第15話 氷原の灯火

 王国を覆う空は、どこまでも鈍く重かった。

 雪解けを待たずに春を拒むような冷気が、街にも、民の心にも染みついている。


 だが――北の果てでは、静かに灯がともり始めていた。


◇ ◇ ◇


 氷原の聖堂。

 夜明けの光が、溶けかけた氷壁を透かして差し込む。

 白銀の光がきらめき、祭壇の上で剣がかすかに鳴いた。


 リリアが静かに言った。

「あなたの血に眠る“氷”の力。それは王家が最初に契約した精霊の記憶。

 でも同時に、あなたの中には“光”の片鱗も流れている……姉上から受け継いだものよ」


 エルマーは無言でその言葉を聞いた。

 剣を握る手がかすかに震える。


「氷と光……二つの相反する力を持つ者は、王家の歴史の中でもあなたが初めて」

「つまり……俺は、王の器じゃない。

 氷を支配もできず、光にも届かない半端者だ」


 自嘲気味に言う彼に、リリアは首を振る。

「違うわ。あなたは“分かつ”ことを拒んだだけ。

 本当の王とは、力を使い分ける者ではなく――すべてを受け入れる者よ」


 その瞬間、彼の中に何かが弾けた。

 胸の奥に凍りついていた感情が、温かい光に包まれる。

 姉の笑顔、仲間の声、そして、かつて信じた理想。


「……俺は、まだ姉さんに何も返せていない。

 今度こそ、彼女の願いを叶えるために立つ」


 エルマーは立ち上がり、氷壁に剣を突き立てた。

 青い光が爆ぜ、聖堂の天井に紋章が浮かぶ。


 それは王国創世の印――“双光の紋章”。

 氷と光、二つの翼を持つ伝説の象徴だった。


 リリアが微笑む。

「あなたが動けば、王国も動く。

 ……これは運命の再生よ、エルマー」


 氷原に風が吹き抜けた。

 その瞬間、長く凍りついていた王国の地脈が微かに震えた。


◇ ◇ ◇


 一方その頃。


 クラリッサたちは南の丘陵地帯、元貴族たちがひそかに集う避難村にいた。

 村の中央広場には、かつての王都から逃げてきた者たちが集まっている。

 老いた学者、傭兵、商人、そしてただの民。

 皆が疲れた目をしていた。


 クラリッサは高台に立ち、彼らを見下ろす。


「……彼らの顔、見て」

 セリナが小声で言った。

「みんな、希望を失ってる」


 クラリッサはうなずく。

 その視線の先には、焦土のように沈黙した王国が広がっている。

 遠くに見える王都は、まるで氷の城のように光を失っていた。


 そこへルークが歩み寄り、布に包まれた地図を広げた。

「聞いてくれ。

 王都の北門は閉ざされているが、西側の地下水路がまだ使える。

 そこから潜入すれば、内部の牢を開放できる」


「そんなことができるの?」セリナが驚く。

「できるさ。……ただし、協力者がいればの話だ」


 ルークはクラリッサに目を向ける。

「お前が王族だった頃に助けたっていう学者たち。

 今どこにいるか、分かるか?」


 クラリッサはしばし目を閉じ、過去をたどる。

 父王の圧政に抗い、彼女を密かに助けてくれた人々。

 あの夜、処刑を免れた一人の男――アーベル博士の顔が浮かぶ。


「……一人、心当たりがあるわ」

「なら決まりだ」ルークが微笑む。

「俺たちは、もう逃げない。立ち上がるんだ」


 クラリッサは深く息を吸い込み、群衆の前に進み出た。

 風が金の髪を揺らす。

 その瞳には、かつて王女と呼ばれた誇りと、ひとりの人間としての覚悟が宿っていた。


「――私の名はクラリッサ・ルクレール。

 かつてこの国の王女として生まれ、王に背き、追放された者です。

 でも、今の私は違う。

 この国の“未来”を取り戻すためにここに立つ、一人の民としての誓いを立てます」


 ざわめきが広がった。

 それは驚きではなく、希望の息吹だった。

 やがて一人、また一人と手が上がる。


「姫様のために剣を!」

「もう一度、この国に朝を!」


 その声の波が、雪解けの風のように広がっていく。

 ルークが微笑みながら言った。

「見たか、これがあんたの力だ」


 クラリッサは小さく笑う。

「違うわ。私の力じゃない――“信じる心”の力よ」


◇ ◇ ◇


 夜。

 焚き火のそばで、クラリッサは空を見上げていた。

 遠く北の空に、ひとすじの光が瞬く。

 まるで誰かが応えてくれたように。


(……エルマー)


 その名を胸の中で呟く。

 凍るような冷気の中、彼の温もりを確かに感じた。


「姉さん」


 ――同じ夜。

 北の聖堂の高台で、エルマーもまた同じ空を見上げていた。

 吹雪はやみ、星々が凍てついた空に散っている。


 リリアが静かに尋ねた。

「感じたのね」

「ああ。彼女の声が、風に乗って届いた」


 エルマーは剣を胸に当て、低く囁く。

「姉さん、俺も行く。

 光と氷が交わる場所で、また会おう」


◇ ◇ ◇


 翌朝。

 クラリッサたちは村を発ち、南方の同盟都市へ向かう。

 民たちが見送る中、彼女は馬上から振り返った。

 雪が少しずつ溶け、地面に初めての草が顔を出している。


 それはまるで、この国がもう一度“春”を迎えようとしているようだった。


「……行きましょう」

 彼女の声に、ルークとセリナが頷く。


 馬の蹄が雪を蹴り、朝の光が彼らを包んだ。

 その先には、戦火と希望の交錯する未来が待っている。


◇ ◇ ◇


 ――そして、北の氷原。


 エルマーは白銀の鎧を身にまとい、吹雪の中に立っていた。

 リリアが背後で静かに言う。

「あなたの運命は、もはやひとりではない。

 “氷と光”が交わる時、真の王が生まれる」


 エルマーは剣を掲げた。

 青と白の光が天へ伸び、遠い空でクラリッサの祈りの炎と交わる。


 その瞬間、王国全土を覆っていた雪が――静かに、溶け始めた。


 冷たい風が暖かさを孕み、凍りついた街の鐘がひとりでに鳴る。

 人々が顔を上げる。

 どこまでも高い空の下で、希望という名の陽が昇っていく。


 それは、新たな戦いの幕開け。

 けれど誰もが、その光の意味を知っていた。


 ――“あの姉弟が、生きている”。


 そして、彼らの誓いが再び王国を動かす

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