隣の部屋のアーシャ
青葉 柊
第1話 隣の部屋の灯り
その夜、いつものように帰宅したのは、午後九時を少し回ったころだった。
西葛西駅から歩いて十五分。マンションの前に立つと、湿った潮風が頬をなでた。
秋のはじまり。荒川の方角から、ゆっくりと冷たい風が吹いてくる。
エレベーターの中、蛍光灯の白さが少し眩しい。
七階で降りると、薄いカレーの香りが漂ってきた。
この匂いが、いつからか鼻につくようになったのは、隣に新しい住人が越してきてからだ。
鍵を差し込みながら、俊介は小さくため息をついた。
——まただ。スパイスの香りが、壁越しに染みついている。
せっかくの一人暮らしなのに、ここ最近は、夜の静けさに別の生活の音が混じる。
湯を沸かし、インスタントの味噌汁を作る。
壁の向こうから、かすかな音楽が聞こえた。
外国の言葉。旋律はどこか懐かしく、祈るように静かだった。
俊介はテレビをつけるのをやめて、そのまま椅子に腰を下ろした。
スピーカーの向こうではなく、壁の向こうから流れるその声に、
なぜか耳を奪われた。
言葉はわからない。
だが、孤独な誰かが、誰かを思っているような響きだった。
その瞬間、俊介の中で、
この街の“音の地図”が少しだけ変わった気がした。
ベランダに出ると、隣の部屋のカーテン越しに、柔らかなオレンジの灯りが見えた。
風に揺れる影が、植物の葉のように動いている。
ひとつの部屋の中で、誰かが生きている。
たったそれだけのことが、なぜか胸の奥に残った。
翌朝、玄関前でバッタリ出会った。
彼女はマスク越しに微笑んだ。
黒髪を後ろでまとめ、エプロンの端にハイビスカスの花柄が見えた。
「……おはようございます」
思わず声をかけた俊介に、
彼女は少したどたどしい日本語で、
「おはようございます。きのう、すこし、うるさかったですか?」
と、申し訳なさそうに言った。
俊介は首を振った。
「いいえ。……祈りの歌ですか?」
アーシャは一瞬、驚いたように目を見開き、
それから、ふわりと笑った。
「そう。おかあさんの、いのりのうた。インドのうたです」
彼女の声は、風の音よりも穏やかで、
なぜか、その朝だけ、俊介の心に少し陽が差した気がした。
次回 第2話「清砂大橋の風」
――距離を置くつもりだった二人の生活が、思いがけず交わり始める。
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