第25話 もう一人の夢想家

 金田一耕介が受話器を握りしめ、佐久間警部補の電話番号をダイヤルしようとした瞬間、脳裏に鋭い痛みが走った。昨夜の夢の残像が、まだ彼の理性を侵食している。彼は受話器をそっと置いた。

​(待て。佐久間警部補の「合理的」な論理に、この**「愛と裏切りの数理」**が理解できるだろうか?)

​ 彼が伝えようとしている「ノイズ」とは、物理的な証拠ではなく、人間の情念に関するものだ。しかし、その情念こそが、この数理的な犯罪モデルの**「設計ミス」**であり、解読の鍵であると耕介は確信していた。

​ 不安と焦燥に駆られ、耕介は再び畳に横たわった。一睡もしていないはずなのに、意識は底なしの闇へと引きずり込まれる。

 浅草の熱情、等々力警部

​ 耕介の意識が沈んだ先は、夜の浅草だった。

​ そこは、彼の知る昭和の銀座裏とは違う、戦後の復興期のような喧騒と、赤提灯の熱気が渦巻く空間だった。耕介は、目の前の古い居酒屋の暖簾をくぐった。

​ 店の中は、湯気と酒の匂いでむせ返る。カウンターの奥で、大柄で丸顔の、見覚えのある男が、豚串を頬張りながらビールを豪快に飲み干している。

​「よう、**等々力とどろき**の親父」

​ 耕介が声をかけると、その男――伝説の探偵・金田一耕助の盟友であり、警視庁の名物刑事、**等々力大志(等々力警部)**が、顔を上げた。

​「ん?おう、お前は……耕介坊主か。こんなところで何してる。大人の酒場だぞ」

​ 等々力警部は、その豪快な見た目とは裏腹に、鋭い眼光で耕介を一瞥した。

​「親父、力を貸してくれ。俺は今、『数理モデル』という、合理性の皮を被った狂気を追っている。佐久間警部補の論理が通用しない、冷たい数式だ」

​ 等々力警部は、持っていたビールジョッキをカウンターにドンと置いた。

​「バカなことを言うな。犯罪に『数理モデル』なんかあるか。事件ってのはな、**血の通った人間の『熱情』**で起きるもんだ。計算なんかできるか!」

​「だが、今回の事件は計算されている!津田のいじめ、久門の狂気、綾辻教授のノイズ理論……すべてが、犯人の『歴史の必然性』を証明するために、数式に組み込まれているんです!」

​ 耕介が必死に訴えると、等々力警部は、静かに笑った。

​「そうか。お前が夢で見た**『愛と裏切りの数理』**か。それが数式だというなら、それは欠陥品だ。なぜならな、耕介坊主。愛と裏切りは、計算できるもんじゃねえ」

​ 等々力警部は、人差し指を一本立てて、耕介に近づいた。その顔は真剣そのものだった。

​「いいか。犯人が何を計算しようと、奴は必ず、**『愛という名のノイズ』**を現場に残す。それは、計算から最も遠い、最も人間的な衝動だ。佐久間は合理的すぎた。お前も、父さんの罪を背負いすぎて、冷静になりすぎている」

​「冷静に……?」

​「そうだ。**熱くなれ。佐久間が『不合理な真実』に直面しているなら、お前は『合理的な悪意』に、『不合理な熱情』**でぶつかるんだ」

 ​等々力警部は、豚串の脂で汚れた手を振りながら、豪快に言い放った。

​「お前が『最も大きなノイズ』だと思ったのは、誰かに対する**『愛』か、あるいは『愛から生まれた裏切り』だろう。そのノイズを追え。そして、そのノイズの先に、犯人が『計算外の場所』に隠した『最後の道具』**があるはずだ」

​「最後の道具……?」

 ​耕介がその言葉を反芻した瞬間、熱気のこもった居酒屋の空間が、霧のように溶けて消えた。


​ 金田一耕介は、再び犬山の旅館で目を覚ました。夜明けの光が、障子越しに差し込んでいる。体は重いのに、頭は異常なほど冴えわたっていた。

​(熱情……計算外の場所……最後の道具……)

​ 等々力警部の言葉が、佐久間警部補の「合理的論理」と、金田一耕助の「心の論理」の隙間を埋めた。

​ 耕介が直感した「最も大きなノイズ」とは、久門静馬の妻、多恵の行方だった。

​ 静馬は確保されているが、妻の多恵の接点が不明確だと佐久間警部補は言っていた。久門静馬は「血の継承」という狂気の論理を実行した。もし犯人が、この狂気を「数理モデル」に組み込んだとすれば、久門夫妻の**『愛』、あるいは『愛の裏切り』**もまた、必須の要素となる。

​「そうだ。犯人が完成させたいのは、『愛と裏切りの数理』の証明だ。そのために、彼らは久門静馬の愛を必要としている。そして、その愛の対象は、必ずしも多恵だけではない」

​ 耕介は飛び起き、佐久間警部補に電話をかけるために受話器を手に取った。

​「警部補、俺が掴んだ『最も大きなノイズ』は、**『久門新三郎』**です!」

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