第13話 黒氷の胎動

陽光は確かに暖かかった。

だがその下で、氷は静かに軋み始めていた。


春が訪れたその日から、王都の空気はどこかおかしかった。

雪は溶けているのに、風が冷たい。

芽吹いた花が、夜になると黒く枯れていく。


――まるで、何かが“逆流”しているようだった。



王宮の大広間。

エルマーは玉座に座り、

広げられた古文書の上に手を置いていた。


「……“黒氷契約”。

 これは、かつて巫女と対をなしたもう一つの契約だ。

 王家の血を守るために封じられた、もう一つの魂……」


セリーヌが静かに息をのむ。

「まさか、そんな……巫女の封印を解いたことで、

 その“対の契約”も目を覚ましたというのですか?」


エルマーは頷いた。

「そうだ。巫女の光と均衡する存在。

 それが……“黒氷の王”だ。」


「黒氷……?」


「伝承によれば、王国がまだ“白銀の楽園”と呼ばれていた時代、

 二つの神がいた。

 一つは〈春を紡ぐ巫女〉。

 もう一つは〈冬を統べる王〉。

 その王は巫女を愛し、しかし愛ゆえに、彼女を氷の中に閉じ込めたという。」


沈黙。


暖炉の火が小さく揺れ、

壁に映る二人の影が揺らめく。


セリーヌは俯きながら呟いた。

「……では、陛下。

 あなたの中にも、その“冬の王”の血が――」


「……流れている。」


エルマーは静かに答えた。


「だからこそ、巫女を解いた瞬間、

 封じられていた“もう一つの魂”が……僕の中で目覚めた。」


その瞳が一瞬だけ、淡い蒼から“黒”に揺れた。



夜、王の間。


誰もいないはずの広間に、冷たい風が吹き抜ける。

エルマーは鏡の前に立ち、

額に浮かぶ紋章を見つめていた。


氷のような模様が、まるで脈動するように光を放っている。


――ドクン。


「……やめろ……まだ……支配されるわけには……」


鏡の中の“もう一人の自分”が微笑んだ。


> 「支配? 違うよ。これは“統合”だ、エルマー。

君が光を求めた瞬間、闇もまた君の中に目を覚ます。」




「黙れ……!」


> 「君が春を呼ぶなら、私は冬を呼ぶ。

二つでひとつ――それが“氷の契約”だろう?」




鏡の中のエルマーは微笑みながら、手を伸ばした。

その指が、現実の彼の胸を貫くように触れる。


「うっ――!」


黒い氷が身体の中で広がる。

息が詰まり、膝をつく。


> 「君が希望を掴もうとするたび、絶望が近づく。

それが王家の運命……“白銀王”よ。」




エルマーの瞳から、涙がこぼれた。

だがそれは温かい涙ではなく、

氷のように冷たい雫だった。



翌朝。


王都の北区で、氷の病が再び流行し始めた。

手足が冷え、血が止まり、

やがて人々は“氷の像”へと変わる。


「巫女の封印を解いたせいだ」と囁く者が増え、

王に対する不安と恐れが広がっていく。


エルマーはその報告を聞きながら、

胸の奥に冷たい痛みを感じていた。


「……僕の中の“黒氷”が、彼らを蝕んでいるのかもしれない。」


セリーヌは強く首を振った。

「陛下のせいではありません。

 これは――“闇が目覚めた証”です。

 でも、それでも……私たちが王を支えます。」


エルマーは彼女の手を握り返し、

かすかに微笑んだ。


「ありがとう。

 けれど……僕がこのまま“黒氷”に飲み込まれたら、

 そのときは、迷わず――僕を止めてくれ。」


「そんなこと、言わないでください……!」


「約束だ、セリーヌ。」


沈黙が流れ、

窓の外では、春のはずの風が雪を運んでいた。


その雪は、黒かった。



その頃、氷原の最果て――。


朽ちた祭壇の上で、ひとりの男が目を覚ました。

漆黒の鎧を纏い、瞳に暗い光を宿す。


「……巫女の封印が解かれたか。

 ならば、我ら“黒氷の王族”の時代が再び来る。」


彼はゆっくりと立ち上がり、北の空を見上げた。

そこには、黒と白が入り混じるように揺れるオーロラが広がっていた。


「白銀王エルマー……お前が光を掲げるなら、

 俺は闇の冠を掲げよう。」


吹雪が、世界を包み込む。

そしてその中で、“もう一つの王”が完全に覚醒した。


――黒氷の胎動。

それは、春の兆しを裏切るようにして始まった。

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