第5話 氷解の祈り
王都に春の光が戻ってきてから、すでに七日が経っていた。
雪が溶け、瓦礫の間から芽吹いた小さな草花。
その緑が、どんな宝石よりも美しく思えた。
クラリッサは、王立学舎の跡地で民たちと共に働いていた。
高貴なドレスを脱ぎ、袖をまくり上げ、氷の崩れた壁を支えながら、
彼女は穏やかに笑った。
「もう貴族も民も関係ないわね。
みんな、同じ“国の子どもたち”だもの」
その言葉に、傍らの少女が嬉しそうに頷いた。
「クラリッサ様がそう言ってくださるだけで、皆、救われます」
クラリッサは小さく笑ったが、
その胸の奥では、何かが冷たく疼いていた。
――まるで心の底に、まだ溶け残った氷があるように。
◆
一方、王宮の最奥。
エルマーは「氷の継承印」を研究していた。
古文書を開き、彼は低く呟く。
「……やはり、この印章には“もう一つの記憶”がある」
それは、シリウスの残した“力”の奥底に眠る何か。
脈動するたびに、冷たい囁きが聞こえる。
――『氷は、滅びをもたらす』。
エルマーはその声に眉をひそめた。
心のどこかで、弟の面影が一瞬重なった気がする。
(シリウス……お前は何を見ていた?)
しかし、考える暇もなく扉が開き、クラリッサが入ってきた。
「また研究しているのね」
彼女は優しく笑いながらも、その声の奥にはわずかな不安があった。
エルマーは顔を上げ、穏やかに頷いた。
「この印章、ただの継承の証ではないようです。
国の氷が解けても……僕の中の“氷”だけは、まだ溶けない」
その言葉に、クラリッサの胸が締めつけられる。
彼女はそっと弟の頬に手を伸ばし、指先でその冷たい肌を撫でた。
「……あたたかくなるまで、私が傍にいるわ」
エルマーは驚いたように目を瞬かせ、
すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、姉上。僕も――あなたを守り抜きます」
二人の手が重なり合った瞬間、
印章が一瞬だけ強く輝き、空気が震えた。
「……今の、何?」
「分かりません。まるで、“何か”が目を覚ましたような……」
◆
夜。
王都の外れ、氷の祠。
祈りを捧げる修道士たちが集まる中、
一人の少年が震える声で叫んだ。
「氷が……祠の中で、逆流している!!」
瞬間、白い光が爆ぜ、祠の封印が音を立てて割れた。
氷の奥から現れたのは、人影だった。
かつて王都を覆った“災厄”の中心――シリウスの姿に酷似した影。
だがそれは、もう人ではなかった。
目は空洞のように黒く、口元からは白い霧が漏れている。
「……継承者を……滅ぼせ」
その低い声が、王都中の鐘を震わせた。
◆
城の塔の上。
突然の冷気に気づき、エルマーが顔を上げる。
空には、再び雪が舞っていた。
「まさか……氷が、戻る?」
クラリッサも駆け寄り、息を呑む。
彼女の視線の先で、王都の外壁が再び凍り始めていた。
「どうして……あんなに祈ったのに……!」
その叫びが夜空に響く。
エルマーは歯を食いしばり、印章に手を当てた。
「まだ終わっていなかったんだ。
――“氷の継承”は、試練の始まりだったんだ!」
風が吹き荒れ、二人のマントが舞う。
雪の中、エルマーの瞳が青く輝いた。
「姉上……。僕たちの祈りを、もう一度、確かめましょう。
この国を、本当に救うために」
クラリッサはその瞳をまっすぐに見つめ、
静かに頷いた。
「ええ。氷に打ち勝つのは、愛と信念――。
この手で、未来を取り戻すのよ」
◆
夜明け前。
王都の上空に、再び光が降り注いだ。
それは“氷解の祈り”――人々の想いが天へ届く瞬間。
しかし、その光の中で、誰も気づかなかった。
遠く北の地で、もう一つの“継承印”が淡く脈動していたことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます