第5話 氷解の祈り

王都に春の光が戻ってきてから、すでに七日が経っていた。

雪が溶け、瓦礫の間から芽吹いた小さな草花。

その緑が、どんな宝石よりも美しく思えた。


クラリッサは、王立学舎の跡地で民たちと共に働いていた。

高貴なドレスを脱ぎ、袖をまくり上げ、氷の崩れた壁を支えながら、

彼女は穏やかに笑った。


「もう貴族も民も関係ないわね。

 みんな、同じ“国の子どもたち”だもの」


その言葉に、傍らの少女が嬉しそうに頷いた。

「クラリッサ様がそう言ってくださるだけで、皆、救われます」


クラリッサは小さく笑ったが、

その胸の奥では、何かが冷たく疼いていた。

――まるで心の底に、まだ溶け残った氷があるように。



一方、王宮の最奥。

エルマーは「氷の継承印」を研究していた。


古文書を開き、彼は低く呟く。

「……やはり、この印章には“もう一つの記憶”がある」


それは、シリウスの残した“力”の奥底に眠る何か。

脈動するたびに、冷たい囁きが聞こえる。


――『氷は、滅びをもたらす』。


エルマーはその声に眉をひそめた。

心のどこかで、弟の面影が一瞬重なった気がする。


(シリウス……お前は何を見ていた?)


しかし、考える暇もなく扉が開き、クラリッサが入ってきた。


「また研究しているのね」

彼女は優しく笑いながらも、その声の奥にはわずかな不安があった。


エルマーは顔を上げ、穏やかに頷いた。

「この印章、ただの継承の証ではないようです。

 国の氷が解けても……僕の中の“氷”だけは、まだ溶けない」


その言葉に、クラリッサの胸が締めつけられる。

彼女はそっと弟の頬に手を伸ばし、指先でその冷たい肌を撫でた。


「……あたたかくなるまで、私が傍にいるわ」


エルマーは驚いたように目を瞬かせ、

すぐに優しい笑みを浮かべた。

「ありがとう、姉上。僕も――あなたを守り抜きます」


二人の手が重なり合った瞬間、

印章が一瞬だけ強く輝き、空気が震えた。


「……今の、何?」

「分かりません。まるで、“何か”が目を覚ましたような……」



夜。

王都の外れ、氷の祠。


祈りを捧げる修道士たちが集まる中、

一人の少年が震える声で叫んだ。


「氷が……祠の中で、逆流している!!」


瞬間、白い光が爆ぜ、祠の封印が音を立てて割れた。

氷の奥から現れたのは、人影だった。

かつて王都を覆った“災厄”の中心――シリウスの姿に酷似した影。


だがそれは、もう人ではなかった。

目は空洞のように黒く、口元からは白い霧が漏れている。


「……継承者を……滅ぼせ」


その低い声が、王都中の鐘を震わせた。



城の塔の上。

突然の冷気に気づき、エルマーが顔を上げる。

空には、再び雪が舞っていた。


「まさか……氷が、戻る?」


クラリッサも駆け寄り、息を呑む。

彼女の視線の先で、王都の外壁が再び凍り始めていた。


「どうして……あんなに祈ったのに……!」


その叫びが夜空に響く。

エルマーは歯を食いしばり、印章に手を当てた。


「まだ終わっていなかったんだ。

 ――“氷の継承”は、試練の始まりだったんだ!」


風が吹き荒れ、二人のマントが舞う。

雪の中、エルマーの瞳が青く輝いた。


「姉上……。僕たちの祈りを、もう一度、確かめましょう。

 この国を、本当に救うために」


クラリッサはその瞳をまっすぐに見つめ、

静かに頷いた。


「ええ。氷に打ち勝つのは、愛と信念――。

 この手で、未来を取り戻すのよ」



夜明け前。

王都の上空に、再び光が降り注いだ。

それは“氷解の祈り”――人々の想いが天へ届く瞬間。


しかし、その光の中で、誰も気づかなかった。

遠く北の地で、もう一つの“継承印”が淡く脈動していたことを。

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