帰り道=合図は二回。言葉は必要最低限。顔、丸い。ばか、軽い。

 書いてから一度読み返し、もう一行だけ足しておく。

 だが、俺の隣は今日も満席だ。

 “満席”の中身は、机と椅子の数じゃなくて、言葉と合図の数で決まる。今日の満席には、白い封筒と、鉛筆の角と、図書室の光と、笑い声をこらえる息の音が入っている。未来予想図は、きれいに描けなくていい。線が少し曲がっていたほうが、現実の道と重なりやすい。直線よりも、寄り道が似合う地図をふたりで作っていけばいい。

 ベッドに背中を預け、目を閉じる。封筒の白がまぶたの裏に残って、やがて消える。消える前に、もう一回だけ思い出す。

 満席、延長。

 その四文字は、今日いちばん短くて、いちばん長い。明日も明後日も、その先も、言うたびに厚みを増す。厚みが重くなったら、半分持つ。持ちきれないときは、机に置いて、またつなぐ。

 窓の外で、遠くの電車が小さく鳴った。明日は合唱の練習。声は届く。目も届く。手は、たまに届く。届かないときのために、約束がある。だから大丈夫。そう思って、照明を落とした。

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