第2話 地雷は、本間さんの部屋に埋まっていた

 次の日の昼休み。俺は絶望に打ちひしがれていた。


「――っくそ! 赤点ギリギリじゃねえか!」


 昨日返却されたばかりの現代文のテスト。クラス平均が80点台の中、俺の答案用紙には、誇らしげな朱色の文字で「53点」と書かれている。


 別に体育や英語ならともかく、国語でこんな点数を取ったのは初めてだ。


「どうした、遼。顔真っ青だぞ」


 休み時間に席まで遊びに来たクラスの友人、耕哉が、俺の答案を見て吹き出した。


「お前、現代文でその点数はヤバいぞ。漢字とか抜き出し問題だけ解いても、もう少しマシになるぞ」


「うるせえ! 俺だって今回は頑張ったつもりなんだよ!」


 嘆きながら顔を上げると、隣の席の菫が相変わらず文庫本を読んでいた。彼女の机の上には満点に近いに違いない答案が、裏返しのまま置かれている。


(そうだ、菫だ!)


 俺はワラにもすがる思いで、菫の肩を掴んだ。


「頼む! 菫! 助けてくれ!」


「ひゃいっ!?」


 いきなり声をかけられ、菫は飛び上がった。眼鏡の奥の瞳が、パチパチと瞬く。小柄な体躯の彼女を正面から見下ろすと、確かにブラウスの胸元が少し……いや、かなり、きつそうに見える。昨日の下校で意識してしまったせいか、視線がどうしてもそこへ向かってしまうのを、慌てて逸らした。


「頼む! 次の期末テストで、赤点回避できるように、俺に勉強を教えてくれ!俺、このままじゃ部活に入れねえんだ!」


 俺の真剣な顔に、菫は戸惑いの表情を浮かべた。


「え、私が? ……でも、私、教えるのとか得意じゃ……」


「頼む! 菫しかいないんだ! 文系トップのお前に教えてもらわないと、俺は来月、この世から消えるかもしれない!」


 俺は必死だった。幼馴染特権をフル活用。罪悪感は、ないわけじゃないけど。


 菫は、視線を左右に泳がせて、しばらく考え込んでいた。そして、諦めたようにため息をついた。


「……わかったわ。じゃあ、放課後。どこでやる?」


「おおっさすが菫! じゃあ、図書室で…」


「ダメ」


「え?」


 菫は、珍しく強い口調で遮った。


「図書室は、遼くんみたいな『陽キャ』がいたら、静かにしたい人が迷惑。……それに、私人に教える時は、自分の部屋の方がやりやすいし……」


 彼女は頬を染めながら、もごもごと言葉を続けた。


「……よかったら、うちに来る?」


「マジか!」


 俺は嬉しさのあまり、ガッツポーズをした。


 幼馴染とはいえ、お互い高校生になってから、相手の家に行くなんて初めてのことだ。俺の家は妹がうるさくて勉強どころじゃない。彼女の家なら、静かで集中できるだろうけど。


 そして、何より、菫の部屋に入れるという事実に、俺の胸は少しざわく。


「わかった!じゃあ、今日の放課後、一緒に帰って、そのままお邪魔します!」


「わ、わかった…」


 菫はなぜか顔を赤くして、慌てたように文庫本のページをめくり始めた。その仕草が、まるで何かを隠そうとしているようで、俺の好奇心をくすぐったが、勉強のことで頭がいっぱいだった俺は、それ以上気にしなかった。


 放課後。俺たちは連れ立って菫の家に向かった。

 昨日と同じ帰り道だが、今日は緊張感が違う。


「お前ん家、懐かしいな。小学校の時、秘密基地ごっこしたっけな」


「もう、そんな昔の話しないの」


 菫は、心なしか足早に歩いている気がした。

 玄関で靴を脱ぎ、部屋に通される。彼女の部屋は、二階の角部屋。


「ごめんね、散らかってて」


 そう言ってドアを開けた菫だったが、部屋は驚くほど整然としていた。


 木製の小さな机には、教科書と可愛いペン立てがきちんと並び、学習スペースが確保されている。壁際には、背の高い本棚が二つ。一つは窓際に、もう一つはドアの横に置かれていた。


