鍵の子ども
Black river
鍵の子ども
「仕事決まったよ。今度の月曜から」
土曜日の朝、母さんがごはんを食べながら言った。父さんが出て行ってから初めての週末、少し広くなった食卓を挟んでのことだった。
「どこで働くの?」
「ヤザワデパートの三階、婦人服のフロアだって」
「ふーん」
「あそこの制服、一回着てみたかったんだよね。楽しみ」
二人きりになってから、母さんはなんだかやけに機嫌が良い。そういえばこの間は、空っぽの部屋に掃除機をかけながら、鼻歌を歌っていたっけ。
そうやって家中に散らばる父さんの思い出が一つずつ無くなっていくのを、僕はどこか他人事のようにながめていた。悲しくもなければ嬉しくもない、ただずっと、やたらとリアルな夢の中にいるような、不思議な感覚だ。
「それでさ、仕事始めたら、朝はケンちゃんを見送ってからでも間に合うとは思うんだけど、夜は帰ってくるのが八時を過ぎちゃうんだよね」
「そんなに遅いの?」
父さんが家に帰ってくるのは、もう少し遅かった気もする。やっぱり大人って、それぐらい働かなきゃいけないんだろうか。
「だからこれからは、学校が終わって帰ってきたら、自分で鍵を開けて家に入ってね。晩ご飯はできるだけチンして食べられる物を置いておくようにするから。もう五年生だし、大丈夫でしょ?」
「うん」
ごはんを食べ終わった母さんは、テーブルの上に何枚かの千円札と、くたびれた皮のキーケースを置いた。
「それで、みなとモールに合鍵を作ってくれるお店があるから、それ持って後で行ってきなさい。お釣りでジュースとか飲んでもいいから」
みなとモールは駅前にあるショッピングセンターだ。大型スーパーの他に、百円ショップや薬局なんかも入っていて、うちで買い物をするときには大体みなとモールに行く。
「母さんは行かないの?」
「午前中はおばあちゃんの付き添いで病院に行って、お昼からは町内会の集まりがあるの。だから悪いけど一人で行ってくれる?」
「わかった」
朝ごはんを食べ終わった後、僕は一人でみなとモールに向かった。母さんは僕と一緒に家を出た後、バスに乗っておばあちゃんの家に向かった。
鍵を持っていなくて大丈夫か聞くと、
「たぶんケンちゃんの方が早く帰ってくるから、大丈夫だよ」
と言っていた。
みなとモールには、正面の自動ドアを入ってすぐのところにフロアマップがある。そこを見ると、一階の端に『キープラネット長田』という名前の店があり、横に小さく「合鍵・時計の電池交換・靴修理など」と書かれていた。母さんが言ってたのはたぶんここだろう。
マップの案内通りに行ってみると、キープラネット長田は思っていたよりもずっと小さな店だった。家のリビングよりいくらか狭い空間を棚と壁が囲んでいて、壁にはいろんな形の鍵がずらりと並んで掛かっている。
その狭い空間の真ん中に、背の高い男の人が後ろを向いて立っていた。モーターが回るウィンウィンという音がずっとしている。
「あの・・・すみません」
僕が声を掛けると、モーター音が止まって男の人が振り返った。顔の下半分が黒いもじゃもじゃとした髭に覆われている。
「はい、なんでしょうか?」
男の人は低い声でぶっきらぼうに言った。
「これの合鍵、作ってもらえませんか?」
僕は店のカウンターに、家の鍵をキーケースごと置いた。
男の人は太い手を伸ばしてそれを掴むと、開いて中の鍵を確認した。
「わかりました。今何人か順番待ちをしているので、これを持っててください」
男の人はそう言って、三番と書かれた札を僕に差し出した。プラスチックでできた番号札には、金属の棒にM字形のパーツがくっついたような、あまり見たことがない形の鍵がぶら下がっている。
「これは何の鍵ですか?」
不思議に思った僕は聞いた。
「そこに旅行代理店があるでしょ。その店の角を右に曲がったところにドアがあります。そこの鍵です。合鍵ができるまで、ドアの中で待っていてください」
男の人は、相変わらずぶっきらぼうな口調で一気に言った。そしてくるりと後ろを向き、またモーター音をさせながら作業の続きを始めてしまった。
もう何か聞いても答えてくれなさそうなので、僕は番号札を手にぶら下げ、カラフルなパンフレットが並んでいる旅行代理店の前を通り過ぎた。
