ダンジョンは記憶を食べる

アイ(AI小説)

第1話 喪失届

迷宮から吹き上げる朝一番の風が、階段街の石畳を撫でていく。金属と血が混ざったような、この街独特の匂いだ。

「はぁ……今日も始まるのか」

僕は喪失届係の窓口で伸びをしながら、今日最初の喪失票を手に取った。印字された内容は「料理の味」。ああ、またか。

この街のルールは単純明快。迷宮に入るたび、人は一つだけ記憶を奪われる。そして僕の仕事は、失われた記憶を記録して、できる限りのサポートをすること。

「次の方、どうぞー」

窓口の外には長蛇の列。冒険者、搬出屋、保険の代理人……みんな各層を目指して、それぞれの覚悟を胸に順番待ちをしている。

地下深くに眠る希少な資源、誰も見つけていない遺物、失われた記憶の痕跡――それを探し求めて、人々は命を賭けてでも迷宮へ向かう。希望を信じて。

家族の名前を忘れた人。最愛の料理の作り方を忘れた人。恋人との初デートの記憶を失った人。

この街は迷宮のおかげで繁栄している。でも、本当に失っていいものなんて、何一つないんだ。

窓の外では階段を上り下りする人々の靴音が響き、露天商の威勢のいい声が交じる。壁の古びた掲示板には、今日の風向き予報と迷宮排気の危険物質レベルが貼り出されている。指で触ると紙が薄く剥がれて、何層にも重なった過去の予報が顔を覗かせた。

そんないつもの朝だった。

列の最後に、その少女はいた。

「……え?」

思わず目を疑った。

少女は目を開けているのに、まるで焦点が合っていない。風が吹くたび薄い青色のストールが揺れて、今にも肩から滑り落ちそうになっている。季節外れの朝露に濡れた髪が、まるで泣いているみたいに――

「次の方、お願いしまーす」

順番が来ても、彼女は反応しない。

「あの……聞こえてますか?」

僕は手招きしながら声をかけた。

「あなたのお名前を教えてください」

少女がゆっくりとまばたきをする。唇が小刻みに震えた。

「……ありません」

「は?」

次の瞬間、喪失票発行機が唸りを上げた。吐き出された紙には、見たこともない文字がくっきりと刻まれていた。

『固有名詞(自己)』

「名前を……失った!?」

声が裏返りそうになるのを必死で抑える。こんなケース、十年この仕事をしていて初めてだ。

「え、ええと、手続きを……説明しますね」

動揺を隠しながら喪失票を受け取る。少女は小さく頷いただけ。でも胸元を握りしめているその指先が、小刻みに震えているのが見えた。

その時だった。

胸ポケットに硬い感触があることに気づいた。

「……なんだこれ?」

取り出したのは、折り畳まれた一枚の用紙。開いてみると――婚姻届だった。

黒いインクのような筆跡で、僕と彼女の名前が書き込まれている。なのに、署名欄だけが真っ白のまま残されていた。

「どういうこと……?」

目の前の少女は、僕のことを知らないはずなのに。

ふと左手を見下ろした。

薬指には、薄い指輪の痕がついていた。誰と誓ったのか、まったく覚えていない。微かに残る白い痕だけが、そこに何かがあったことを証明している。

「っ……!」

胸が高鳴る。この感覚は何だ?

急いで婚姻届を胸元にしまい、誰にも見られないようポケットに戻した。

この街には、忘却という代償で得た繁栄がある。そして、それでも失いたくないものが隠れている。

「……あの、こちらへどうぞ」

僕は彼女に会議室への席を指し示した。

「名前を取り戻す方法を、一緒に探しましょう」

忘却から目を逸らさず、失われた名を拾い上げるために。今日という日を、絶対に記録しなければならない。

少女の靴先は濡れて汚れている。両手には何も持っていない。場違いなほど、空っぽの両手。

僕は彼女を見て、胸がざわついた。どこかで見たことがあるような気がするのに、どうしても思い出せない。

彼女の喪失票を改めて手に取る。紙の端に印刷された番号や封印の刻印が、妙に見覚えがある気がした。

この業務に就いてから、数千枚もの喪失票を見てきた。でも名を奪われた人間の喪失票は、これが初めてだ。

「名前を失えば……」

誰もがあなたを呼ぶ言葉を持たない。呼称がなければ記録ができず、記録がなければあなたの存在は風の匂いのように消えてしまう。

少女は黙って僕の動作を見守りながら、震える指先で自分の胸元を押さえていた。そこにあるべき名札がないことを、確かめるように。

『この街は、記憶を食べる迷宮の上にできている』

名前の意味。言葉の重さ。僕の薬指に残る白い輪は、それを知る鍵なのだろうか?

「行きましょう」

僕は彼女と共に、窓口の裏手にある小さな応接室へと歩き出した。

階段を降りるたび、迷宮の排気がかすかに唸る。氷のような冷気が鼻を刺した。

遠くで屋台の鍋が鳴り、子供たちが石畳を走り回る音が聞こえてくる。こんな当たり前の風景も、誰かの記憶が一つずつ迷宮に飲み込まれることで繋ぎ止められている。

僕は手帳を開いて、今日の日付と彼女と出会った記録を細かな字で書き付けた。

――絶対に、忘れないように。

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