竜と一緒に旅をする。
病
~【水光の都ルメリア】~
第1話
耳元を、ものすごい風が通り抜けていく。
いまだに見慣れない自分の赤髪が風に靡き、まるで泳ぐように舞う。それをどうにか撫でつけながら、目の前に広がる非現実的な光景へと遠い眼差しを向けるのは、ついこの間――異世界転移という摩訶不思議な体験をした女、不知火愛である。
ここは遥か上空。どれほど晴れた空であっても、地上からは決して見つけられないであろう高さに、一人と一頭はいた。
雲間を縫うように滑らかに進む竜の背中は意外なほど安定しており、思いのほか居心地がいい。
ある程度の防風結界が張られているのか、愛の身体が上空の気流にさらわれることもなく、せいぜい髪が乱れる程度で済んでいる。
――ある日、合コンの帰り道に、頭のおかしい女に突き飛ばされて道路に投げ出され、大型車に盛大に轢かれてしまった愛は、気づけば異世界へと招かれていた。
そこで待っていたのは、見たこともない巨大な生き物――泣きついて縋ってくる黒竜だった。
この異世界ヴェナルシスの“管理者”をしているというその黒竜、オズウェルは、どうやら愛の“前世の夫”らしい。
しかも、愛の置かれている状況を丁寧に説明してくれたはいいものの、肝心の愛にはその前世の記憶とやらがまるでなく、不知火愛として生きてきた記憶しかなかった。
順調だった人生の中で、唯一うまくいかなかったのが恋愛だった愛だが、前世での「魂の番契約」なるものと、地球へと魂を送る際に願ったオズウェルの強い想いが原因だったと知り、思わずオズウェルを殴り飛ばしてしまったのは、今にして思えば少しやりすぎだったかもしれない。
とはいえ、その時の拳で今までの鬱憤を少しは晴らせたのも事実だ。
そしてひとしきり怒りが落ち着いた後、愛はオズウェルに提案したのだ。
――お互いを知るために、旅をしよう、と。
もう地球には戻れない。ならば、前に進むしかない。
幸い、自分に好意的な竜もいる。
何とかなるはず――そう思って、二人の旅が始まったのだった。
そうして、深淵の森を旅立ってから、すでにしばらくの時が経っていた。
なにせあの森は、世界の端も端――人が容易に近づけるような場所ではない。人里へ向かうにも、オズウェルの力なくしてはどうにもならなかった。
いくら自分がオズウェルへの“報酬”だったとはいえ、水も食料もまともに確保できない環境に放り込むなんて、神々はどうかしている。
愛は心の中で盛大に悪態をついたが、それを知ってか知らずか、空からひらりと一枚の紙が舞い降りてきた。
それは神託――神々からのアフターフォローとも言うべき文書だった。
そこには愛の身に起きたこと、この世界の理、そして彼女自身の身体に関することまで、細かく記されていた。
愛の肉体は、オズウェルと同じく神々が用意したもの。前世の肉体と竜の身体を素材として造り上げられた、特別製の器らしい。
地球での肉体は損傷が激しく、また向こうの世界では「死」という形を取る必要があったため、魂だけをこの世界へと召喚したのだという。
流石に特別製なだけあって、その肉体は地上のあらゆる生き物の中でもひときわ強靭であり、さらに多種多様な魔法を自在に扱えるよう、あらかじめ体そのものに学習させてあるのだという。
加えて、オズウェルと同じだけの時を生きられるように造られていることも記されていた。
神々が丹精込めて愛の新しい身体を作っている間に、地球ではかなりの時が流れていた。
結局、愛は地球では死亡したことになり、家族の手によってきちんと葬儀が行われ、今は墓の下に眠っているらしい。
現場から逃走していた犯人もしばらくして捕まり、情状酌量の余地もなく実刑判決を受けたという。
愛の家族も悲しみに暮れていたが、犯人の裁きを経て、少しずつ前を向き始めているようで――それだけが、ほんの少しの救いだった。
ちなみに事件の原因となってしまったイケメン同僚は、無事に恋人と結婚し、今では一児の父なのだとか。
そして、オズウェルからも聞いていた――例の二柱のことだ。
