帝都怪奇録〜鏡に抱かれた男〜

火之元 ノヒト

鏡に抱かれた男

第一話 鏡獄の螺鈿

 ​昭和の、恐らくは五年か六年であったと思う。帝都の大学で法律を学ぶ傍ら、私は退屈を持て余していた。講義も、カフェの女給も、流行りの活動写真も、私の渇きを癒すには至らない。


 ​私が真に求めるもの――それは、論理の皮を被った「狂気」であった。人の心の奥底に潜む、おぞましくも甘美な混沌。それを嗅ぎつけるためならば、私は帝都のどんな暗渠にでも鼻を突っ込む用意があった。

 ​故に、私が浅草六区の雑踏の果て、埃を被った「螺鈿迷宮館」の常連となったのは、必然であった。


 ​その夜は、生ぬるい雨がアスファルトを濡らしていた。見世物小屋のけばけばしい電飾が、雨粒に滲んで不気味な万華鏡のようにきらめく。その光も届かぬ裏通りに、「螺鈿迷宮館」はあった。​元は発狂した工芸家の屋敷だという。入場料を払うと、番台の男が蝋燭のように白い顔で私を一瞥した。


 一歩足を踏み入れれば、そこはもう白昼の論理が通用しない世界だ。​かび臭さと、古い漆の甘い匂いが混じり合う。壁も、天井も、床も、黒漆喰と、角度を違えて嵌め込まれた鏡、そして主役である螺鈿細工で埋め尽くされている。

 青、緑、紫――貝殻の内側が放つ妖しい光が、無数の鏡に反射して、どこまでも続く回廊を幻出させる。

 ​自分がいま、右を向いているのか、左に進んでいるのか。目の前の通路は実像か、鏡像か。この、眩暈のするような倒錯した空間こそが、私の慰めであった。


 ​私はいつものように、最も奥にある「万華鏡の間」を目指した。この館の主である好事家・阿久津が、工芸家の狂気を最も色濃く受け継いだ「傑作」と称する部屋だ。


 ​しかし、その日は様子が違った。


 「万華鏡の間」へ続く最後の角を曲がったところで、私は異様な匂いに足を止めた。いつもの漆の甘い香りに混じって、生々しい鉄錆の匂い。そして、声が聞こえた。


「あ……ああ……」


 番台の男だった。彼は入口の薄暗い小部屋に座っているはずだった。その彼が、部屋の入口に膝をつき、腰を抜かしたように震えている。


​「どうした」


 声をかけた私に、彼は焦点の合わない目で振り返った。


「主人が、阿久津様が……」


 ​事件だ。

 全身の血が、歓喜で沸騰するのを覚えた。私は震える番台の肩を押し退け、禁断の部屋――「万華鏡の間」を覗き込んだ。


​「――――ッ」


 ​息を呑んだ。

 そこは、八角形に組まれた巨大な鏡の部屋だった。そして、その中央。真正面の一番大きな鏡に、それはあった。​


 館の主、阿久津が、死んでいた。

 ​だが、その死に様は、私の貧困な想像力を遥かに超えていた。彼は、鏡に「張り付いて」いたのだ。まるで、鏡の中のもう一人の自分――ドッペルゲンガーと、真正面から熱い抱擁を交わしたまま、絶命したかのように。


 ​両目はカッと見開かれ、唇は歪んだ笑みの形に引きつっている。それは恐怖ではなかった。断じて。あれは、この世のものとは思えぬ「何か」に魅入られ、身を捧げた者の、恍惚の表情であった。


 ​そして、彼の背中。

 心臓の真裏から、一本の杭が突き立っていた。それは鉄でも木でもない。この館の柱や壁を飾っているのと同じ、あの妖しく七色に光る――巨大な螺鈿の杭であった。​杭は阿久津の体を貫き、その先端は、彼が抱きつく鏡の表面に、コツン、と触れていた。


 ​私はおぞましさよりも先に、奇妙な論理のパズルに頭を占められた。

 密室だ。

 この部屋への入口は、番台のいた通路一つ。

 犯人はどこから入り、どうやって彼を鏡に突き刺した?

 杭を刺されたのは背中から。だというのに、彼の正面の鏡にも、背後を映す八方の鏡にも、犯人の姿も、血痕一つ、足跡一つ残っていない。​まるで、阿久津が鏡の中の「虚像」によって、背後から抱きしめられ、刺し貫かれたとでもいうように。


​「ひぃ……!」


 番台が短い悲鳴を上げて逃げ出した。すぐに、無粋な靴音と怒声が近づいてくる。警官だろう。


 ​私は、この世ならぬ美しさで完成された「作品」から目を離せなかった。

 あの恍惚の顔。阿久津は死ぬ直前、鏡の中に、一体何を見たというのか。


 ​私の猟奇事件簿スクラップブックの、記念すべき新しいページが、今、開かれたのだ。

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