神環ノ縁~和風ソシャゲのモブ神主に転生したので巫女たちと縁を繋いで穢れを祓います~

鳴島悠希

第1話 成人向けソシャゲ神環ノ縁の世界へ

 それは、業務報告の草案を頭の中で練っていた最中だった。


 アセトンと潤滑油の混じる空気。人感センサーの反応しない暗い通路。夜勤明けの静かな現場に、山本祐一はひとり残っていた。


 また真空トリガーエラーか。


 液晶パネルに並ぶ波形と異常コードを見て、ため息をつく。


 ファウンドリ勤務歴十五年。彼は半導体製造ラインの生産技術者であり、製造部門のトラブル処理と設備保全の影で工場を支えてきた男だった。


 職歴にも誇りはあるし、責任感もある。


 けれどそれ以上に、癒やしが欲しかった。


 彼の心を支えていたのは、モニターの向こうの彼女たちだった。


 神環ノ縁しんかんのえにし~桜廻る刻の巫女たち~


 巫女たちと交わり、神技を継承し、戦わせる成人向けソーシャルゲーム。


 バカゲーじゃねぇよ、あれは神ゲーだ。


 仕事を終えた深夜、眠る間も惜しんでガチャを回す。キャラの立ち絵に全身全霊で課金する。セリフをすべて読み、設定も把握する。背景の神話構造やスキル発動演出の細部まで愛した。


 柊……明日には覚醒来るんだったな。


 彼は、最後の思考で、その名前を思い出していた。


 最推し。無口で理知的な巫女、柊。


 もうすぐ、彼女の覚醒イベントが始まる。育てたステータスで突破すれば、特別なスチルが手に入る。


 そのとき、視界が音を失った。


 胸の裏側、心臓の底から、重い何かが湧き上がる。呼吸がうまくできない。


 いや、これは違う。脳が、滑っていく。


 ダメか、俺……


 倒れた瞬間、デスクの角が視界の端をかすめた。


 そのまま、彼は静かに意識を落とした。


 ◇ ◇ ◇


 次に目を開けたとき、彼は胎児の状態だった。


 呼吸の仕方を忘れたように肺が動かず、皮膚に触れる布の感触が異様に敏感だった。音は、こもって聞こえる。世界は、薄膜越しに観るように滲んでいた。


 え?


 自分の腕が、小さい。喉が鳴らない。視界がぼやけている。感覚だけが研ぎ澄まされていく。


 まさか……これ、マジかよ。


 脳裏に駆け巡るのは、オカルトやファンタジーではなく、一つの明確なロジックだった。


 これは、転生だ。


 彼は、経験則で思考をまとめていく。


 ①意識が明瞭


 ②身体の感覚が乳児レベル


 ③周囲の音は知らない言語


 ④ただし空気は地球圏と同じ酸素濃度


 ⑤知識は保持している


 転生。しかも異世界系。


 は……


 思わず、吐息のように笑いかけた瞬間、こめかみから血が下がった。


 泣いた。ではなく、笑ったまま泣いた。


 課金で築き上げた推しとの日々。フルコンプした図鑑。ピックアップ0.25%を100連回して出なかったあの日。


 それらすべてが、向こう側になっていた。


 ◇ ◇ ◇


 日が経ち、体の自由が少しずつ利くようになった頃。


 周囲の人間が交わす言葉を、彼は音素から覚えていった。言語学的には現代日本語とかなり近く、いくつかの古語や聞き慣れない語尾を除けば、文法体系は一致していた。


「この子には、八雲という名を」


 その瞬間、彼の胸に鋭い音が走った。


 八雲。


 その名を、彼は知っていた。


 神環ノ縁の最序盤、主人公が初めて訪れる神社。その拠点に登場する、名もなき神主NPC。巫女制度が廃れ、神技の記録が忘れられつつある中、儀式の鍵を示す役割。


 あの男……名前、出てなかったよな。けど……一度だけ、八雲の社って書かれてた……!