言われた通りに店の角を曲がってみると、突然おしゃれな青い木の扉が現れた。
それはスーパーの白く塗られた壁とは全然雰囲気が合っていなくて、元々そこにあったというより、ドアだけをどこか別の場所から持ってきて置いたような、そんな感じがした。
青いドアには金属のドアノブがついていて、その下に鍵穴があった。
そこに番号札の鍵を差し込んでそっと回してみると、ガチャッと音がした。家の鍵を開けるときよりも重たい、何か大きな物が動いたような音だった。
そのまま、青いドアがゆっくりとこちらに向かって開いた。
覗いてみると、向こうは淡い水色の部屋で、ほんのりとコーヒーの香りが漂っていた。部屋の中には椅子やテーブルが行儀良く並んでいて、若い男の人と女の人がお茶を飲んでいる。ドアの近くには背の高いカウンターもあって、その前にはキノコみたいな形の椅子が一列に並んでいた。
カウンターの向こうには、白黒のボーダー柄のシャツを着て髪を頭の後ろで結んだお姉さんが、コーヒーを入れていた。お姉さんは僕が入ってきたのに気付くと顔を上げて、
「あっ、かわいいお客さんだ。何にする?」
と言った。
「よかったらそこ座って、メニューはカウンターの上にあるから」
キノコ形の椅子に座るのはちょっと難しかったけど、つやつやしたクッションは意外としっかり僕のおしりを受け止めてくれた。
メニューにはコーヒー、紅茶、ソーダ、ジュースなどが載っている。でもどこにも値段が書いていないので心配になって、
「すみません、これっていくらですか?」
と聞くと、
「あー、大丈夫。合鍵を作ってくれた人には一杯サービスしてるから。好きなの頼んでいいよ」
と言われた。
「じゃあ、オレンジジュースで」
「はーい、オレンジ一つ。準備するからちょっと待ってね」
ジュースを待っている間、やることがない僕は座ったまま店内を見回した。
奥の壁にはガラスの部分があって、最初は窓かと思ったけれど、よく見ると大きな水槽になっていた。ガラスの向こうで、銀色のおたまじゃくしのような生き物が泳いでいる。
「はい、お待ちどおさま」
お姉さんが戻ってきて、背の高いガラスのコップを僕の前に置いた。
「ありがとうございます」
ストローで一口すすってみると、よく冷えたジュースが喉に流れ込んできた。いつも家で飲むやつより、オレンジの果汁が濃い気がする。
「どう?」
「美味しいです」
「そう、よかった」
僕は壁の水槽を指差して、お姉さんに聞いてみた。
「中で泳いでいるのは、何の魚ですか?」
「ああ、あそこにいるのは魚じゃなくて、鍵の子どもだよ」
「鍵の子ども?」
「そう、近づいて見てみな」
お姉さんがそう言うので、僕は椅子から降りて水槽のそばまで行ってみた。ガラスに顔を近づけると、群れになって泳いでいたのは、本当にたくさんの金属の鍵だった。
「キープラネット長田で売ってる合鍵は、みんなここで育ててるんだ。十分に大きくなったやつから掬って、店で売り物として使うんだよ」
鍵の子どもたちは、鍵穴に差し込む細い部分をまるでしっぽのように動かしながら、スイスイと泳いでいた。集まったり散らばったりしながら自由に水の中を動き回っていて、なんだかとても楽しそうだ。
「かわいいですね」
「そうでしょ。私もお店が暇なときは、よくぼーっと見ちゃうんだ」
みんなで一緒に泳いでいる鍵の子どもたちの様子を見ていると、キーケースの中で窮屈そうにしていた自分の家の鍵を思い出して、なんだか申し訳なくなった。
うちの鍵もこんなふうに、仲間と一緒に泳ぎたいと思ったりするのだろうか。
僕がそう言うと、お姉さんは
「うーん、それはどうだろう」
と首をひねった。
「そうだなー。じゃあ、えっと君の名前は」
「ケントです」
「ケントくんか、いい名前だね。じゃあケントくんにクイズだよ。ここにいる鍵の子どもたちには、ケントくんや他の人がお家で使っている鍵とは違う部分が一つあるんだ。それは何かな」
「違う部分?」
僕は戸惑いながら、もう一度水槽の中をみた。違う部分って言われても、そもそも鍵が泳いでいるところをあんまり見たことがないし。でも、そういうことじゃないんだろうな。
鍵の子どもたちは相変わらずしっぽを動かしながら一生懸命に泳いでいる。銀色の体はツルツルで…ツルツル?