「破壊と激情」を司る神ヴァルクと、「理と静謐」を司る神ゼファルは、すでに創造神アルヴェリオスによって神格を剥奪され、今でも羽虫の姿のまま無限回廊を彷徨い続けているのだという。
剥奪された神格は、新たに見どころのある天使へと与えられ、彼らは新しい神として誕生した。
その新神たちは、前任者たちの不祥事を払拭すべく、忠実に与えられた役目を果たしているらしい。
彼ら――ヴァルクとゼファルが、なぜ愛の前世に執着したのかは、いまだに分かっていない。
神はその理由を記しておらず、愛自身もまた、知ろうとは思わなかった。
不幸と絶望のきっかけを、誰が進んで知りたいと思うだろう。
彼らが二度と自分の前に現れないのなら、もはやそんなことはどうでもよかった。
荒廃した世界からおよそ五百年――。
その間、国同士の戦争や飢饉によって、いくつもの国が生まれては滅びていった。
けれど今は比較的平穏な時代が続いており、文明も目覚ましい発展を遂げているらしい。
ご丁寧なことに、世界地図の描かれた紙まで一緒に落ちてきており、「この国は観光に最適」「あそこの料理は絶品」といった、まるで観光ガイドのような情報まで添えられていた。
旅をすると決めた以上、こうした情報はありがたい限りだが――この世界の神々は、どうにも地球の神とは違い、人間味あふれるというか、妙に俗っぽいところがある。
思わずそんな感想を抱かずにはいられなかった。
おそらく、人の姿に身をやつして地上へ降り、定期的にグルメ巡りでもしている神がいるのだろう。
人と神との境界が曖昧だからこそ、ヴァルクやゼファルのような存在が現れてしまうのかもしれない。
愛がそう思いながら世界地図を眺め、小さくため息をついたそのとき――下から、うかがうような声が届いた。
『アイ? 大丈夫? 体調が悪いなら、一度地上に降りようか?』
控えめに声をかけてきたのは、竜のオズウェルだった。
彼は速度をゆるめながらも、心配を声ににじませて愛を気遣う。
深淵の森で出会ってから今日まで、この竜は本当に誠実に愛と向き合ってくれている。
物語に登場するような俺様気質でもなく、無神経な鈍感男でもなく、かといってジメジメと自己肯定感の低いくせに嫉妬だけは一人前のヤンデレでもない。
少々泣き虫ではあるが、基本的には穏やかで争いを好まず――まるで、たんぽぽのような性格だ。
すべてを包み込むような包容力は常に愛へと向けられていて、いまだ彼との距離に戸惑う愛の心を気遣いながら、彼は少しずつ、彼女の反応を見つめつつ距離を縮めようとしてくれていた。
愛はオズウェルの気遣いに、軽く首を振って笑みを浮かべると、手を伸ばして彼の鱗を優しく撫でた。
出会ったばかりの頃、彼の鱗は長年の眠りで土埃が積もり、ところどころ苔まで生えていた。
深淵の森で何百年も野ざらしのまま眠っていたオズウェルは、その状態をまるで気にする様子もなく、のほほんと笑っていたものだ。
磨けばきっと美しく光る――そう思った愛は、どうにかして彼の鱗を元の姿に戻そうと試みた。
その時、初めて「魔法」というものを使うことを決意し、試行錯誤を重ねた結果、見事にオズウェルの鱗を磨き上げることに成功したのである。
今では陽の光を受けて、緑から群青、紫、そして深い黒へと移ろうような不思議な輝きを放っている。
そのあまりの美しさに、本竜本人も驚いたらしく、自身の身体を見回しながら、ぽかんと気の抜けた声を漏らしていた。
その時の光景を思い出した途端、自然と気分が上向き、愛は緩んだ頬を誤魔化すように小さく息を吐いて、地上へと視線を向けた。
世界地図を頼りにオズウェルへ道案内をしていたが、どうやら目的地はもう間近のようだ。
『……あ、見えてきたね』
「えぇ。神様おすすめの観光都市――【水光の都ルメリア】。遠くから見ても本当に綺麗なところね。楽しみだわ」
遥か下方、地上には幾筋もの運河が美しく分岐し、まるで光の網のように遠くまで伸びていた。
その水路を抱くようにして、太陽の光を受けて白く輝く幻想的な都市――ルメリアが、静かにその姿を現していた。
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