カップの底に映る月

雪乃

第1話

倉柳佳奈はキーボードを叩く手を止め、眼鏡を外して目頭を押さえた。目が疲れやすくなった気がする。(こうやって少しづつ老いていくのかな……)ぼんやりと、佳奈は思う。


自分ではまだまだ若いつもりではいる。しかし年齢には抗いようもないのか。50代に見えないですね、と周囲が世辞を言う。悪い気はしない。趣味の登山では、若い子とグループを組んでも息が上がることはない。旦那と知り合ったのは大学の登山サークルがきっかけだった。


それなりに鍛えているのでプロポーションが崩れたことはない。密かな自慢だった。闇雲に若い世代と張り合おうとは思っていないが、時おり感じる加齢の自覚には憂鬱さを感じた。


「難しい顔してどうしました?」


井上真央が声をかけてくれた。佳奈がケアマネ事務所の管理者を任されてから、ずっとついて来てくれている部下。在籍ケアマネの急な退職で存続が厳しかった時もある。ベテランの真央としてはそんな時でも佳奈のサポートをして、新任の松原の教育もほとんど引き受けてくれた。ほとんど戦友のようなものだ。


「ああ…。なんでもないわよ。ちょっと、疲れたかなあって」


「いつも言ってるじゃないですか。ほどほどに休憩しないとダメですってば」


「あんたには敵わないわね。わかってるつもりなんだけど」そう言って、佳奈は苦笑を浮かべる。


「ただいま戻りました」


ドアが開いた。松原と、続いて斎藤が戻ってきた。


「いいところに帰ってきた」真央の声が弾む。


「どうしたんですか?」松原が井上に尋ねた。


「私ってコーヒー好きでしょう?それでこないだ旦那が買ってきてくれたんだけど…」


そう言って真央が差し出したのはひとつひとつが包装されたドリップバッグのコーヒーセットだった。ロゴにはメーカーのデザインがあしらわれ、上品さが浮かんでいる。


「優しい旦那さんじゃない」倉柳が目を細めた。


「いいですか?旦那さんが買ってくれたのに私たち頂いてしまって」


「みんなで楽しむから、いいんじゃない」

遠慮がちに言う斎藤に真央が明るく応じる。


もっとも若手の斎藤からすれば遠慮もある。佳奈は促した。


「いただきましょう。井上が淹れると美味しいわよ。松原、悪いけどカップを並べて頂戴」


「はい」と松原が応じ、事務所は優雅なカフェタイムとなった。


※※※


珈琲の香りが心地よく、一同の鼻腔をくすぐる。

「本格的なコーヒーってこんなに味違うんですね…」松原が素直な感想をこぼした。


「井上の旦那さんに感謝しないとね」

そう言って、佳奈もカップを傾けた。


「けっこう気をつかってくれて、いいところあるんです」


この事務所の中でいちばん気が利く真央のお墨付きだ。大したものだ。佳奈は思った。一度あったことがある。人当たりが良く似た者夫婦と言ったところか。


ふと、佳奈は自分の夫のことを考えた。決して仲が悪いわけではないが、互いに仕事が忙しい身だ。趣味の登山は子供を連れてよく行ったものだが、最近はお互いの予定も合わない。そう思うと急に真央が羨ましく感じる。


―そう言えば……。松原と斎藤。目の前のこの2人はどうなんだろう。斎藤は、街コンに行っただかなんだか、最近言っていたような気がする。

松原は―よくわからない。気づけば結構長い事働いているのに、そういう話題さえ出ない。

もう30代後半に差し掛かっているのに、焦りとかはないのだろうか。真面目すぎるのは玉に瑕だろうが、顔は整っている方なのに。いや、ひょっとして誰かと付き合っている?


―「主任さん?」


「え?」

不意に松原から声をかけられて、焦ってしまった。


「何か考え事ですか?急に難しい顔して」

そう言って松原は、首を傾げた。そんな難しい顔をしてたか?不覚だった。


「考え事というわけでも、ないけれど」そう言ってお茶を濁したがやはり気になって、聞くことにした。


「あんたはないわけ?……その、結婚を意識したこととかさ」


「結婚ですか?」

きょとんとした顔をしている。考えた事もなかったのだろうか。


「全然浮ついた話もないから、ちょっとは気になるじゃないさ。まあ、プライベートを無理に聞こうだなんて思ってないわよ?」

取り繕うように付け加えた。


「うーん、そうですね……」

しばらく考え込んだ松原は

「良いなと思える人がいればですね。これでも高校生の時に夏目漱石を読んで『月が綺麗ですね』ってセリフに憧れを感じたものです。恋愛に興味が無いわけじゃないですけど」


「……ずいぶん古風な趣味だったんですね。高校生って……」

苦笑しながら斎藤が口を挟む。


「ま、まあそんな人もいるかもしれないじゃない。ね、倉柳主任?」

真央がすかさずフォローを入れた。さすがに気遣いの達人である。


「そうね……」

佳奈は短く答えるしかなかった。


(旦那からの告白は、まんまそれだったけど……)とはとても口に出来なかった。佳奈はそのまま、カップに残った珈琲を飲み干した。

窓の外には、夕暮れの月が輝いていた。

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カップの底に映る月 雪乃 @Yukino_matsu

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