第13話 黒氷の胎動
陽光は確かに暖かかった。
だがその下で、氷は静かに軋み始めていた。
春が訪れたその日から、王都の空気はどこかおかしかった。
雪は溶けているのに、風が冷たい。
芽吹いた花が、夜になると黒く枯れていく。
――まるで、何かが“逆流”しているようだった。
◆
王宮の大広間。
エルマーは玉座に座り、
広げられた古文書の上に手を置いていた。
「……“黒氷契約”。
これは、かつて巫女と対をなしたもう一つの契約だ。
王家の血を守るために封じられた、もう一つの魂……」
セリーヌが静かに息をのむ。
「まさか、そんな……巫女の封印を解いたことで、
その“対の契約”も目を覚ましたというのですか?」
エルマーは頷いた。
「そうだ。巫女の光と均衡する存在。
それが……“黒氷の王”だ。」
「黒氷……?」
「伝承によれば、王国がまだ“白銀の楽園”と呼ばれていた時代、
二つの神がいた。
一つは〈春を紡ぐ巫女〉。
もう一つは〈冬を統べる王〉。
その王は巫女を愛し、しかし愛ゆえに、彼女を氷の中に閉じ込めたという。」
沈黙。
暖炉の火が小さく揺れ、
壁に映る二人の影が揺らめく。
セリーヌは俯きながら呟いた。
「……では、陛下。
あなたの中にも、その“冬の王”の血が――」
「……流れている。」
エルマーは静かに答えた。
「だからこそ、巫女を解いた瞬間、
封じられていた“もう一つの魂”が……僕の中で目覚めた。」
その瞳が一瞬だけ、淡い蒼から“黒”に揺れた。
◆
夜、王の間。
誰もいないはずの広間に、冷たい風が吹き抜ける。
エルマーは鏡の前に立ち、
額に浮かぶ紋章を見つめていた。
氷のような模様が、まるで脈動するように光を放っている。
――ドクン。
「……やめろ……まだ……支配されるわけには……」
鏡の中の“もう一人の自分”が微笑んだ。
> 「支配? 違うよ。これは“統合”だ、エルマー。
君が光を求めた瞬間、闇もまた君の中に目を覚ます。」
「黙れ……!」
> 「君が春を呼ぶなら、私は冬を呼ぶ。
二つでひとつ――それが“氷の契約”だろう?」
鏡の中のエルマーは微笑みながら、手を伸ばした。
その指が、現実の彼の胸を貫くように触れる。
「うっ――!」
黒い氷が身体の中で広がる。
息が詰まり、膝をつく。
> 「君が希望を掴もうとするたび、絶望が近づく。
それが王家の運命……“白銀王”よ。」
エルマーの瞳から、涙がこぼれた。
だがそれは温かい涙ではなく、
氷のように冷たい雫だった。
◆
翌朝。
王都の北区で、氷の病が再び流行し始めた。
手足が冷え、血が止まり、
やがて人々は“氷の像”へと変わる。
「巫女の封印を解いたせいだ」と囁く者が増え、
王に対する不安と恐れが広がっていく。
エルマーはその報告を聞きながら、
胸の奥に冷たい痛みを感じていた。
「……僕の中の“黒氷”が、彼らを蝕んでいるのかもしれない。」
セリーヌは強く首を振った。
「陛下のせいではありません。
これは――“闇が目覚めた証”です。
でも、それでも……私たちが王を支えます。」
エルマーは彼女の手を握り返し、
かすかに微笑んだ。
「ありがとう。
けれど……僕がこのまま“黒氷”に飲み込まれたら、
そのときは、迷わず――僕を止めてくれ。」
「そんなこと、言わないでください……!」
「約束だ、セリーヌ。」
沈黙が流れ、
窓の外では、春のはずの風が雪を運んでいた。
その雪は、黒かった。
◆
その頃、氷原の最果て――。
朽ちた祭壇の上で、ひとりの男が目を覚ました。
漆黒の鎧を纏い、瞳に暗い光を宿す。
「……巫女の封印が解かれたか。
ならば、我ら“黒氷の王族”の時代が再び来る。」
彼はゆっくりと立ち上がり、北の空を見上げた。
そこには、黒と白が入り混じるように揺れるオーロラが広がっていた。
「白銀王エルマー……お前が光を掲げるなら、
俺は闇の冠を掲げよう。」
吹雪が、世界を包み込む。
そしてその中で、“もう一つの王”が完全に覚醒した。
――黒氷の胎動。
それは、春の兆しを裏切るようにして始まった。
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