第2話 声を失った声優──レンが語る転移の夜
静かに湯気を立てる白湯を前に、部屋の中には沈黙が漂っていた。
朝の陽が障子越しに射し、木床の節に細い光が落ちている。八雲はその光に目を落としたまま、言葉を選ぶように呼吸を整えた。
「……私から話すべきでしょうね。まずは、そう思っています」
その声は低く穏やかで、押しつけがましさの一切を含まなかった。
目の前に座る彼女。羽織を巻き付け、警戒と混乱がまだ解け切らない女性の表情を見て、八雲は続ける。
「私は、この世界で八雲と名付けられました。けれど、本来の私は、別の世界の人間です。……あなたと、同じく」
レンの瞳が、わずかに揺れる。
「……私は、山本祐一という名前で生きていました。年齢は三十八、半導体工場で生産技術の管理者として勤務していました。死因は、夜勤明けの心臓発作です」
淡々とした語り。
それは懺悔ではない。過去を引きずる告白でもない。ここに至る道として、最小限で正確な提示だった。
「目を覚ました時には、すでに赤子でした。神社の一室で、古びた木の天井を見上げていました」
八雲は、そこで一度だけ彼女の目を見た。
レンは、言葉を発さず、けれど逃げてもいなかった。
「私には、この世界の言葉が理解できました。知識も、記憶もあった。そして気づいたのです。……ここは、ゲームの世界だと」
「……」
「神環ノ縁。成人向けソーシャルゲーム。現実の時間で言えば、2024年に配信されていた作品です。あなたも、ご存知でしょう?」
ようやく、レンのまなざしが変わった。
驚き、そして、理解。
その奥で、それを知っていることを悟られたことへの、奇妙な安堵。
「……知ってます。ええ、知ってます」
レンは、そう言って、浅く息を吐いた。
「……でも、まさか、八雲さんが……いえ、あなたが。そんな、同じ……」
「ええ。あなたと同じ外の世界から、この神環ノ縁の舞台へ来た一人です」
◇ ◇ ◇
「この世界がゲームと同じ構造だと、確信したのは五歳の頃です」
八雲は、言葉を紡ぎ続けた。
「神環、神技、巫女、霊災。すべてが、現実にありました。そして私は、この場所が、あのゲームのスタート地点であると気づきました」
レンは、八雲の言葉に一言も遮ることなく耳を傾けていた。
「つまり、私はゲームが始まる二十年前の時代に、この世界に来たのです。そして、いつかこの地にプレイヤーが来ることを信じ、備えてきました」
神技理論の再構築。巫女制度の保全。儀式の理解と伝承の回復。
「すべては、あなたのような召喚者が来た時、助けになれるように」
レンは、はっきりと目を見開いた。
「……じゃあ、あなたは、二十年前に、転生したんですか?」
「ええ。そしてあなたがここに来た時代は、私のいた世界の、何年でしたか?」
「……2024年の、8月。たしか……17日、夜」
八雲は、わずかに目を伏せて呟いた。
「……やはり。私が死亡したのは、2024年5月でした」
「……じゃあ、私は、あなたより後にいた世界から来たんですね」
「時間軸がずれていることは、異世界転移において珍しい話ではありません。ただし、興味深いですね。わずか三ヶ月の差というのは」
◇ ◇ ◇
ふたりの間に、初めて共有された沈黙が流れた。
もはや警戒の沈黙ではなかった。
これは、共犯者同士の思考のための静寂だった。
「……安心しました。私、ずっと自分だけがおかしくなったんじゃないかって、不安だったんです」
「あなたが不安であるのは当然です。理解できない状況に置かれた者が、混乱しない方が不自然です」
そう言って、八雲は静かに微笑んだ。
「でも、こうして……会えてよかった」
レンが、その言葉に目を丸くした。
八雲は、真顔に戻って言う。
「私は、ずっとひとりで備えてきました。あなたが来たことで、ようやく、この物語が始まったと、思えましたから」
そしてその言葉に、レンは初めて。
はっきりと、笑った。
◇ ◇ ◇
「……じゃあ今度は、私の話をしていいですか」
白湯を飲み干し、ほっと息をついたあとで、レンはそう言った。
八雲は軽く頷く。もちろんですと言葉には出さず、態度だけで示す。
「……本名は、朝比奈美央です。陽ノ宮レンっていうのは、声優活動のための芸名で、まだデビューから半年も経ってません」
朝比奈美央。
それが、彼女の現実での本当の名前。
「デビューといっても、小さなナレーションやラジオドラマで数回セリフをもらえただけでした。でも、やっと、やっとちゃんと名前が出る役をもらえたのが、神環ノ縁だったんです」
言葉の節々には、夢の扉が開いたときの昂揚が残っていた。
けれど、それと同じだけの未練と現実感のなさも。
「役名は、柊ユリっていう巫女のキャラクターで。事務所から送られてきた立ち絵とキャラシートがすごく綺麗で、思わずスマホの壁紙にしちゃったくらい」
