第11話 堕ちゆく王子

 ――雪は、静かに落ちていた。


 白い屋敷のバルコニー。

 少年は剣を握りしめ、ひとり、夜明けを見つめていた。


 名は、エルマー・ルクレール。

 名門ルクレール公爵家の嫡男。

 そして、姉クラリッサのたった一人の弟。


「どうして剣を持つ?」

 背後から声がした。

 父、ヘルマン・ルクレール。王国評議会の議長にして、権力そのものの象徴。


「守りたい人がいるからです」

「守りたい……? 無駄だ。守る者は、いつか必ず奪われる」


 父の言葉は、冷たい氷のようだった。

 エルマーは拳を握りしめる。

「それでも、姉さんは――」

「クラリッサは、王国に逆らった。愚かだ。

 お前まで道を踏み外すな、エルマー」


 父の手が少年の頬を掴む。

「情を捨てろ。血こそが忠義だ。王国を支えるのは理想ではない――“恐怖”だ」


 その言葉が、エルマーの胸に深く突き刺さった。


◇ ◇ ◇


 時は流れ、数年後。


 エルマーは王立学園の生徒会副会長として、王国の秩序を保つ任を負っていた。

 冷静で、非情で、完璧な統治者。

 人は彼を“氷の王子”と呼んだ。


 だが夜、誰もいない学園の庭で、彼は時折立ち止まっていた。

 雪の中、姉の残した白いスカーフを握りしめながら。


「姉さん……俺は、間違ってるのか?」


 返る声はない。

 ただ、遠くで鐘が鳴り響くだけだった。


◇ ◇ ◇


 そして、あの夜――。

 クラリッサが監察局の塔を襲撃したという報せが届く。


 父の書斎で、エルマーは報告書を受け取った。

 署名欄には、見慣れた名。

 “クラリッサ・ルクレール、反逆罪により逮捕命令発令”


 父は冷たく笑った。

「お前が止めろ。お前の手で、姉を葬るのだ」


 エルマーは言葉を失った。

 だが、その瞳に宿ったのは、涙ではなく――決意。


「……わかりました。

 でも父上、一つだけお聞きします。

 姉が“王国を変えたい”と言ったあの日。

 あれは、本当に罪なのですか?」


 ヘルマンは笑った。

「罪だ。理想は秩序を壊す。

 ゆえに、王は“現実”の上に立たねばならん」


 エルマーの目が静かに伏せられた。

「……なら、俺は“現実”になる」


◇ ◇ ◇


 その夜。

 王都の街路に雪が積もる中、エルマーは部下に命じた。

「ルーク・アルバートを捕らえろ。

 彼が姉を狂わせた“火種”だ」


 そして――塔の地下で、彼は鎖につながれたルークと対峙した。

 自分の中の“人間”を殺すために。


 だが、あの男の言葉が今も胸を焼く。

 「お前がどんな闇に落ちようと、クラリッサはお前を見捨てない!」


 その一言が、何度も何度も頭の中で響いて離れない。


◇ ◇ ◇


 現在。

 ルークたちが脱出してから二日後。


 エルマーは王城の玉座の間に立っていた。

 報告官が声を震わせて告げる。

「クラリッサ・ルクレール、および反逆者三名……消息不明です」


 玉座の上の父が、ゆっくりと立ち上がった。

「ならば全軍を動かせ。あの娘を、“完全に消せ”」


 その言葉を聞いた瞬間、

 エルマーの中で何かが音を立てて崩れた。


 ――“完全に消せ”。

 つまり、それは“姉の存在をこの世から消す”ということ。


「……父上、それは命令ですか」

「そうだ。お前がやれ」


 エルマーは目を閉じた。

 雪が、開いた窓から舞い込んでくる。

 白く、冷たく、静かに――まるで彼の涙の代わりのように。


 そして、彼は小さく呟いた。

「ならば俺は……その命令に従う、“ふり”をしよう」


 その瞳に、ほんの一瞬、かつての優しさが戻る。

 だが次の瞬間、それは氷のように固まった。


 エルマー・ルクレールは、王国の闇の中で微笑んだ。

 “敵として、姉を守るために”。

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