第七話 恋バレ警報

 月曜の朝。

 昇降口を抜けた時点で、空気のざわつきがいつもと違うのがわかった。階段を上がるたびに、低い笑い声と小さな悲鳴が混ざったみたいな音が近づいてきて、廊下は早口の足音でいっぱいだ。教室の前まで来ると、扉のガラス越しにスマホを突き合わせている何人もの背中が見えた。


「ねえ見た? 昨日のやつ」「本物? 加工じゃないよね」


 嫌な予感は、だいたい当たる。

 扉を開けた瞬間、視線が波みたいにこちらへ寄せてくる。男子の島からは足踏みの音が、女子の島からは抑えた笑い声。タカヒロが椅子の背に片足をかけ、やけに堂々とした司会者みたいな顔で手を振った。


「おはよう、隣氏。あいさつより先に、弁明をどうぞ」


「なにを」


「これを見てから言おうか」


 差し出されたスマホの画面には、夕焼け色の教室。窓から入った光が机の列を斜めに染めて、その真ん中に、ピンクと水色のエプロンをつけた二人が並んでいる。俺と、桐ヶ谷ミサ。俺は雑巾を手に、桐ヶ谷は布巾をしぼっていて、どちらもほんの少し笑っていた。いや、問題はそこだ。彼女の口元にある、あの小さな笑いじわ。普段の教科書みたいにきっちりした顔とは違う、ゆるんだ表情。


「夕焼けの魔法、発動してるね」「これ、尊いってやつ?」


 男子が画面を覗き込み、女子が後ろからひょいと顔を出す。ハルカが息を飲むように言った。


「え、ミサちゃんが笑ってる」


 名前を呼ばれた本人は、ちょうど教室に入ってきたところだった。扉を閉め、一拍おいて席へ向かう。その横顔はいつも通り静かで、背筋もいつも通りまっすぐ。自分の机に鞄を下ろし、椅子に腰をかけてから、初めて全体を見回した。


「桐ヶ谷さん、例の写真……」

 ハルカがそっと近づくと、ミサは短く答えた。


「別に。ただの準備」


 即答。

 淡々としているけど、ほんの少しだけ声が揺れた。俺は自分でも驚くくらい小さい声で言う。


「気にすんなって」


「気にしてない」


 その言い方は、気にしてるときの言い方だ。わかっているけど、言葉は自分のために言うこともある。神谷先生が入ってくると、教室の音は一段、落ち着いた。朝のホームルームが始まり、連絡事項が読み上げられ、提出物の確認が続く。それらが耳の上を流れていく間中、俺の心臓はずっと、机の裏でドラムの練習をしていた。


 昼休み。

 チャイムの音が消えると同時に、タカヒロが俺の机を叩いて立ち上がった。


「よし、裁判の時間です。被告、前へ」


「なにが裁判だよ」


「証拠品はこれだ。桐ヶ谷が笑っている。しかも隣氏の方向へ。これはもう確定案件。つきあってる?」


「違う」


「じゃあこの笑顔を説明してみろ」


 再び突きつけられるスマホ。画面の中で、あの時の空気がもう一度、胸の奥をくすぐる。俺は喉の奥で咳払いした。


「たまたまだって。たまたま笑った瞬間を撮られただけ」


「そう。たまたま」


 ミサの声が、俺の言葉に重なった。

 クラスの何人かが顔を見合わせる。何人かは、口元を押さえて笑う。視線があちこちから突き刺さる。俺は弁当のふたを開け、箸を持つ手を意識的にゆっくり動かした。何気ない動作のふりをしながら、心臓の速さだけは変えられない。卵焼きの味が薄い。いや、薄いのは味じゃなくて、今の俺の舌だ。


 放課後。

 授業が終わっても、教室の空気は完全には戻らなかった。掃除が終わると、部活へ向かう足音が廊下を満たし、俺たちはその波に紛れて教室を出た。階段を降りる途中、ミサはずっと黙っていた。沈黙は、いつもならやさしい。今日は、少し痛い。


「あのさ、今日、ほんとにごめん。俺、悪気なくて」


「……謝らないで」


 立ち止まったミサの声は、静かでまっすぐだった。

 俺も足を止める。


「悪いの、私だから」


「なんで」


 彼女は制服の袖を握り、視線を落とした。廊下の窓から差す光が、まつ毛の影を長くする。


「……笑ったの。楽しかったから」


「え?」


「文化祭の準備。あなたといるの、楽しかった。だから笑った。……でも、みんなに見られたら、恥ずかしくて」


 顔を上げたとき、目が少し潤んでいた。

 手を伸ばしかけて、途中で止める。触れたら、なにか大事なものまで崩してしまいそうで。


「……俺は、嬉しかったよ」


 言葉にすると、自分の声が思ったより穏やかだった。

「笑ってくれたの、たぶん初めてだから」


 ミサは目をそらして、頬を赤くした。

「もう……言わないで」


 泣きそうなのに、少し笑っている声だった。

 俺たちはそれ以上何も言わず、昇降口まで歩いた。外は気持ちよく晴れていて、昨日の喧騒が嘘みたいに風が軽い。靴箱の前で別れて、家に向かう道の途中、俺は何度も後ろを振り返ってしまった。振り返るたび、さっきの目元の光が、胸の方へ一歩ずつ近づいてくる。