そこで八雲の中に、かすかな記憶が呼び起こされた。
柊ユリ。
ゲーム中では未実装だったが、公式の先行告知ページで名前だけが発表されていたキャラクター。性格は寡黙で理知的、癒やし系。神環操作に長けたサポーター型の巫女。
そして、キャラ紹介の下部にはCV陽ノ宮レン予定とだけ書かれていた。
あれは、彼女の……
「まだ実装されてないキャラだったから、詳しい性格付けとか口調とか、自分で考えるしかなくて」
レン。いや、朝比奈美央は、小さく苦笑して続けた。
「だから、自分で神環ノ縁を始めたんです。陽ノ宮レンの名前でアカウント作って、プレイして……自分の役を、演じるために」
◇ ◇ ◇
「収録前に、自分がプレイヤーとして柊ユリを知っていた方が、きっといいって思ったんです」
「……あなたの演じる相手としてのリアリティですね」
「そう。最初は、すごく構えてたんです。成人向けゲームなんてやったことなかったから……でも、想像してたよりずっと……繊細で」
そこで、言葉が一度止まった。
けれど、それは躊躇ではなく、思い出の整理だった。
「巫女たちが、ただの目的じゃなくて、神技を繋ぐ存在で。感情の変化も、関係性の深まりも、ちゃんと意味がある構造として作られていて……」
八雲は、深くうなずいた。
「……あれは、馬鹿にされやすい作品です。けれど、正面から向き合えば、ちゃんと作られているのがわかる」
「うん。……だから気づいたら、夢中になってて」
「あの夜も、ゲームをしていた?」
「はい。御環結びのシステムをいじって、仮想リンク編成を試してた時……眠くなって……そのまま……」
「気づいたら、こっちにいた」
「はい」
◇ ◇ ◇
会話が、そこで一段落する。
八雲は、卓上の記録用紙を軽くめくりながら、思考を繋げる。
彼女は、柊ユリというキャラクターの声優候補だった。ゲームでそのキャラは、未実装のまま予告だけされていた。そして、今、ここにいる彼女は……柊ユリではなく、陽ノ宮レンという芸名の方で召喚されている。
つまり。
「あなたがここに来たときの身体……それは、あなたが演じようとしていたキャラの姿と一致していましたか?」
レンは、はっと目を見開いた。
「……言われてみれば、服は似てました。神衣っていうか、ゲームで見たまんま。でも、顔は……違いました」
「違う?」
「私のままでした。鏡がなかったから正確じゃないけど……でも、明らかに、自分自身だった」
「ふむ……」
八雲は筆を走らせる。
転移者の容姿は本人そのものであり、担当予定キャラとは一致しない。ただし装束は反映される。
ゲーム設定内のキャラデータではなく、プレイヤーの内面が反映された可能性。
「……これって、プレイヤーとして呼ばれたんですか? それとも……キャラとして?」
「正直、まだ断定はできません」
八雲は率直に言った。
「けれど、こうして思考し、選び、話しているあなたは、プレイヤーです。外から来た人間です。ここにいて、いいんです」
その言葉は、彼女の胸に深く染み渡った。
◇ ◇ ◇
春夜の静けさの中、敷き布団の上でレンは小さく身じろぎした。
「……八雲さん、起きてますか?」
月明かりを背に、白い寝衣を身にまとった彼女が、障子をそっと開けた。
その声は震えていないが、わずかな迷いと甘えが滲んでいる。布団の脇に座り込んだ彼女は、頬を染めながら視線をそらした。
「ひとりじゃ……なんだか眠れなくて」
「いいですよ。少し話しましょう」
八雲の声は柔らかく、いつもと変わらなかった。
そのことが、レンにはいちばん心強かった。
◇ ◇ ◇
月明かりが差す離れの一室。
障子の向こうでは虫の音すら遠く、静寂がふたりだけの世界を包んでいた。敷き布団の上で、白い寝衣を肩まで引き寄せながら座るレンの姿は、巫女として設計されたキャラクター衣装を脱ぎ捨て、ひとりの女としての生身の輪郭を露わにしていた。
「……八雲さん、隣、いいですか?」
「はい。こちらへ」
声をかけるだけで、彼の返事はすぐに返ってくる。
それが、こんなにも心強いとは思っていなかった。
並んで座った二人の距離は、指先一本ぶん。
けれど、手を伸ばせば触れられる距離に、互いの心はすでにある。
「少し……眠れなくて」
「私もです」
その答えに、レンは少しだけ笑って、手を伸ばした。
八雲の右手。その指先に、自分の指を重ねる。
「……あの、変なこと言っていいですか」
「どうぞ」
「……こうしてるだけで、安心するのに……それ以上を、欲しくなるのって、変ですか?」
「いいえ。自然なことです」
言い終えると同時に、八雲は身体を傾け、唇を彼女の額に軽く触れさせた。
熱も圧もほとんどないその接吻は、彼女の理性を静かに溶かす。
「……キス、してもいいですか?」
「私から、したいです」
言い終わるより早く、彼女は八雲の胸元に顔を寄せ、迷いのない唇を重ねた。
