第13話 氷に眠る王子

 ――音が、消えていた。


 氷の底に沈むような静寂。

 身体の感覚も、痛みも、遠く遠く離れていく。


(……ここは、どこだ)


 視界は白く濁り、まるで世界そのものが凍りついているようだった。

 それでも彼は、生きていた。

 王国軍に囲まれ、剣を抜いた瞬間の記憶が最後だった。

 あの後、吹雪が一気に強まり――氷のような何かが彼を包み込んだ。


 冷たさの中で、エルマーはぼんやりと笑う。


「……らしい最期だな、俺らしくて」


 誰もいない。

 ただ、白と静寂だけが友だった。


◇ ◇ ◇


 けれど――その静寂の奥から、声がした。


『……どうして、ここにいるの?』


 風のような、少女の声。

 淡く、透明で、雪の結晶が話しかけてくるようだった。


「誰だ……?」

『私は、“氷の精霊”。この地に封じられた記憶の守人』


 エルマーは微かに眉を動かす。

 精霊――。そんなもの、童話の中にしか存在しないと思っていた。


『あなたは、生きることを拒んだ。

 でも……心の奥で、まだ“願って”いる』


「願い……?」


『あの人を、救いたいと』


 その一言で、凍っていた記憶が一気に溶けていく。

 姉の姿。

 振り返らず走り去る背中。

 最後に見た、涙に濡れた瞳。


 エルマーの胸の奥から、熱が生まれた。

 氷の世界にあって、それは異質なほどに温かかった。


「俺は……あの人を守りたかった。

 でも、できなかった……!」


 氷が軋み、割れる音が響く。

 精霊の声が少しだけ柔らかくなった。


『守ることは、時に離れること。

 あなたの選択は、間違いではないわ』


 だが、エルマーは首を振った。

「それでも、まだ終わってない。

 あの人は、王に立ち向かおうとしてる。

 父の、あの暴虐を止められるのは――姉さんだけだ」


『なら、あなたは?』


 彼はしばし黙り込む。

 氷の中で、自分の手を見下ろす。

 剣を握った跡がまだ残っていた。

 血は凍りついても、誓いだけは消えていない。


「俺も……もう一度、立つ」


 その瞬間、氷の世界に小さな光が灯った。

 冷たく透き通る光が、彼の胸を貫き、心臓の奥で脈打つ。


『それが、あなたの“願い”なのね』


「ああ。生きるためじゃない。

 ――あの人を支えるために、生き直す」


 精霊は微笑んだ。

 雪が舞い、氷がひび割れ、彼の身体を包んでいた白が次第に溶けていく。


『では、目覚めなさい――氷に眠る王子よ。

 あなたの物語は、まだ終わっていない』


◇ ◇ ◇


 まぶしい光。

 エルマーは、ゆっくりとまぶたを開いた。


 見慣れない天井。

 淡い香りのする部屋。

 窓の外には雪原が広がり、焚き火の煙が小さく揺れていた。


 身体は包帯だらけで、ほとんど動かない。

 だが、命の鼓動だけは確かにあった。


「……ここは」

「――目が覚めたのね」


 声の主は、銀の髪の少女だった。

 氷のように透き通る瞳で、エルマーを見つめている。


「あなたを雪の中で見つけたの。

 “王子”と呼ばれるほどの人が、死んでいくのはもったいないと思って」


 その微笑みは、氷よりも冷たく、美しかった。


「私はリリア。

 ――北の氷原を守る“最後の精霊族”よ」


 エルマーの心臓が再び強く打った。

 運命は、まだ彼を離してはいなかった。


◇ ◇ ◇


 窓の外では、吹雪がやみ、月光が雪原を照らしていた。

 白の世界にひとり、黒衣の王子が眠りから目を覚ます。


 その瞳には、もう迷いはなかった。

 ただ――たったひとつの想いだけ。


 「姉さん、待っててくれ。

  今度こそ、俺は“お前の光”になる」


 夜が静かに明けていく。

 氷に眠る王子の新たな物語が、いま動き始めた。

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