山笑い

長野の、とある渓谷。


沢登りのガイドブックには「初心者向け」と書かれていた。

適度な泳ぎが楽しめて、滝もいくつかある。

沢登りではなく、キャニオニングをしたら楽しいんじゃないか。

そんな軽い気持ちで俺は一人、その渓谷に向かった。


個人でキャニオニングを始めてすぐの頃。

まだ中古の装備で満足していた頃だ。


林道を進むと、ガイドブックの通り小さな神社が現れた。

朱色の鳥居は色褪せ、社殿の屋根には苔が生えている。

それでも、しめ縄は新しい。

地元の人が、今でも大切にしているんだろう。


駐車スペースに車を停めて、支度を始める。

中古で買ったセミドライスーツは、前の持ち主の体型に馴染んでいて

俺の身体には微妙に合わない。

脇の下が突っ張り、股下が余る。

それでも水は入ってこない。

同じく中古のロープをザックに詰める。

芯は生きているが、外皮は毛羽立っている。

でも、この程度の渓谷なら問題ないだろう。


沢登りなら、神社の脇から川に入って遡行する。

でもキャニオニングは逆だ。上流から下る必要がある。林道をそのまま登っていく。


三十分ほど歩くと、林道は川から離れていった。

地形図を見る。

このまま進んでも、渓谷には戻らない。

仕方なく、藪に入った。


笹が顔を叩く。

蜘蛛の巣が首筋に絡みつく。

湿った土の匂い、腐葉土の匂い、そして濃い緑の匂い。

都会では絶対に嗅げない、山の匂いだ。

不快じゃない。むしろ心地いい。これが自然だ、と思いながら藪を掻き分ける。


どれくらい進んだだろうか。

時計を見る余裕もなく、ただ斜面を横切っていく。

やがて、音が聞こえてきた。


滝の音だ。


水が岩に叩きつけられる、あの独特の轟音。

方向を定めて、音に近づいていく。

でも、すぐには降りない。

滝の真下に出てしまったら、そこから登り返すことになる。

キャニオニングは下るスポーツだ。

滝の上に出なければ意味がない。


音を十分に通り過ぎてから、渓谷を覗き込む。

二十メートルほど下に、水面が見えた。澄んだ水を湛える淵。

その下流に、さっきの音の主であろう白い飛沫が見える。


手頃な木を見つけて、ロープを回す。

中古のロープは、手に馴染まない固さがある。

それでも、しっかりと木に巻きつける。

ハーネスにエイト環をセットし、ロープを通す。


懸垂下降。

身体を後ろに倒し、足で岩を蹴りながら降りていく。

最初は恐る恐る。でも、すぐに慣れる。

ガイドツアーに行きまくった2年間で、この動作は身体に染み込んでいた。


渓谷の底に降り立つと、空気が変わった。


ひんやりとした冷気。

水の匂い。

上から見るのとは全く違う世界が、そこにはあった。

岩壁が両側から迫り、空は細い帯になる。

まるで、地球の裂け目に入り込んだような感覚。


淵を下流に向かって歩く。水は膝下ぐらい。流れは穏やかで、歩きやすい。

やがて、滝が現れた。


二十メートルほどの斜瀑。

真っ直ぐではなく、やや斜めに落ちている。

水量はそれほど多くない。

そして都合よく、落口の脇に太い木が生えていた。


ロープをかけて、ハーネスにセット。

今度は滝の横を降りていく。

水しぶきが顔にかかる。

ウェットスーツの隙間から、冷たい水が入ってくる。


「Wooooohoooo!」


思わず声が出た。

一人でも、楽しいものは楽しい。

むしろ一人の方が、この渓谷を独占している感覚があって気持ちいい。


滝壺の横に降り立った。

ロープを引いて回収する。

濡れたロープは重い。

ザックに詰め直していると、それは起きた。




最初は、耳の異変だった。


滝壺に叩きつけられる水の音が、急に遠くなる。

まるで、耳に水が入ったみたいに、音がくぐもる。

でも、水は入っていない。


次に、静寂が来た。


さっきまで聞こえていた音が、全部消えた。

滝の音も、川のせせらぎも、風の音も。鳥の声も、虫の声も。完全な無音。


いや、完全じゃない。

自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。

ドクン、ドクン。早鐘のように打っている。