静かに、ゆっくりと、けれど確かに。
◇ ◇ ◇
唇が離れたあと。
八雲の手が、レンの腰のリボンに指をかける。
「脱がせても、いい?」
「……うん、八雲さんに……」
その答えを得て、八雲はゆっくりと寝衣の紐を解いた。
布が落ち、彼女の肩から背中へ、滑り落ちていく。乳白色の肌。首筋から鎖骨へと続く、柔らかな曲線。
「すごく……綺麗です」
「そんな……言われ慣れてないよ、私……でも、嬉しい……」
羞恥に顔を赤くしながらも、レンは身を隠さなかった。
むしろ、身体を委ねるように、八雲の胸元に腕を回した。
◇ ◇ ◇
それから、ふたりは静かに夜を共にした。
言葉にならない吐息。触れ合う肌の温もり。重なり合う呼吸。
この世界で神技を繋ぐための儀式が、本来どのような形で執り行われていたのか。八雲はかつて古文書でその詳細を学んでいた。
巫女と神子が心と身体を通わせ、魂の深い部分で結ばれることで、神環の回路が開かれる。
今、その儀式が、レンと八雲の間で静かに進行していた。
月明かりが二人を包み、時が静かに流れていく。
やがて。
布団の中で身を寄せ合いながら、レンが小さく震える声で言った。
「……八雲さん……なんだか、身体の中が、温かい……」
「ええ。私も……感じます」
八雲がゆっくりと上体を起こした瞬間、布団の下、レンの腹部に微かな光が走った。
「レンさん、失礼」
八雲は、やわらかく彼女の身体を起こして、その痕跡を確認する。
「ん……? な、なにか……?」
まだ少し夢見心地のままのレンが、無防備に身を委ねていた。
八雲は目を凝らし、肌に浮かび上がった紋様を見つめた。
それは、かつて見た巫女たちの中でも、ごく限られた家系にしか現れない神技伝承者の紋。
これは……
あのとき、村の補佐巫女だった志乃に出現したものと、同系統……まさか……
レンは、当然それを知らない。
けれど、八雲の手が止まっていることに、気づいていた。
「……やくもさん?」
「……どうやら、あなたに力が渡ったようです」
「えっ……?」
彼女が自分の腹部を見ると、淡く燃えるような神環の紋が確かにそこにあった。
「これ、私の……? でも、私はスキルリンク、してないし……」
「本来は、巫女と神子の間で、儀式を通して能力が伝達される構造です。だが、あなたは神子であり、巫女ではない。にもかかわらず……今、力が渡った」
「じゃあ……どうして……?」
八雲は、息を呑んだ。
その答えは、彼自身の中にしかなかった。
あの巫女志乃との儀式。
あの時、神技を宿す者と結ばれた男として、八雲の身体に媒介としての痕が残された。それは本人ですら気づかず、ただ封じ込めていた記憶と機能だった。
そして今、俺が彼女と結ばれた瞬間、彼女に開かれた。
媒介。
巫女と結ばれた者が、別の者にその力を渡す橋となる。
それは、公式設定にも未実装の異常スキル継承構造。
「……すごいな、これ」
八雲は自分の掌を見つめた。
そこには、何もない。
けれど、レンの中に今、誰かから受け継がれた力が灯っている。
「……あなたが、この世界で戦うための方法が、一つ見えました」
「え……?」
「私が、巫女たちの力を媒介し、あなたに受け渡す。そのためには、私が一度、彼女たちと儀式を執り行い、その後に、あなたと結ばれることが必要になる」
「……それって、つまり……」
レンがうつむき、視線を泳がせた。
「巫女と、やって、そのあと、私とも……って、こと……?」
「……はい。正直に言えば、そうです」
「……変な構造、ですね……」
けれど、彼女は笑っていた。
嫌悪でもなく、困惑でもなく。照れを含んだ、小さな安堵の笑み。
「でも……今夜みたいに、八雲さんとなら……私、ちゃんと……その役割、できると思う」
◇ ◇ ◇
ふいに、八雲が思い出したように言った。
「そういえば……さっき、前に経験があると……」
「……あっ、そ、それ……っ」
レンは瞬時に赤面し、布団を被った。
「あっ、ち、ちが……その……っ、えっと……っ」
「……ええ」
「じ、自分で……やったことは……あります……っ」
声が布団越しに小さく響いた。
その恥ずかしそうな震えた声に、八雲は噴き出しそうになりながらも、ぐっと笑いを堪えた。
「そうですか。なるほど。……理解しました」
「な、なんか言い方いやらしい!」
「いえ、そんなことは……でも、可愛いなと思っただけです」
「う、うそ……からかわないで……」
「本心ですよ」
布団の中、また少しだけ身体を寄せ合う。
次に起こることの意味を、ふたりとも知っていた。
これが始まり。
八雲が媒介となり、レンがこの世界で力を得ていく物語が、ここから本格的に幕を開けたのだった。
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