 偶然ではない。


 この世界は神環ノ縁の舞台神理界かぐらそのものだ。


 そして、自分は名もなき神主NPCとして転生した。


 だったら、やるべきことは、決まっている。


 来るべき主人公を支えるために、すべてを整えておく。


 ◇ ◇ ◇


 八雲。その名が与えられてから、季節が三度巡った。


 視界が鮮明になり、言葉が喉から自然にこぼれるようになってからは、すべてが加速した。


 この世界の人々は、彼、八雲が神に選ばれた子であると信じて疑わなかった。


 生後間もなく視線を合わし、言葉を吸収し、文を読み、穏やかに答える。この国の神職において神授とされる兆候のすべてが、彼には備わっていたからだ。


 だがもちろん、その正体は元・山本祐一。


 半導体製造の最前線で命を削り、夜勤明けに突発死した、ただの技術者だった。


 けど……だからこそ、役に立つ。


 彼はこの世界でできることとやるべきことを早い段階で定めていた。


 この世界は神環ノ縁そのもの。自分は名もなきNPCポジション。ゲームの開始より約二十年前。ならば、プレイヤー、主人公が来たときに、最大限の支援ができる状態を整える。


 それは、かつてプレイヤーであった者だからこそ持ち得たメタ視点の意志だった。


 ◇ ◇ ◇


 八雲が育った神社、神縁大社は、北方の辺境ユツリハ郷にひっそりと存在していた。


 国名はカグラ。


 現代日本語に非常によく似た言語が用いられ、文化も和風に近いが、随所に神霊という現象が存在する。


 神災しんさい。霊的な歪みが蓄積し、空間を汚染する事象。霊災とも呼ばれ、突発的に発生する。


 神技しんぎ。巫女が祈祷や交わりを通して得た神からの加護によって発動する力。


 神環しんかん。魂の循環と、神霊の力が巡る構造体。個人の能力を高めたり、繋げたりする。


 全部、ゲームと一致してる……


 だが、ゲームでは語られなかった細部が、ここには実際に存在していた。


 八雲は、寺子屋の学びよりも早く、神社の保管庫にある古文書へと没頭するようになる。毛筆の記録、語部の口伝、失われた禁忌の書式。


 彼が見つけたのは、神技継承に関するきわめて性的な構造だった。


 巫女は、神技の器である。神子かみこと交わることで、技はその身に宿る。快楽が深ければ深いほど、神環の回路は確かに結ばれる。


 やっぱり、あの仕様は、元ネタあったんだな。


 成人向け要素が前面に押し出されていたあのゲームの設定。ただの売り文句かと思っていたスキルリンクは性交というギミックが、この世界では本当に神の儀式だったのだ。


 しかも、それはすでに禁忌として封印されていた。


 巫女制度は制度疲弊と倫理観の変化により、儀式形式だけが残され、交わりの儀式は忌むべき野合として追放されていた。


 だがそれゆえに、霊災は拡大の一途を辿っていた。


 主人公が来たとき、きっとここに立ち寄る。そしたら……


 神技の知識。巫女候補との信頼。現地勢力との協調。儀式の再構築。


 八雲はそれらを、すべて準備しておくと決めた。


 ◇ ◇ ◇


 彼は、学んだ。


 巫女たちに対しても、徹底して距離を取りながら信頼関係を築いた。感情を揺らさず、誠実に、地道に。


 地元領主には地蔵信仰を切り口に、土木と神事を融合させた発展モデルを提案。薬草学、発酵、製紙、酒造、塗香、護符作成、神衣織り……。


 全ては、彼が来る日のために。


 俺の役目は、裏方だ。名もなき神主として、主人公の背中を支える。


 それが、八雲の二十年の答えだった。


 そして、その日が来る。


 ◇ ◇ ◇


 それは、風の色が変わった朝だった。


 春の空は晴れていた。風はやわらかく、土の匂いを含み、草木の芽吹きを告げる静かな気配を運んでいた。


 だが、その中に確かに、ひとすじの違和が混じっていた。


 八雲は神縁大社の拝殿を掃き終え、神環の観測記録を整理していたところだった。


 あの空気……


 鼓膜の奥に、ぴりつくような緊張が走った。


 遠雷の前触れにも似た、神環の振動。神域に特有の、霊的濃度の局所的変調。


 くる。