「全然散らかってねえよ。すげー綺麗じゃん」


「あ、ありがとう…」


 遼は荷物を床に置き、本棚に目を向けた。さすが文系少女の本棚だ。文庫本や新書、古典文学のハードカバーがずらりと並んでいる。


「すっげー本だな。図書館みたい」


「ふふ、まあね。私にとっては宝物だから」


 菫は少し誇らしげに笑った。その顔は、いつも本を読んで目を伏せている時とは違い、イキイキとして見えた。


 俺は窓際の本棚の横に置かれた、少し違和感のあるものに気づいた。


「お、あれなんだ?カーテンみたいなの」


 本棚の最上段、高さが俺の背丈を優に超える位置に、目立たない色のカーテンがぐるりと巻き付いていたのだ。


「えっ、そ、それは!」


 菫の顔から血の気が引いた。彼女は慌てて俺と本棚の間に割って入ろうとする。


「何もな、いよ! ただの、ホコリよけ!」


「ホコリよけにしては、頑丈すぎねえか?」


 俺は興味津々で、背伸びしてそのカーテンの端を少しめくろうとした。


「だ、ダメ!触っちゃダメ!」


 その時、菫は俺の腕を強く掴んだ。驚くほどの力だった。小柄な彼女からは想像もつかない、必死の形相。


「なんでだよ?…痛っ!」


 俺が反射的に腕を引いた瞬間、本棚の上にあった何かが、グラリと揺れた。


 ドサッ!


 カーテンの奥に隠されていたはずのものが、重力に従って床に落下した。


 それは、一般の文庫本よりも厚みのある、特殊なサイズの本だった。表紙には、見慣れない華やかなイラストが描かれている。


 ドサドサドサッ!


 一つ落ちると、隠されていた他のコミックや雑誌、そしてアクリルキーホルダーのようなものが連鎖的に落下し、床に散乱する。


 俺は床に落ちたそれを見て、固まった。


 表紙のイラストに描かれているのは、美形の男二人組。一人は黒い軍服姿で、もう一人は白いシャツの首元を乱し、互いに激しい視線をぶつけ合っている。タイトルのフォントは薔薇のように装飾的で、いかにも「秘密の書物」といった雰囲気だった。


 そして、小説の中身。筋肉質でイケメンの男二人が××をしている挿絵。左の文章。


「ケビン・妊娠しろォォォッ! ブビュゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッッ!!ッッ!! ブビョォォォォォォッッッッッ──!! バビュァァァァァ──」


 確定だ。


「あ……」


 俺と菫、二人の間に重い沈黙が降り注いだ。

 床に散乱した、色鮮やかな「秘宝」たち。


 菫は、その場に立ち尽くし、真っ青な顔で手を震わせた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、今にも決壊しそうなほど潤んでいる。


「……見た、の?」


 小さな、か細い声が、静寂を破った。


「え、あ、いや……」


 俺は混乱していた。本を愛する地味な幼馴染。地味。文学。そして、BL。この図式が、俺の頭の中で結びつかない。


「ち、違う! これは、友達の! ……いや、違う! これは、ただの資料!」


 菫は必死に言い訳をしようとするが、その言葉はどんどん支離滅裂になっていく。

 やがて、彼女は顔を手で覆い、肩を震わせた。


「き、気持ち悪がらないで……」


 その瞬間、彼女の瞳から、透明な涙が一筋、溢れ出した。地味な文学少女の仮面が剥がれ、一人の少女の誰にも言えない熱い秘密が今、俺の目の前で決壊した。


 その涙を見て、俺の頭の中の混乱が一瞬で吹き飛んだ。


(ああ、そうか。これは菫にとって、それだけ大切なものだったんだ)


 俺は、散乱したコミックよりも、泣いている菫の姿に心を動かされていた。


 俺は床にしゃがみ込み、散らばった本を拾い集めながら、真っ直ぐ彼女を見上げた。


「……別に、気持ち悪くないよ」


 俺の言葉に、菫は手を顔から離し、涙で濡れた瞳で俺を見つめた。


「本間さんが好きなものなんだろ? 誰にも言えない秘密ってやつ。…俺は、全然気にしてないから」


 そう言って笑いかけた俺は、まだ知らなかった。


 この「秘密の共有」が、俺と菫の、三年間の空白を埋めるどころか、想像もしていなかった距離まで、一気に縮めることになるなんて。

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