だが、俺の隣はいつも満席だ。

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 席替えは恋のくじ引き

四月の終わり。

春がまだ教室の隅に残っている。窓の外には淡い桜の花びらが二、三枚、風に取り残されていた。


「よーし、席替えするぞー」


担任の神谷先生がホワイトボードに簡単な席表を描いた瞬間、教室の空気が一気にざわついた。

笑い声、ため息、祈り、作戦会議。まるで文化祭前日のようなテンションだ。


俺――藤堂ユウトは、その真ん中でぼんやりノートの角を指で折っていた。

どうせ最後列の端だろ。人生だって席順だって、いつもそういう場所が落ち着く。

前の席にいるやつらは目立って、真ん中のやつらはうるさい。

俺は風景の一部。空気として呼吸する係だ。


でも、ひとりだけ例外がいた。

桐ヶ谷ミサ。学年一の美少女。

真っ白なシャツの袖口からのぞく手首がやたらと華奢で、笑うと静電気が走ったみたいに空気が変わる。

誰が隣になるのか、それだけで男子全員の未来が変わる。そんな存在だ。


神谷先生が机の上に番号くじの箱を置いた。「一人ずつ前に出て引けー。はい、最初、出席番号順な」


一番手のやつが緊張の面持ちで箱に手を突っ込み、次々と番号を引いていく。

運命のくじ引き大会。

中盤を過ぎる頃には「ミサの隣がまだ空いてる」という事実だけで、教室全体が静まり返っていた。


俺の順番が来たのはほぼ最後。

手のひらが汗ばんで、紙くじが妙に重く感じる。

引き当てた番号は──「十二」。


掲示された席表を見た瞬間、息が止まった。

窓際、二列目。桐ヶ谷ミサの、右隣。


ざわ……。

「え、誰?」「藤堂じゃね?」「マジかよ」

ざわめきが一拍遅れて押し寄せる。

俺は夢オチを疑いながら、荷物を抱えてその席へ向かった。


席に着くと、ミサは真正面を見たまま、少しだけ顔を傾けて言った。

「……よろしく」

声は小さいのに、心臓にまで響く。


「よ、よろしく……」と噛みながら返す俺。

神谷先生が「私語はほどほどに」と笑って流し、授業が始まる。

国語の教科書を開いた視界の端で、ミサの横顔が静かに揺れた。

まつ毛の影、整った指先、ノートの罫線。

息をするだけで世界が近い。


休み時間。

ハルカ――幼なじみの女子が、俺の机に腰をかけてニヤついてきた。


「ねえねえ、どういう気持ち?」

「どういうって、別に……」

「別に、って言うやつが一番意識してるんだよ」

「してねえよ!」


そこへ親友のタカヒロが唐揚げをくわえながら乱入する。

「お前、今日から“空気”卒業だな。よっ、リア充見習い!」

「やめろ!その称号いらねぇ!」


ふざけあう声の奥で、ミサがふと視線を落とした。

ほんの一瞬だけ。

(“だけ”って、なんだろう)

俺が否定した「席が近いだけ」の“だけ”に、少しの棘が残った気がした。


三限目。プリントが配られる。

ミサは無言のまま二人分を受け取り、きっちりと俺の机に置いた。

角がそろっている。几帳面だ。

「ありがと」

「……うん」


それだけの会話なのに、空気が柔らかくなる。

その「……」の間が、なんかやたら可愛い。


昼休み。

タカヒロが弁当を広げて「交換しよーぜ!」と唐揚げを突き出す。

ハルカも負けじと「ユウトには私の卵焼きね!」と差し出す。

その瞬間、ミサが静かに二段弁当の蓋を開けた。

黄色い卵焼きが整然と並んでいる。

一本のつまようじで一切れを刺し、俺に差し出した。


「……味、見て。」


静寂。

空気が一瞬で真空になったみたいだった。

ハルカが「え、え、え?」と口をぱくぱくさせ、タカヒロが無言で親指を立てる。


(これは、受け取っていいのか?)

公衆の面前で“あーん”は、男子高生にとってほぼ告白と同義だ。

でも、断ったら感じ悪いし……。


覚悟を決めて口を開く。

ふわり。

甘い。だしの香り。

舌の上でほどける優しい味。


「……おいしい」

素直に言葉が出た。


ミサの耳たぶが、ほんのり赤くなった。

「よかった。」

たった一言。それだけで、心臓がずっと鳴ってた。


午後。英語の時間。

先生が「隣同士で発音チェック」と言うと、クラス全体が悲鳴と歓声の渦。

隣=恋の導火線。誰もが知っている。


ミサは教科書をトン、と指で叩き、「この単語、伸ばすんじゃなくて弾く。……ね?」

俺が真似ると、「そう。上手」。

目尻が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


(褒められた……!)

内心でガッツポーズ。


そのとき、前の席の男子がひそひそと「おい、距離近くね?」「早くもカップルかよ」。

笑い混じりの煽り。

俺は反射的に「違うから」と声を上げてしまった。


ミサのまつ毛が、かすかに震えた。

「……そう。違うんだ。」

その言い方が、冷たく聞こえて。

俺は、すぐに後悔した。


(バカか、俺)


放課後。

神谷先生に頼まれて黒板消しをしていると、背後から声がした。


「……ついてる。」


ミサがハンカチを取り出し、俺の袖のチョーク粉をそっと拭う。

「動かないで。」

距離が近い。

石鹸の匂いがかすかに漂う。


俺の心拍数はすでに英単語テストを軽く超えていた。


拭き終えたミサは、窓の外のグラウンドを見ながら呟く。

「席、……ここがいい。」

「え?」

「私、隣が空いてるの苦手で。空席って、なんか寒いから。」


その言葉が、やけに胸に残った。

彼女の“満席”は、物理じゃなくて、心の話なんだろう。


「じゃあ、俺が埋めとく。迷惑じゃなければ。」

冗談めかして言うと、ミサは一瞬だけ目を丸くして、

「……うん。迷惑じゃない。」

その返事は、今日いちばん長かった。


昇降口を出た瞬間、雨。

校庭が白くにじむ。

傘を忘れた俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。


そこへミサが現れ、鞄から折り畳み傘を二本取り出す。

一本はリボン柄、もう一本は無地のネイビー。

「どっちがいい?」

「え、あ、じゃあ……ネイビーで」

「……似合ってる。」


並んで歩く。

雨音が、妙に優しいリズムを刻んでいた。


校門の前で、ミサがふと立ち止まり、振り返る。

「明日も、隣。空いてないから。」

「うん。」


その瞬間、胸の中に“席”ができた。

世界のどこよりも、暖かい場所。


夜。

自室。

机の上で、ノートを開く。

“今日の出来事メモ”と書いて、箇条書きで埋めていく。


〈席替え→隣=桐ヶ谷ミサ/卵焼き→甘い/発音→褒められた/空席苦手→本音?/雨=二本の傘〉


そして最後の行に、思わずペンが止まる。


〈……だが、俺の隣はもう“満席”だ〉


スマホが震える。

タカヒロから「お前、進捗どう?」

ハルカから「写真送れ!」

返信は、また明日でいい。


袖口には、彼女が拭いてくれたチョークの跡が、まだほんのりと残っていた。

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