第2章 紙の上の正義
事故から一月後、会議室の空気は、トンネル内の粉塵よりも冷たく、息苦しかった。
「――結論として、事故の主たる原因は、現場作業員の安全確認の怠慢と、不測の地質変動によるものと判断する」
スーツ姿の男が、感情のない声でA4の紙を読み上げる。それが、ケンジの「死」に対する公式の結論だった。
(安全確認の怠慢……? 不測の地質変動……?)
郷田は、節くれだった指を強く握りしめた。拳の中で、安全ピンが掌に食い込む。彼が緊張する時の癖だった。
「異論は?」
男が、まるで葬式の香典返しでも渡すかのように、形式的に問いかける。
「……あります」
郷田の低い声が、静まり返った会議室に響く。
「あの日の支保工に使われていた資材の強度が、当初の設計図(オリジナル・ブループリント)から変更されていた。強度の低い、安価なものに。変更の決裁印は、あんたたちのものだ」
郷田は、リュックからコピーした図面を叩きつける。
「スペックダウンだ。これじゃ、安全係数(マージン)が足りなくなるのは当たり前だ。現場のせいじゃない」
男は、郷田の目を初めて見た。しかし、その視線はすぐに手元の資料に落ちた。
「郷田さん。その変更は、役所の承認を得た『正式な手続き』によるものだ。コスト削減と工期短縮は、市民の皆様からの強い要請でもある。我々は、**法の支配(Rule of Law)**のもとで動いている」
「法……?」
「そうだ。法と規則だ。すべては、この『紙の上』で正しく処理されている」
男は、分厚い決裁書類の束を軽く叩いた。
「これが、我々の『正義』だ」
その夜、郷田はケンジのアパートを訪れた。
遺品整理は、ほとんど終わっていなかった。ワンルームの部屋に、土木の専門書と、場違いなほど分厚い本が数冊転がっている。
郷田は、その一冊を手に取った。
『政治学入門』。
(ケンジ……お前、こんなもん読んでたのか)
パラパラとめくると、一つの単語に赤線が引かれていた。
政治(Politics)。
それは、古代ギリシャ語の「ポリス(都市国家)」に由来する。限られた資源や価値(例えば、金、名誉、あるいは安全)を、社会の中で「誰が」「何を」「いかにして」手に入れるかを決めるための、権威的な配分のことである。
郷田は、その一文から目を離せなかった。
(資源の配分……? 権威的な決定……?)
ケンジの命を奪った、あの「スペックダウン」の決裁印。
「市民の要請」という名目で工期を縮めさせ、安価な資材を選んだ「誰か」。
それは、郷田の知らない「ルール」で動いていた。
郷田は、ケンジの部屋からその本を借り受けた。
彼の信じていた「構造力学」という神が崩れた今、彼は「紙の上の正義」を作った、別の神の正体を知る必要があった。
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