 翌日。

 廊下の掲示板に「文化祭写真コーナー」という手書きのタイトルが貼られていた。色紙の枠に収められた写真が、何枚も整列している。楽しそうな模擬店、ステージの楽器、笑っているクラスメイトたち。真ん中に、例の一枚。


「これ、いい写真だ」「もうカップルだろ」


 何人もの声が重なる。俺はいたたまれず背を向けかけて、足を止めた。

 ミサが、前に出たからだ。

 掲示板の前にまっすぐ立ち、写真をじっと見て、それから振り返らずに言った。


「これ、消さなくていい」


 ざわつきが、一瞬でしずまる。

 ミサは続けた。


「……頑張った記録だから。“誰と一緒だったか”より、“どう作ったか”のほうが大事」


 淡々とした言い方なのに、不思議と強かった。

 クラスの空気が少しだけ変わる。からかいに乗るのが今は似合わないと、誰もが直感したみたいに、余計な言葉が引っ込んだ。俺は息を飲んで、その横顔を見つめた。やっぱり強い。強いけど、きっと今も恥ずかしい。強いのは、その上で前を向くことなんだろう。


 放課後、教室。

 カーテンがゆっくり揺れて、夕陽が机の上を斜めに走る。ほとんどの生徒が帰って、広いはずの教室が急に静まり返る時間。黒板のチョーク粉が薄く光り、床の光が少しだけ赤い。


「なあ、あの写真、ほんとに消さなくていいの?」


 俺が言うと、ミサは椅子の背に両手をかけたまま、少しだけこちらを見る。


「もう、いい。……だって、見られてもどうせ言われる」


「それ、強がり?」


「違う。……自慢」


「え?」


「私の隣、藤堂くんだったから」


 顔を伏せ、わずかに笑う。

 心臓が、余計な音をたした。机が少し震えた気がして、慌てて手で押さえる。


「……俺も、自慢かも」


「なにが」


「笑ってる桐ヶ谷、俺だけ見れたから」


 ミサの目が大きくなり、数秒後、口元がゆるんだ。

 椅子の背から手を離し、指先で鞄の持ち手を撫でる。


「……ほんと、ばか」


「うん。でも、笑った顔、好きだから」


 長い呼吸の間があって、ミサの視線が机の角から窓の外へ泳ぎ、それから戻ってきた。かすかな声。


「……じゃあ、これでおあいこ」


「え?」


「私も、あなたの顔……好き」


 静けさが、いちど深く沈んで、それから戻ってくる。時計の秒針の音だけが、きれいに響いた。俺はなにか言おうとして、言葉が喉で転んだ。ミサはその隙に鞄を持ち上げ、椅子からすっと立ち上がる。


「また明日」


 それだけ残して、走るでもなく、早足でもなく、教室を出た。

 残された俺は、机に両手をついて、真っ赤な顔のまま頭を伏せる。机の木目が目の前で揺れた。夢かどうか確かめる方法があればよかったけれど、今は机の冷たさしか頼るものがない。冷たさは確かだ。だから、たぶん、現実だ。


 家に帰って、夕飯を食べ、風呂に入って、宿題を開いては閉じた。集中できない。文字が全部、同じ顔に見える。ベッドに倒れ込んだとき、スマホが短く震えた。画面に、見慣れた名前。


〈明日、また隣〉


 短い。短いのに、今日という日にちょうど合う。俺は親指で、いつもの返事を書きかけて、やめた。いつものじゃなくて、今の気持ちに合うものを探す。探して、見つからなくて、結局、短く打った。


〈うん〉


 送信すると、胸の奥がゆっくり軽くなる。天井の白い模様がぼんやりして、目を閉じる直前、ひとりごとのみたいに言ってみる。


「だが、俺の隣はもう満席なんだよ」


 満席という言葉の中身は、少しずつ変わってきた。最初は、ただ席が埋まっていることの言い換えだった。今は、空いているところが空いていないと感じられること。見ていないときにも、誰かの気配がちゃんと残っていること。今日、廊下で止まったあの一歩と、掲示板の前で立った横顔と、教室でこぼれたひと言が、ぜんぶ重なって、席を厚くしていく。

 明日も、きっと満席だ。

 眠りの入口で、文化祭の夕焼けがもう一度、まぶたの裏に広がった。笑っている彼女の横顔が、隣の席と同じ距離で、ちゃんとそこにいる。

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