「あっ、わかった!」
僕は思わず声を出してしまった。
「しっぽにギザギザがない!」
僕が持ってきた家の鍵は、しっぽの細い部分がワニの背中みたいなギザギザで尖った形になっていた。でも水槽にいる鍵の子どもは、みんなしっぽがツルツルで同じ形をしている。
「おー、正解。よく気づいたね」
お姉さんは小さく拍手をした。
「しっぽのギザギザは、どの鍵穴の合鍵になるか決まってからつけるものなんだよ。だからケントくんの言う通り、まだ自分の穴が決まっていない子どもには、ギザギザが無いんだ」
「ギザギザは大人の印なんだね」
「そう」
お姉さんは言った。
「今はこうやってみんなで泳いでるのが楽しそうに見えるかもしれないけど、集まって行動しなきゃいけないってことは、それだけ一人一人は強くないってことなんだよね。もっと言うと、まだ自分の居場所、つまり自分の鍵穴が決まってないから、みんな不安なんだよ」
「確かに、居場所が無いと不安だね」
僕はなぜか自分の家のことを思い出した。
もちろん母さんとはまだ一緒に暮らしているし、僕の居場所が無くなってしまった訳ではない。でも最近、何も考えなくてもずっと安心していられた場所が、まるで鍵をさす鍵穴を間違えたときみたいに、ちょっとごつごつと居心地の悪い場所に変わってしまったと感じることが多い。
そのことを思うと、まだ自分の鍵穴に出会えていない鍵の子どもたちが、少しかわいそうに思えた。
「でも鍵穴が見つかっても、友達と会えなくなるのは、それはそれで寂しいよね」
頭の中に、学校で仲の良いテツヤやリョウちゃんの顔が浮かんだ。そうか、僕の居場所は家だけじゃなくて、学校にもあるんだ。
もし家に父さんが戻ってきても、友達に会えなくなるとしたら、それは嫌だ。家と学校、どちらにも安心できる居場所があった今までの僕は、もしかしたらとても幸せだったのかもしれない。
僕がそう言うと、お姉さんはアゴに指を当ててしばらく考えた後、言った。
「じゃあケントくんはさ、ここにいる鍵の子どもとケントくん、違うところはどこだと思う?」
「違うところ?」
「うん。もちろん金属と人間とかそういうことじゃなくて、今話してた居場所っていう見方で」
「うーん、なんだろ」
鍵の子どもたちは友達と一緒にいられるけど、居場所になる鍵穴がない。しっぽにギザギザがつけば居場所ができるけど、友達とは離ればなれになってしまう。
僕は、今の家が居場所かどうかわからない。でも学校には居場所がある。
あれ、でも。
「鍵は、鍵穴か友達。どっちかを、選ばなきゃいけない」
「そうだね」
「でも、僕は友達と仲良くしたまま、家も自分の居場所にできる・・・?」
確かに今の家は前ほど居心地が良くない。これからは母さんの帰りも仕事で遅くなるし、僕らの生活はもっと変わっていくだろう。
でも、居場所がなくなったわけじゃない。
もしかして、僕が何かを頑張れば、家をまた自分の居場所にできるんじゃないか?
「おっ、気づいたね」
お姉さんはニヤリと笑った。
「そうなんだよ。鍵は鍵穴が見つかったら友達と離れなきゃいけないし、その自分にぴったりの鍵穴もこの世に一つしかない。でもさ」
お姉さんはガラスについた水滴を指でそっと拭った。
「人間は、自分の居場所を自分で見つけられるし、自分で作ることだってできる」
「自分で作る・・・」
「そう。もちろんそれには、側にいる人たちの話をよく聞いて、じっくり時間をかけながら、どうすれば居心地の良い場所を作れるか、真剣に考えないといけないけどね」
父さんがいなくなった家で鼻歌を歌っている母さんのことを、僕はどこか遠くの存在のように考えていた。でも思い返してみると、僕は母さんがなぜ鼻歌を歌っているのか、聞いたことがない。
僕らはきっと、もっときちんと話をして、お互いの気持ちを知る必要があるんだ。
「安心できる居場所を探すって結構大変で、本気でやるなら、時として悲しいことやつらいことを乗り越えなきゃならないこともある。でもさ、乗り越えた先に、自分にピッタリな『何か』が待ってるって、そう思ったら、私は少し前向きになれたんだ」
お姉さんはそう言って微笑んだ。
もしその通りなら、あの家がまた、僕らにとっての鍵穴になってくれる日がやってくるかもしれない。
そのとき、店の青いドアが開いて、キープラネット長田にいた髭面の男の人が入ってきた。
「番号札三番でお待ちのお客様、いらっしゃいますか?」
「あっ、はい」
僕は札を持って男の人のところに走っていった。
「合鍵ができたので、店まで来てください」
「わかりました」
彼の後を追いかけてドアをくぐるとき、ふと後ろを振り向くと、お姉さんが笑顔で手を振っていた。
さっきの狭い店に戻ると、男の人はまず僕にキーケースを返して、
「料金は千二百円です」
と言った。
そしてお金と引き替えに、新しい合鍵をくれた。
まだキラキラ光っている鍵のしっぽには、しっかりとギザギザの模様がついている。僕がそっとその形を指でなぞっていると、男の人は
「それはもう君の物です。大事にしてあげてください」
と言って、初めて少し笑った。
僕の家の新しい鍵は、なぜだか少し温かい気がした。
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