 彼の中の経験と直感が、同時に警鐘を鳴らしていた。


 ◇ ◇ ◇


 拝殿から階段を下り、神門の向こうに広がる石畳を歩く。


 境内の巫女たちに声をかけることもせず、八雲はただ、玉砂利の上に立ち止まった。


 今日か。


 呟いた声は、誰にも届かない。


 だが、それでよかった。


 これは、彼一人が待ち続けた約束の時だ。二十年前に死んだ男が、たった一人で準備を続けてきた、邂逅の瞬間だ。


 そう、来るはずなのだ。


 神環ノ縁というゲームの世界において、主人公が最初に召喚される地。この神縁大社は、原作ゲームの開幕地点であり、チュートリアルの舞台でもある。


 あの男が……プレイヤーキャラが……


 本来であれば、ここに男がひとり、光の中から現れるはずだった。


 プレイヤー名の入力と同時に発生する召喚イベント。神災の兆しと共に開く神環の門。


 八雲はその日を、ずっと想定しながら生きてきた。


 来い。来いよ、主人公。俺は……ここにいる。


 手のひらがじんわりと汗ばむのを感じながら、八雲は空を仰いだ。


 その時だった。


 天が、啓かれた。


 鈍い音もなく、空気が断ち切られるように、境内の中央上空に縦の閃光が落ちる。


 光の柱は何の前触れもなく現れ、そこから放たれる神環の波長は、八雲がこれまで記録したどの霊災とも一致しない。


 これは、違う。これは、召喚だ。間違いなく、あれだ。


 来たか。


 拳を握る。思考が高速回転する。


 召喚光の発生座標、神環圧の初期値、漂流素子の偏差。彼の脳内で計算されるのは、もう研究者の思考そのものだった。


 ズレは、ない。ピタリと一致している。


 つまり、この召喚は予定通りである。


 光の中心が、わずかに脈動した。


 そこに何かが、落ちてくる。


 八雲は無意識に一歩踏み出した。


 手は武器にも祓串にも伸びていない。ただ、出迎える者の姿勢。


 その目に、はっきりと映った。


 一人の、人間。


 光が収束し、風が止んだ。


 八雲の前に、静かに倒れ込むようにそれは姿を見せた。


 女性だった。


 それも、子どもではない。


 肌に残る柔らかな脂肪と、くびれた腰。膝をついていたが、体格から察するに、成人。二十代中頃だろう。


 長い黒髪は腰まで垂れ、着ているのは薄布一枚。まるで神衣のような不自然な装束。肩と太腿があらわになっており、露出が多すぎるため、八雲は反射的に視線を逸らした。


 だが、視線の端に彼女の瞳が入ったとき、彼は息を止めた。


 これは、転移者の目だ。


 混乱。認識。錯乱。恐怖。そして、覚醒。


 他者の言葉を理解しようとする知性が宿っている。


「……ここ、どこ……? わたし……さっきまで……ベッドに……? どうして、服……っ、やだ……やだ、なにこれ……!」


 震える声と共に、彼女は自分の身体を抱きしめるように縮こまる。


 足元を隠そうと、膝を折る仕草。胸元を押さえる腕の力。羞恥と困惑が全身に滲んでいた。


 八雲は、その場に膝をついた。


「落ち着いてください。あなたは、今……別の世界に来てしまった可能性があります」


 低く、やわらかく、威圧をすべて排した声で語りかける。


 驚いたように、彼女の瞳がこちらを向いた。


「私はこの神社を預かる者です。ここは、神理界かぐら。私たちが世界と呼ぶ場所。あなたは……異界から、招かれてきた」


 説明の一部を曖昧に濁しつつ、必要な情報だけを短く提示する。


 彼女の混乱の程度は高いが、言語は通じている。


 つまり、もといた世界は、地球圏か、限りなく近い言語圏。


「お名前を、伺っても……?」


 その問いに、彼女は小さく口を開きかけ、首を横に振った。


 その仕草に、八雲は深く頷く。


 無理もない。まだ、自分の立場も理解していない。


 名前など、後でもいい。


 今は、彼女を安心させることが第一だった。


 だがその裏で、八雲の中には、どうしようもない違和感が、静かに育っていた。


 この召喚は、間違いなく本来の主人公のものだった。


 だとすれば、なぜ女が来た?


