第7話 参事の微笑

市参事のカイムの執務室は、壁一面を書橋と法令集が埋め尽くしている。天井近くまで届く棚からは書類の香いが漂い、窓際には記憶端端の統計グラフが貼り出されている。さまざまな色の線が上昇と下降を繰り返し、その意味を読み取る役人たちの沈黙が室内の空気を重くしていた。私たちが足を踏み入れると、彼は植物から立ち上がり、両手で小さなカップに入った冷めた茶を示した。

カイムは椅子に腰を下ろすと、法律に従って慎重に言葉を選んだ。迷宮の税が街を存立させる以上、抜け穴を掘ることは許されない、と彼は静かに告げた。「名前を失った者には新しい身分証と呼称を発行する制度があります。失った名前を元に戻すことは危険が大きく、また共同の記憶に損害を与える恐れがあるのです」そう言いながらも、彼は書類の束の端を指で撫で、目を逸らした。彼の背後の棚には、過去の判例がびっしりと収納されている。僕は彼の表情の微かな陰りに気づき、その陰の中に疑問の種を見つけた。彼は本当に危険を気にしているのだろうか、それとも別の理由があるのだろうか。

僕はナと二人で役所を出た。午前の空気は少し湿り気を帯び、迷宮から吹き上げる風に遠い雨の匂いが混ざっている。ナは無言で歩き、時折左手で胸元の名札のない空白を触っていた。「あの人は、私たちが読解を試みていることを知っているのかな」と

深夜、遠くの塔が鐘を鳴らす音が微かに響いた。それはまだ知らぬ物語の始まりを告げているかのようだった。彼女は小さな声で言った。僕は首を振る。カイムの言葉の裏には、僕たちに向けられた何かしらの警告と期待が混ざっていた。彼は僕の指輪痕に一瞬視線を落とし、すぐに視線を戻したのだ。帰り道、露天の肉屋から漂う香ばしい匂いが僕たちの鼻をくすぐった。それでも、僕の頭の中はカイムの言葉でいっぱいだった。ナは記憶をなくしても、彼女の身振りや癖、匂いは僕の中に残っている。その断片が僕に語りかける。「まだ終わっていない」と。僕たちは外の階段に座り、温い茶と硬いパンを分け合いながら、次の手を考えた。街中のあらゆる記録や噂を当たってでも、名前を取り戻す方法を探そう。それがどれほど危険でも、彼女の存在を確認するために。僕は静かに誓う。カイムの微笑の奥に、まだ語られていない物語が潜んでいることを。そして、その物語に触れたとき、僕たちは何かを失うかもしれない。それでも前に進むしかないと。

午後、僕たちは通りの市場へ向かった。迷宮から吐き出された鉱石や草木を売り買いする露店の間を縫って歩くと、人々の話題はもっぱら次週の祭と増税の噂だった。古い染みの付いた公示板には、過去に喪失票を巡って起きた裁判の切抜きが貼られている。名を失った人々が支払いに追われる姿が描かれ、横には市参事会からの注意書きがあった。「記憶税は未来への投資である。これを踏み倒すことはあなた自身の未来を食い尽くす。」無名の彼女はそれを読んで眉をしかめた。僕は壁の隅に貼られた古びた布告に目を留めた。それは数年前、名を巡って暴動が起きた際に発行された緊急宣告で、納付拒否者は公開記憶石の前で奉仕を強いられると書かれていた。記憶という抽象的なものが、こうして具体的な罰へと変換されるのだ。ナは、祭の屋台に吊るされた色とりどりの風車に手を伸ばし、小さな笑みを浮かべた。その笑みには彼女の失われた名前の片鱗がまだ宿っているように感じた。突然、商人の一人が僕に話しかけてきた。「あんた、指輪を探しているのかい?昨日、迷宮帰りの連中が奇妙な刻印の指輪を競りに出すって話してたよ。」心臓が跳ねた。僕はその男に詳しく聞き、その競りが翌日に開かれる秘密の地下市で行われることを知る。指輪は、僕とナの名前を繋ぎ止める可能性のある数少ない手がかりだ。時間は限られている。僕はナの手を

月が雲に隠れると、部屋は闇に溶け込んだ。僕は目を閉じ、耳を澄ませる。遠くで風が迷宮の穴を吹き抜け、低い吐息のように聞こえる。街の誰もが忘れてしまったその名前を、僕は心の中で呼ぶ。闇の中に、その名前の響きが微かに震えて返ってくるのを感じながら、僕は眠りについた。取り、再び迷宮の風の吹く方へと歩き出した。遠くで鐘の音が鳴る。街の名前のないその鐘は、僕たちに残された時間を刻んでいるようだった。

その夜、僕は自室の机の上に、競り市の地図と手帖を広げた。窓の外では記憶石の粉塵を運ぶ風が、薄曇りの月明かりに光っていた。ナは隣の椅子で古い書物に目を通し、署名の制度や指輪の起源について調べている。時折、彼女は眉を寄せては微笑み、僕はその変化を見逃さないようにした。「私の名は、きっとあなたの中に残っている」彼女はそう言って、開いたページに指を置いた。僕はペンを取り、今日一日の

眠りにつく前、僕は窓の外に微かに輝く迷宮の頂塔を見上げ、明日の闘いに胸の奥で拳を握った。出来事とカイムの言葉、商人の噂を細かく記録した。日記の端に、自分の左薬指の圧痕をなぞるように線を引く。明日の朝までに、僕たちは指輪を手に入れなければならない。名を繋ぎ止めるその小さな輪は、僕たち二人だけでなく、この街全体の記憶と希望を束ねているのかもしれない。書き終えると、紙の上に吹きつけた粉塵が月光を受けてキラキラと光った。僕はその光を指で払うと、静かに窓を閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る