第12話 裏切りの雪原

 ――雪は、終わりのない赦しのように降り続いていた。


 王都を離れて北へ二日。

 クラリッサたちは、山裾の雪原を越えていた。

 空は灰色に閉ざされ、吹きすさぶ風が頬を裂く。

 けれど三人は歩みを止めなかった。


「もう少しで、国境の森だ」

 ルークの声に、セリナが小さく頷く。

 彼女の頬は冷たく、唇の色が失われていた。

 それでも、彼女は一歩一歩、まっすぐに進む。


「……ねぇ、クラリッサ」

 セリナが背後に声をかけた。

「この先にある“雪原”って、ほんとに越えられるの?」

「ええ。ただし、誰も無事には通れないって言われてる。

 吹雪に惑わされ、方向を見失えば、氷の眠りにつく」


 セリナは小さく息を飲む。

「つまり……罠みたいなものね」

「そう。王都を逃れる者を“自然が裁く”場所」


 クラリッサの声は淡々としていた。

 けれど、ほんのわずかに震えているのを、ルークは見逃さなかった。


◇ ◇ ◇


 雪原に足を踏み入れると、世界の音がすべて消えた。

 風のうなりも、足音も、呼吸さえも。

 ただ、真白な静寂だけが、三人を包み込む。


「……ここは、別の世界みたいだな」

 ルークの言葉に、クラリッサは答えない。

 彼女はただ、遠くを見つめていた。


 ――黒い影が、吹雪の向こうに立っていた。


「……っ!」セリナが身構える。

 影はゆっくりと歩み寄り、風に黒衣をはためかせる。


「……やっぱり、来たか」

 クラリッサの唇が震えた。

 そこに立つのは、エルマー・ルクレール。


 凍るような青の瞳。

 けれど、その奥に一瞬だけ――悲しみの色が見えた。


「姉さん」

 その呼びかけに、クラリッサの心臓が跳ねた。

 懐かしい響き。幼いころ、兄妹で雪合戦をした日の笑い声が、ふいに蘇る。


「エルマー……どうしてここに」

「命令だ。お前を拘束し、王都に連れ帰る」

「それが……父の命令なのね」

「そうだ」


 その短い答えの中に、無理に押し殺した感情が滲んでいた。


◇ ◇ ◇


 風が二人の間を裂くように吹き抜ける。

 雪煙が舞い、空の色がさらに灰を濃くした。


「姉さん……どうして戻らなかった?」

「あなたこそ。

 どうして、理想を捨てたの?」


「理想?」エルマーの唇が歪む。

「王国は、理想で救えない。

 正義を掲げた者から、最初に殺される」


「そんなこと――」

「あるんだよ! 俺は、見た!」


 叫びが、雪原を震わせた。

 エルマーの声は、悲鳴のように掠れていた。


「父に逆らった学者がどうなったか知ってるか?

 “粛清”された。

 お前が信じた正義は、王の命令一つで簡単に灰になる!」


 クラリッサの喉が痛んだ。

 何も言い返せなかった。

 その言葉が、あまりにも現実的で、真実を突いていたから。


 それでも――。


「それでも、私は信じる。

 あの子たち(セリナとルーク)が、私を信じてくれたから」


 クラリッサがルークの方を振り返ると、彼は黙って頷いた。

 その眼差しには、“守りたい”という確かな想いがあった。


 エルマーの瞳が揺れる。

「……姉さん、俺を殺しに来たのか?」

「違うわ。あなたを取り戻しに来たの」


 その一言で、エルマーの表情が崩れた。

 幼い日、姉に叱られ、慰められた記憶が一気に胸を満たす。


 だが、次の瞬間――銃声が響いた。


 乾いた音が雪原に溶け、ルークが咄嗟にセリナを抱き寄せる。

 遠く、王国軍の旗が見えた。

 父の軍勢が迫っている。


「……っ! 見つかった!」

「逃げて!」クラリッサが叫ぶ。


 だが、エルマーは動かない。

 むしろ、一歩、姉の前に出た。


「行け」

「え?」


「行け、姉さん。……今のうちに」


 クラリッサの目が見開かれる。

「あなた……まさか――」

「俺が時間を稼ぐ。父には“お前を殺した”と言えばいい」


「そんなこと……できるわけない!」

「もう遅い。父は、俺を信じていない。

 どうせどちらにせよ、俺は処分される。

 なら――せめて、最後くらいは兄妹でいたい」


 クラリッサの瞳に、涙が溢れた。

 凍てついた風が頬を打つ。

 それでも、彼女は弟に一歩近づき、そっと手を伸ばした。


「……ありがとう、エルマー」

「礼なんていらない。姉さん……」


 彼の唇がかすかに動いた。

 その声は、吹雪に消えていく。

 ――“幸せに、生きてくれ”


 次の瞬間、雪が舞い上がり、軍勢の号令が響いた。

 クラリッサは振り返らず、セリナとルークの手を取って走り出した。


◇ ◇ ◇


 雪原に一人残ったエルマーは、白い息を吐いた。

 遠くへ消えていく三人の影を見つめながら、微笑む。


「……姉さん。俺はまだ、光を信じてるよ」


 兵たちが雪を蹴り、彼の周囲を囲む。

 剣が一斉に抜かれる音。


 エルマーはゆっくりと剣を構えた。

 その瞳には、もう恐れも迷いもなかった。


「王国のためでも、父のためでもない。

 ――これは、俺自身の選択だ」


 雪が、再び激しく降り出す。

 その白の中で、ひとりの“王子”が闇へと溶けていった。


◇ ◇ ◇


 数刻後。

 雪原の遠く、森の入口で。

 セリナが振り返った。

 遠くに見える雪煙。そこに確かに――彼の姿があった気がした。


「……彼、きっと生きてるよね」

 セリナの声に、クラリッサはそっと目を閉じた。

「ええ。あの子は強いもの。

 たとえこの世界が凍りついても、あの子の心だけは――決して」


 空の雲が割れ、淡い光が差し込む。

 それはまるで、失われた兄妹の絆を照らす光のようだった。

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