 すべての計画が、ゆっくりと音を立てて軋み始める。


 ◇ ◇ ◇


「この部屋なら、ゆっくりしてもらえるはずです」


 神縁大社の離れ、八雲自身の書斎の隣にある客間。


 外からの視線は届かず、天窓から差し込む光だけが柔らかく空気を撫でていた。


 その部屋に、彼女、光から現れた転移者を案内した。


 彼女は怯えたように最初は床から動かなかったが、八雲が足音も立てずに距離を取り、口を出さずに衣や食事、湯の支度を整えていくうちに、少しずつ安心の色が滲んできた。


 この反応の速さ……状況判断力も、順応力も高い。


 八雲は黙って観察していた。


 彼女は成人している。二十代中頃、社会人としての立ち居振る舞いが所作の端々に出ている。


 しかし異世界という環境下で混乱せず、警戒心は保ちつつも他者の言葉に耳を傾け、表情を読み、環境を見て行動を選んでいる。


 本来の主人公である可能性は、まだ捨てられない。


 けれど、この姿では、あのシステムは成立しない。


 スキルリンク。交わりを媒介とした能力継承。


 本来、男である主人公が巫女たちと結びを交わすことで、神技を使えるようになる。


 その全構造が、性別によって、根底から崩れていた。


 ◇ ◇ ◇


「……召喚、だって。……はは、やっぱり夢なんじゃないかな……」


 彼女は客間の布団に腰を下ろしながら、乾いた笑いを漏らした。


 しかしその目は、確かにこの現実を受け止めようとしていた。


「さっきまで、私は部屋にいたんです。……明日がオーディションだったから、早めに寝ようと思って……」


 八雲は、耳を澄ませるように静かに頷いた。


 聞く姿勢だけを保ち、質問は挟まない。社会経験がある者にしかできない支援者の聞き方だった。


 彼女は少し間を置いて、言った。


「神環ノ縁……っていうゲームを、プレイしてて。寝落ちしたんです、たぶん……気づいたら、ここにいて」


 その言葉に、八雲の脳が静かに収束していく。


 確定した。


 彼女は、プレイヤーだった。


 ただし、その正体は男の中身を持つ主人公ではない。彼女は、元の世界で神環ノ縁に関わっていた女性であり、ゲームを知っていて、何らかの形で、この世界へ召喚された。


 でも……なぜ、彼女が?


 この世界に主人公として来るべきだったのは、男のはずだ。


 八雲はそれを想定して、すべてを整えてきた。


 神技継承に関する古文書、巫女たちとの信頼、儀式の再構築、協力関係の下地。それらは男性の主人公が受け取るべきものだった。


 それなのに……


 目の前にいるのは、名前もわからない、けれど明らかに主軸の人物である女性。


 その存在は、八雲の中のあらゆる論理を崩しつつあった。


 ◇ ◇ ◇


「……少し、休まれますか。身体に力が入らないはずです」


「……はい……ありがとう、ございます」


 か細い返事のあと、彼女は布団に身を沈めた。


 外套代わりの羽織を胸元に握りしめながら、目を閉じる。


 八雲は立ち上がり、音を立てずに部屋を出る。障子を静かに閉めると、そのまま社務所へと向かった。


 帳面を開き、手元の筆に墨を含ませる。


 転移兆候、女。成人。プレイヤー知識あり。神技継承不能。現時点。主人公である可能性、高。


 文字を書きながら、八雲は静かに息を吐いた。


 計画は、一度止める。


 男が来る。そう信じていた。


 けれど、現れたのは彼女だった。


 それなら、彼女の語ることを、すべて聞いてから決める。


 名乗るまで、名を問わない。


 それは、八雲が客人に対して行う、最低限の誠意でもあった。


 ◇ ◇ ◇


 夜が訪れた。


 神縁大社の境内には人の気配が消え、虫の声が遠くから静かに届く。


 離れの一室では、転移してきた彼女が眠っていた。浅い呼吸。ときおり小さく寝返りを打つ気配。


 八雲は隣室で、灯を落とさずに帳面を広げていた。


 手元には、神環の観測記録。数刻前の召喚現象を、事細かに測定して記したデータが並ぶ。


 召喚者は、成人女性。地球語類似構文の理解あり。神環ノ縁という語を自発的に発声。精神混乱、しかし判断力は中程度以上。本来の主人公である可能性は……拭えない。


 八雲は筆を置いた。


 窓の外を見ると、満月に似た神環月が、静かに屋根の上にかかっている。


 彼女が現れたその瞬間から、すべてが予定と違っていた。


 けれどだからといって、彼は投げ出すつもりはなかった。


 主人公が、想定外の姿で現れたなら……


 静かに、口の中で呟く。


 想定する側が、柔軟になるだけの話だ。


 それは、生産技術者だった頃の彼がよく口にしていた言葉でもあった。


 設備が壊れるのは常。工程がズレるのも常。それでも、歩留まりを維持するためにやることは一つ。


 状況に適応し、最適化し、動かす。


 現場の真理は、この異世界でも変わらなかった。


 ◇ ◇ ◇


 そのころ、隣室。


 彼女はうつ伏せに眠っていた。


 羽織った布団の上で、指先が小さく動く。唇が何かを呟くように、かすかに震える。


 声にはならなかったが、その形は確かにひとつの名前をつくっていた。


 よの……みや……れ……ん……


 それは、まだ八雲の耳には届かない。


 名を明かすことは、まだ許されていない。


 けれど、確かに、彼女は言った。


 ◇ ◇ ◇


 よの……みや……れ……ん……


 神環月が静かに光を増していく中、名もなき神主NPCは、これまでで最も困難な主人公支援の幕開けを迎えていた。


 だが彼は、動じない。


 彼の人生は、支える側にあった。転生してなお、それは変わらなかった。


 歓迎するとも。君が、誰であろうと。ここが、君の新たな旅の始まりだ。


 八雲の呟きは、誰にも聞こえないまま、夜に溶けていった。

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