そして、視線が来た。


無数の視線。

四方八方から、俺を見つめている。

岩の上から、木の陰から、水の中から。

見えない何かが、じっと俺を見ている。


背筋に氷を入れられたような寒気が走る。

全身の毛が逆立つ。膝が震え始める。



ああ、これは——



昔、山の怪談集で読んだことがある。「山笑い」という現象。

山の中で突然音が消えて、無数の視線を感じる。

それは山の神が獲物を品定めしている証だと。

選ばれた者は、山に取られる。

二度と人里には戻れない。


解決方法も書いてあった。

タバコを吸うか、守り刀を抜く。

煙か鉄が、山の神の気を逸らすのだという。


でも、俺はタバコを吸わない。

ナイフも持っていない。

渓谷に入り始めた素人は、そんな迷信を信じていなかった。


冷や汗が額から流れる。

ウェットスーツの下を汗が川のように流れていく。

動けない。動いたら、何かが起こる気がする。


視線は増えていく。

最初は十や二十だったのが、百、二百と増えていく。

全部が俺を見ている。

値踏みしている。品定めしている。


——こいつは、どうだ? ——まだ若い。 ——でも、一人だ。 ——取ってもいいんじゃないか?


声は聞こえない。

でも、そんな会話が交わされている気がする。


時間の感覚が狂う。数分なのか、数秒なのか。永遠にも感じる一瞬。


そして突然、音が戻ってきた。


滝の轟音が、耳を打つ。

鳥が鳴く。風が葉を揺らす。虫が羽音を立てる。

まるで世界のスイッチが入り直したみたいに、全ての音が一気に戻ってくる。


視線も消えた。

霧が晴れるように、すっと消えた。


俺は大きく息を吐いた。

止めていた息が、一気に出ていく。

膝から力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。


助かったらしい。


理由は分からない。

山の神の気が変わったのか、それとも最初から、俺は選ばれていなかったのか。


ザックを背負い直して、俺は渓谷を駆け下りた。


歩くんじゃない、駆ける。

岩を飛び、水を蹴り、滑りそうになりながらも、とにかく下る。

後ろは振り返らない。

振り返ったら、また始まる気がする。


小一時間も下っただろうか。

やっと神社の脇に出た。

鳥居をくぐって、境内に入る。


そこで初めて、俺は振り返った。


渓谷は、いつもの渓谷だった。

水が流れ、木が茂り、岩が転がっている。

さっきの出来事が嘘みたいに、平和な風景。


でも、俺は知っている。

あれは、本当にあったことだ。


神社の社殿に向かって、深く頭を下げた。

入る時には、しなかった礼。

今思えば、それが悪かったのかもしれない。


車に戻って、ウェットスーツを脱ぐ。

身体中が汗でぐっしょりだった。

恐怖の汗。死ぬかと思った時に出る、冷たい汗。


それが、俺の最初の体験だった。


普通なら、それでキャニオニングを止めるだろう。

実際、しばらくは渓谷に行けなかった。

夜、寝ていると、あの視線を思い出す。無音の恐怖が蘇る。


でも、一ヶ月もすると、また渓谷に行きたくなった。


あの綺麗な水。滝を降りる時の高揚感。それらが、恐怖を上回った。


次に渓谷に行く時、俺はナイフを買った。

小さなナイフ。ロープを切るための波刃付きのナイフだ。

まず使うことはないだろうが、お守り代わりだ。


そして必ず神社や祠があれば、礼をするようになった。

入る時も、出る時も。


山の神様、お邪魔します。

山の神様、ありがとうございました。


それから六年。

俺は今も渓谷に通っている。


あの「山笑い」のような体験は、その後も何度かあった。

でも、最初ほどの恐怖はない。

慣れたわけじゃない。

ただ、共存の仕方を覚えたんだと思う。


俺たちは、彼らの領域にお邪魔している。

だから、礼儀を尽くす。

謙虚でいる。

そして、警告を感じたら、すぐに引く。


それでも時々、限界を超えてしまうことがある。

あの渓谷のように。

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