初恋の温度は、永遠に溶けない。:幼馴染との責任を伴う愛の成熟
舞夢宜人
第1話 体育館の残響と新たな距離
体育館の床は、先週の引退試合の熱狂が嘘のように、静寂に包まれていた。真夏の太陽が既に西に傾き、窓枠を通して差し込む橙色の光線が、磨き上げられた木目の上で長く伸びていた。空気は重く、湿気を吸った熱が肌にまとわりつく。鼻腔をくすぐるのは、染み付いた汗の匂いと、床を拭き上げた石鹸の混ざった、三年間の努力の残滓だけだった。その静けさは、これから始まる俺たちの「戦い」の予兆のように、かえって耳鳴りを誘発する。外で鳴く蝉の声は、この密室に閉じ込められた熱情を、さらに煽るかのようにけたたましかった。
俺は、ただ黙ってベンチに座る楓を見つめていた。女子バレー部を引退し、彼女は長い髪を、慣れない手つきで短く切り揃えていた。その黒髪は、まだ耳の形に沿うことなく、汗で少し湿り、首筋に張り付いている。部活中にはユニフォームと汗とで隠されていた、首から肩にかけての華奢なライン。そして、透けそうなほど薄い練習用Tシャツ越しに見える背中の筋肉の柔らかな起伏。そのすべてが、数カ月前まで「幼馴染」としてしか見ていなかった彼女が、抗いがたい「女性」へと変貌したことを告げていた。
それを視界に捉えるたび、俺の胸の奥底で、熱く、ドロリとした独占欲が沸き上がるのを感じる。それは、理性や計画性を焼き尽くす、野蛮な炎だった。
俺たちは、家が隣同士で、幼稚園から高校まで、常に互いの存在が生活の基盤にあった。幼馴染という名の、世界で最も甘く、そして最も不確かな関係の中にいる。この関係は、社会的責任や、未来の試練という「現実」の重みに晒されれば、あっという間に崩れてしまう、砂上の楼閣だと知っていた。
俺の目標は、難関大合格という、社会的な成功と責任を果たすことだ。それは、他でもない、愛する楓と永遠に一緒にいるための、唯一にして絶対的な手段だった。俺が社会的地位を確立しなければ、彼女を守ることも、その人生を背負うことも、この沸き上がる独占欲を正当化することも、到底できない。
しかし、この数週間、部活を終え、女性としての魅力が解放された楓の存在は、俺の理性の限界を激しく軋ませ、悲鳴を上げ始めていた。夜になれば、互いの部屋の灯りが、手の届きそうな距離に見える。この至近距離で、彼女への性的な衝動を、あと一年近くも押し留め続けるのは不可能だ。このままでは、受験という現実の壁を乗り越える前に、俺の未熟な独占欲が、俺たちの全てを破壊してしまう。
俺は、自分の弱さと、その弱さを乗り越えるための傲慢な決意を固めた。ベンチに座る楓の横に移動し、彼女の隣に腰を下ろす。近づいたことで、彼女の濡れた髪から漂う甘いシャンプーの匂いと、かすかな疲労の匂いを、深く、そして独占的に吸い込んだ。
「楓」
俺の声は、喉の奥から押し殺したように低く、硬いものになった。その響きに、楓が小さな身体を揺らし、驚いたようにこちらを見た。大きな瞳には、いつも変わらない俺への信頼と、唐突な沈黙から生まれたわずかな不安が混じっていた。
「模試がある九月までは、勉強に集中する。だから、会うのはやめよう。必要以上の接触は、一切断つ」
俺が突き放す言葉を選んだ瞬間、彼女の顔から、微かな血の気が引いたように表情が一瞬で消えた。その凍りついたような反応に、俺の胸は強く軋む。だが、ここで立ち止まってはならない。俺は、自分に言い聞かせるように、視線を逸らさず、さらに言葉を重ねた。これは、俺の独占欲を正当化し、行動の動機を「愛」で塗り固めて、内なる罪の意識を覆い隠すための、俺自身への初期の信念(The Lie)だった。
「お前に釣り合う、誰も文句を言えない男になるためだ。お前を完全に独占して、誰にも渡さない、永遠に俺だけのものにするための資格を得る。そのために、俺は難関大に合格する必要がある」
それは、愛の真実の一部だったが、その裏側には、「お前は俺の足枷になるな」「俺の計画の邪魔をするな」という、支配的で傲慢なメッセージが隠されていた。
楓は、長い間沈黙を貫いた後、小さく、深い息を吐いた。その吐息は、熱帯夜の湿度に溶けて消えた。
「そっか、遥斗はまた私を見捨てるんだね」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように、俺の胸の最も弱い部分を貫いた。見捨てる。その言葉は、俺の心に深く根を張る幼少期のトラウマを直接刺激した。病弱だった楓が、入院先の白いベッドで流した涙。あの時、何もしてやれなかった自分の無力感。その記憶が、俺の自己欺瞞を激しく揺さぶる。
「違う。これは、未来のための……」
俺が苦し紛れに反論しようとした瞬間、楓は立ち上がり、俺から背を向けて、体育館の出口へ向かって歩き始めた。その足取りは、以前の、常に俺に寄り添っていた幼馴染のそれとは違い、どこか硬く、張り詰めている。拒絶と、深い孤独がその背中に貼り付いていた。
体育館の扉の、冷たい金属の取っ手に手をかけたその時、ふいに彼女が立ち止まり、俺の方へ振り返った。既に夕焼けの色は失せ、体育館の薄暗さの中に立つ彼女の、濡れた瞳だけがキラリと光る。その光には、裏切られた絶望と、それに打ち勝とうとするかのような強い反抗心が宿っていた。それは、俺の計画を狂わせるに足る、純粋な反逆の光だった。
「わかった。でも、一つだけ約束して」
楓の声は震えていたが、その眼差しは、もはや初めて会った時からずっと俺に依存していた幼馴染のものではなかった。彼女が何を要求しようとしているのか。俺の胸は激しく高鳴り、全身の血が、抗いようもなく熱を帯び始めた。
俺たちの幼馴染としての関係は、この体育館の残響の中で、決定的に終焉を迎えた。そして、その夜、俺の自室の窓を叩く、小さくも断固とした音が、これから始まる秘密の共犯関係と、その代償の予兆となることを、俺はまだ知る由もなかった。
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